ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

新年初大掃除


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思い立って新年二日目から自転車の分解掃除を行う。

 

アルテグラスプロケットを分解して、ギアの隅から隅まで丹念に几帳面に徹底的に神経質に磨いて購入当時のシルバーを取り戻す。

 

グレードの高いパーツはどれだけ汚れても掃除すればもとの輝きを取り戻すので、まるで新品を買ったような新鮮な気分になる。

 

丸1日掛かったが後悔はない。

人間交際術

 

色々な立場や性格の人間と気持ちよく交際するための心構えを説いた、200年前のドイツの本。

 

著者のクニッゲは複雑な経歴の持ち主で、宮廷で国家運営の政務に携わったり、作曲家として交響曲をものしたり、職業作家として何冊も小説を出版したり、秘密結社の構成員として精力的に策動したり、43歳という若さで亡くなるまでのけして長くない期間に、バラエティ豊かな経歴を目まぐるしく歩んでいる。

 

 

本書は、宮廷や下町など、色々な場所に出入りして、貴族から奉公人、聖職者や詐欺師まで、多様な立場や性格の人間と幅広く交際してきた著者の、実体験に基づく実用的交際術を分類してまとめたもの。

 

作中で自称する完璧主義は伊達ではなく、およそ考えられうる限りのありとあらゆるシチュエーションにおける交際の心構えについて、重箱の隅をつつかんばかりの念の入れようで、時にくどさを覚えるほど詳細に記述しており、そのボリュームは文庫本サイズで600ページを超える。

 

宮廷や貴族、聖職者や秘密結社といった、200年前のドイツ特有の文化空間や階級の人間との付き合い方など、現代ではなじみのない人種との交際について述べられている部分もあるが、少し主語を入れ替えるだけで、本書の大部分の記述が現代社会でもそのまま通用するのは、不思議を通り越して不気味だ。

 

人々を生まれや門地で区別し、能力や個性を無視して固定された階級や生活レベルに束縛する非合理的な旧弊を打開し、自由で平等な社会を実現しようという先進的な啓蒙運動が当時のヨーロッパ社会を根底から揺るがしつつあり、その結果が現代の世界の有り様を形作ったはずだが、本書の記述の大部分が現代でもそのまま通用するあたり、少なくとも人間の意識レベルではその実態に大きな進歩はないようだ。

 

コミュニケーションに関する著作は根強い人気を誇るカテゴリーで、雨後の筍のように途切れることなく続々と出版されているが、良くも悪くも最近の著作は読みやすく手に取りやすい、表層的なテクニックの要点だけを簡潔にまとめたお手頃ボリュームの小冊が主流であり、本書のように、百科事典と見まがう網羅的ボリュームを誇る大冊はあまり見かけず、汎用性の高さは比べ物にならない。

 

心理学や精神医学といった科学的根拠から導出される理論的記述は時代的に無いが、著者の交際における成功や失敗の実体験に基づく血肉の通った生々しい経験則には、善悪虚実入り乱れる混沌とした人間関係の実地で実証された堅実な実用性が確かに感じられる。

 

人間関係に悩んだときに折々見返す、座右の書としての使用に十分耐えうる質実剛健な一冊。

 

 

 

 

 

141参る 久しぶりの遠出


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友人と一緒に寄居までサイクリング。

 

総走行距離が100キロに迫るロングライドは久しぶり。

 

途中で通りかかるたびに不思議な生え方をしている木が気になっていた神社で141度目のお百度参りを実施。

 

約1年ぶりに寄居を訪れてみると、想定していたより大幅に様変わりしていて隔世の感があった。

 

帰り道にこれまた以前から通りかかるたびに看板を見かけて気になっていたかりん糖工場を訪ねてみると、タピオカを提供するカフェが併設されており、思わぬ場所でタピオカにありついた。

 

山際に沈みかける西日の眩しさに懐かしさを覚えた。

ケープ・フィアー

 

ケープ・フィアー (字幕版)

ケープ・フィアー (字幕版)

  • 発売日: 2014/03/15
  • メディア: Prime Video
 

 14年の刑期を終えて出所した残忍なレイプ犯・マックスが、かつて自分の弁護をした際、私情を挟んで故意に手抜きをした弁護士とその一家を、復讐のために執拗に追い詰めていくサイコスリラー。

 

意図せず、前回見たマラヴィータと主演のロバート・デニーロがかぶった。

 

今回のように、特に意識していないのに、ある期間に見た映画の特定の出演者がやたら重複する現象が時々起こるが、今回はロバート・デニーロがそうらしい。

 

狡猾なマックスは、陰湿な謀略を張り巡らし、人の心に巧みに取り入る手練手管を駆使して関係者を罠に陥れ、弁護士一家の虚飾にまみれた偽りの平和を一つ一つ壊していき、破滅へ向かって徹底的に追い詰めていく。

 

復讐の発端は、文盲のマックスが、刑務所内で文字を覚え、自分の裁判記録を見返したところ、弁護士がマックスの犯行に対する個人的な嫌悪感でマックスに有利な証拠を隠滅し、故意に懲役を長引かせたことに気づいたことだ。

 

弁護士への強い恨みに燃えたマックスは、刑務所でストイックに勉学に励み、一流の文学の教養や本職の弁護士を翻弄できるほどの法律知識を習得するとともに、大人数の暴漢に囲まれても返り討ちにできるほど強靭な肉体を鍛錬によって手に入れ、暴力と狡猾さを兼備した文武両道の復讐の鬼へと己を昇華する。

 

マックスは残忍で好色な本性を巧妙に隠して魅力的な好漢を装い、弁護士の愛人や娘に言葉巧みに取り入り篭絡し、弁護士一家を追い詰める道具にしていく。

 

人々を魅了し、一方で平然と人情を踏みにじり弄ぶ、人間心理への深い理解と相反する冷徹な酷薄さが同居する矛盾した人間性は、典型的なサイコパスの特徴を示している。

 

キャラクターとしてのマックスは、ロバート・デニーロの鬼気迫る怪演で迫力と凄みはあったものの、ありきたりで教科書的なサイコパス犯罪者の類型から逸脱するものではなく、凡庸な印象を受けた。

 

だが、1991年という公開時期を考慮すると、サイコパスという名称や、それが指し示す人物像が現在よりも人口に膾炙していなかったはずであり、当時としては、教養豊かな高い知性と健康で強力な身体能力を併せ持つ有能な人間が、道徳を鼻で笑うような凶悪な犯罪に手を染める悪魔のような本性を持ち、市民の安寧を脅かす存在として大手を振って跋扈するという本作のストーリーは、サイコパスという概念が精神医学の専門知識ではなく、一般教養に落ち着くまで各種メディアで消費しつくされた現代よりも、にわかには受け入れがたい異様な怪物譚として、強い不安や嫌悪を催させる衝撃的な作品だったかもしれない。

 

作品内容は別にしてロバート・デニーロが無茶苦茶いかり肩なのが個人的に気になった。

 

役作りの一環なのだろうか。

 

もしかすると、またロバート・デニーロが出演する映画にあたるかもしれないので、このいかり肩が役作りによるものか、ロバート・デニーロの個人的な姿勢や動きの癖なのか、注意してみようと思う。

 

 

 

 

バグダードのフランケンシュタイン

日本ではあまりお目にかかれない、イラク作家の小説の日本語訳。

 

つぎはぎした人間の遺体が動き出した怪物、いわゆるフランケンシュタインの怪物が、イラク戦争終結後の世情の混迷を極める首都バグダードに現れるという物語。

 

世間から便宜上「名無しさん」と呼称されるこの怪物は、元々は、爆弾テロで街角に四散した人間の残骸の断片を、地元のほら吹きの古物商ハーディーが拾い集め縫いつなぎ、かろうじて一個の人間ぽい形に成形したもので、本来ならただの腐りかけの肉片の不細工な寄せ集めに過ぎない。

 

だがそこに、何の因果か、他の遺体と同じように爆弾テロで死んだホテル警備員の魂が入り込み、突如として動き出した挙句、自身を含む怪物の部品となった人々の遺恨の集合体として復讐のための連続殺人を始めたことで、ただでさえ混乱の渦中にあるバグダードは、その度合いをより色濃くしていく。

 

この「名無しさん」という超常の怪物が、本作において重要で存在感のある重要なファクターであることに間違いはないが、表題の指す「フランケンシュタイン(の怪物)」にはさらに大きな含意がある。

 

物語が展開するにつれ、「名無しさん」が、本作の主題や着想を可視化した比喩的な存在に過ぎず、彼もまた、この「バグダードフランケンシュタイン」という、多様な人間や状況の寄せ集めの物語、つまりフランケンシュタイン的な構造の物語における部品に過ぎないことが明らかになっていく。

 

破壊され機能を停止した異質な要素の残骸の寄せ集めが、一個の機能する存在として成立しているフランケンシュタイン的理不尽が、「名無しさん」は当然として、本作のどこをどのように切り取っても顔を出す。

 

だが、その物語構造としてのフランケンシュタインの顔にも、「名無しさん」の顔にも、定まった造作というものがない。

 

物語の過程で破壊されて散り散りになっていく事態や状況の断片を、時間経過で腐り落ちていく部位の補修素材として拾い集め置き換えていかざるを得ないフランケンシュタイン的物語の顔は、常時変化の過程にあり、またその変化には終わりというものが一向に見えてこない。

 

「名無しさん」も、混迷の一途をたどる一方で収拾は一向につきそうもない物語の様相を反映して、当初はシンプルだった目的と動機が、腐って崩れていく自身の補修のため取り込んだ新たな残骸の意向も混入することでどんどん複雑化し、明確で単一だった到達点が際限なく増殖し、達成のめどが遥か永遠の彼方へ遠のいていくことに困惑し、途方に暮れてしまう。

 

これは、絶え間なくスクラップアンドビルドが繰り返され、奇怪で物騒でいっかな安定しない様相を呈する、制御不能の暴走状態に陥ったイラクの現状の縮小された投影である。

 

イラクの現状の寓意が「バグダードフランケンシュタイン」という物語であり、「バグダードフランケンシュタイン」のテーマの擬人化が「名無しさん」という入れ子構造になっているのだ。

 

破壊されたそれぞれが異質な遺骸の断片を寄せ集め、人間の形に整えたところで、本来ならよみがえる道理はなく、依然として遺骸は遺骸であり、不気味で不潔で不快を催す存在ではあっても、向こうから何らかの意図をもって積極的に危害を及ぼすような危険ではない。

 

だが、現実世界はそうではない。

 

事故や戦争がどれだけ社会を痛めつけ破壊し断片化しようとも、人々が生活を取り戻そうとその残骸を寄せ集め形を整えると再び社会として動き出す。

 

だがその自然な欲求に基づくスクラップアンドビルドに、遺恨や憎悪といった破壊を志向する不純物が混入すると、動き出した社会は歪な怪物的状況と化して新たな破壊の拡大再生産をもたらし、自らが生み出した犠牲者を取り込みながら肥大化と醜悪化の一途をたどる、極めて悪性の高い悪循環を形成する。

 

だが本作には、本作をイラク社会がドツボにはまっている世知辛い理不尽をエンターテイメントに翻訳した憂鬱な寓話で終わらせず、フランケンシュタイン現象とも呼ぶべき世情の際限なき怪物化の悪循環を断ち切る、あるいは円環の閉鎖から脱出する道を提示していると思われる描写もあり、作者がイラクの未来についてまるっきり悲観しているだけではないような、前途有望な明るい印象も垣間見える。

 

イラク文学というものに接する機会がこれまで全くなく、基礎知識がないので、文体や作品が醸す独特な雰囲気が、イラクの風土に根差す文化的なものか、作者や作品に根差す個人的・個別的なものなのか判別できないが、おそらく両者が混交したフランケンシュタイン的な作風とするのが、本作を読んだ後の分析としては妥当かもしれない。

 

イラク社会の置かれた過酷な現状の本質を直観的に把握できる、実用的寓話。