四……五重アゴ?
梅雨の晴れ間とたまの休みが重なったので、当てもなくふらふらとサイクリングへ繰り出す。
青空と千切れ雲と田んぼがいい感じに三拍子揃って好対照する風景に思わず立ち止まる。
以前から行こう行こうと思っていた少し遠距離にある図書館へ行ったらちょうど定休日で空振りに終わる。
図書館の前には動物の銅像が並んでいた。
そのうちの一つがこれ。
アザラシが首をすくめた一瞬を切り取った作品。
よりにもよってこの瞬間を題材に銅像を作るセンスがうらやましい。
二重アゴどころではない多重アゴで、いざ数えてみようと思ったらアゴの数え方がわからず戸惑う。
アザラシのアゴの数え方すら満足にわからない己の不甲斐なさにしばし絶望に浸り、いつもよりゆっくりと自転車をこいで帰途に着く。
映画『1917 命をかけた伝令』
どんな映画?
1917年の第一次世界大戦におけるフランス戦線で、待ち伏せするドイツ軍の罠に今にも飛び込まんとする連合国軍の前衛部隊を引き留めるため、攻撃中止命令を携え敵陣を突っ切り危険な伝令を務めた二人の若き兵士の決死行を、全編ワンカット撮影で描く。
感想
映画を映画として楽しめるタイプの映画好きなら、映画製作に用いられた撮影や演出等に係る技術面の情報を事前に仕入れて、製作スタッフが知恵を絞り丹精込めた珠玉の趣向の数々を鑑賞中に堪能できる。
だが、このようなメタ情報の先入観は、映画が作りものの娯楽フィクションだという身も蓋もない一面を強調し、鑑賞者を客観の視座へ縛り付け、臨場感はともかくとして、没入感を損ねる諸刃の刃でもある。
その点本作は、全編ワンカット撮影というメタ情報を念頭に置くことで、むしろ映画への没入感が一層深化するという、技巧と物語がものの見事に調和し、絶妙の相乗効果を成す奇跡の一作となっている。
全編ワンカット撮影においてミスは許されない。
そして、本作において、1600人の生死に関わる伝令を務める二人の兵士もまた、ミスを許されない立場に置かれる。
「ミスが許されない」という点で、映画製作の事情と、役柄としての兵士の事情が完全にシンクロし、「迫真」を越えた、「真」そのものの緊張感が、本来作りものであるはずの映画に熱く脂ぎった血潮を通わせる。
全編ワンカット撮影において、不慮の事態は排除するに越したことはない。
だが、本作ではあえてコントロール不能な要素をそこかしこに突っ込み、事情を知る観客の緊張を煽る。
ただでさえバランスをとるのが難しい崩れた橋のトラスの上を渡ったり、いつぐずりだすかわからない赤ん坊と絡んだり、乱流が岩にぶつかり飛沫を上げる急流へダイブしたりと、万全の状態でも一発OKが出ない場合が十分にあり得るシチュエーションが次から次へと役者に降りかかる。
それらの難所を一つまた一つと失敗せずクリアするだけでなく、表現者として各々のシーンに込められた意味を抒情豊かに体現するという難行をやり遂げたジョージ・マッケイの胆力と体力は怪物じみている。
ワンカット撮影において役者が大変なのは自明だが、裏方の苦労も壮絶だ。
この短いメイキング動画を見るだけでも苦労が忍ばれる。
全編ワンカット撮影という技法の採用で製作スタッフに自ずと生じる本物の緊張感が物語に転移し、よくできたフィクションを、生々しい戦場ドキュメンタリーの次元へ羽化させる。
少しでも失敗すれば自分はもちろん、戦友も巻き添えになるという取り返しのつかない連帯責任が、制作の次元でも物語の次元でも重々しい緊張を全編にもたらす。
この緊張は観客にも伝播し、息も絶え絶えに奔走する若い兵士を自然と応援し、彼らの幸運を祈りたくなる切なる気持ちを否が応にも駆り立てる。
観客を映画の核心へ引き込むために、必要とあらば相当のリスクを請け負い乗り越える、サム・メンデス監督と製作関係者の、筋金入りのエンターティナー魂には頭が下がる。
終わりに
技術の命は難易度ではなく成果に宿る。
全編ワンカット撮影という技術だけが独り歩きしがちだが、本作においてこの撮影技術は主ではなく、あくまで従にあたる。
メインの味を最高に引き出す、恐ろしく凝った付け合わせだ。
物語と100%のシンクロ率で、100年前の戦争の渦中にどっぷり浸る、VRも及ばない臨場感と没入感を味わえる良作。
余談
ラストシーンの大樹が怖い((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
マリトッツォの奇妙な冒険
いま話題のマリトッツォを近所のベーカリーで発見し試しに購入。
話題になっているみたいだが、「話題になっている」という情報を、いつどこで仕入れたのかどうしても思い出せず、新手のスタンド攻撃を受けるのと同等に奇妙な恐怖と不安に苛まれる冒険。
美味しかったので恐怖と不安は払拭された。
本『投影された宇宙』
どんな本?
通常の科学では説明困難な既存の物理学的現象や心理学的事象を説明する共通原理として有力視される、非局在性を本質とするホログラフィックな宇宙観について解説する。
感想
本書が解説するホログラフィック・ユニヴァースという宇宙観の前提にあるのはホログラムだ。
ホログラムとは、未来を舞台としたサイエンス・フィクションの小道具でおなじみの立体映像テクノロジーとして(私を含む)世間には認知されているが、実のところ、立体映像はホログラムのテクノロジーの核心からすれば派生物や副産物に過ぎない。
ホログラム、つまりホログラフィック・テクノジーの核心とは、情報の記録様式である。
ホログラムは、単一のレーザー光が、二本の光線に分割されるときに作られる。最初の光線は撮影される対象の物体に当てられ、反射する。次に二本目の光線を、最初の光の反射光と衝突させる。この時に干渉パターンが生じ、それがフィルムに記録されるというわけだ。
(本書8ページより引用)
こうして記録されたフィルムには、通常の写真と違って撮影対象の像とは似ても似つかない干渉縞(モアレ)が投影される。
だが、このモアレにレーザー光や光を当てると撮影対象の立体映像が出現する。
通常の写真が二次元であり、奥行きが無く裏面を見られないのに対し、この立体映像は奥行きがあり、裏側を眺めることもできる。
このようにホログラフィック・テクノロジーは対象物の情報の一面や一部ではなく総体を記録し、再生できる様式なのだが、本書が主題とするホログラフィック・ユニヴァースを理解するには、ホログラムの深奥へさらにもう一歩踏み込む必要がある。
ホログラムが記録されたフィルムには立体映像を投影する性質のほかに、フィルムを分割したその一部からでも、撮影対象の全体像を投影できるという性質がある。
当たり前の話だが、普通の写真を半分に切れば、それは撮影対象が半分だけ写った写真となり、残り半分の情報は失われてしまう。
だが、ホログラムのフィルムは半分に切っても、その半分から撮影対象の全体像を投影できるのだ。
これはホログラムのフィルムを4分の1、8分の1と、どんどん分割していっても同じである(ただし投影された映像の解像度は落ちる)。
つまり、ホログラムに記録された情報には、部分と全体の区別が無く、部分に全体が内包されるという、にわかには理解しがたい性質があるのだ。
この、部分と全体の区別が無い=非局在性という特殊な性質を宇宙に当てはめてその本質を理解しようとした宇宙観が、ホログラフィック・ユニヴァースという概念となる。
砂の一粒に世界を
そして野の花に天界を見る
手のひらに無窮をつかみ
そして一時間の中に永遠を感ず
(本書54ページより引用)
本書に引用されたウィリアム・ブレイクの有名な詩が、ホログラ厶の特異な性質を的確にに表現している。
そもそもの始まりは、心理学と量子力学における、ホログラフィックな性質の発見がある。
脳における記憶の不明瞭な所在や、距離を無視した量子の不思議な振る舞いは、局在性を前提とするとどうしても説明できないのだ。
そこから発展して、ホログラフィックな性質が、心理学や量子力学だけでなく、その他の様々な領域の現象にも矛盾なく適用できることがわかった。
この考え方を推し進めると、この宇宙の根底にはホログラフィックな性質があるという、ホログラフィック・ユニヴァースという宇宙観に統合される。
この宇宙観によれば、我々が目で見て手で触れている現実世界は、宇宙の要素をすべて含む「宇宙ホログラム」から、我々の意識が勝手に想像している「世界とはこういうもの」というイメージに沿う側面だけを抽出して投影した、質量を伴う立体映像みたいな代物ということになる。
この宇宙観は、これまでの科学では鬼門であった、超能力や心霊現象といった、いわゆるオカルトに分類される超常現象の理論的説明にも道筋をつける可能性をもたらし、本書の記述もそこに力点が置かれている。
冒頭はなじみ深い科学の文法に則り、革新的な概念ではあっても、提唱されるホログラフィック・ユニヴァースという概念について、さほどの抵抗感は感じずスムーズに読み進められるが、超能力とか平衡宇宙とか生まれ変わりとか高次元とかUFOとか臨死体験といった、超常・心霊現象に話が及ぶと、雰囲気がスピリチュアルでオカルティックに転調し、読む人によってはアレルギーを起こしかねない怪しげな方向へ論旨が雪崩を打つ。
このような突拍子のない見解に客観性を付与すべく、収拾に費やした努力のすさまじさが伺える膨大な例証をふんだんに列挙し、詳細な検証を添え、超常・心霊現象を従来の科学の俎上に載せ同列に語ろうとする著者の、実直な熱意は敬服に値する。
だが、その記述の端々には、素人目にも明らかな検証方法の不備や論理の穴が散見され、神秘主義に傾倒した人間にありがちな「見たいものを見る」傾向を払拭しきれてはいない。
個人が世界を相手取り、更には覆す可能性すら示唆するホログラフィック・ユニヴァースの宇宙観は、一昔前に流行したライトノベルの一大潮流であるセカイ系の宇宙観と軌を一にする。
この一致を、厳然と実在する宇宙の真理を、優れた感性や深い洞察の持ち主が異なる視点と表現で具象化した同工異曲として好意的に解釈することも可能だが、そこにはなにか、もっと卑俗な事情が混じった生臭い感触がある。
本来、部分が全体に変革を及ぼすには、それ相応の理由が必須である。
超能力や平衡宇宙や生まれ変わりや高次元やUFOや臨死体験やホログラフィック・ユニヴァースやセカイ系ライトノベルに通底する要素は、過程の省略である。
例えば念動力という超能力を例にとれば、離れた場所にある物体を触れずに動かすという現象は、物体への十分な接近とそれにかかる時間とエネルギー、そして操作自体に必要な時間とエネルギーの消費という、必須の過程を省略した現象だ。
セカイ系ライトノベルは、個人に類する部分に過ぎない矮小な存在が、物理法則や因果関係を無視した突拍子もない超常の能力や現象を利用して、膨大な労力と手続きと時間を要する順当な過程を省略し、世界を変革する物語である。
両者の根底に透けて見えるのは、身の程知らずと横着だ。
瞠目の大事業を成し遂げたり、行き詰った現状を一気に打破したいが、相応の才覚と労力を要求する正規の手順は踏みたくないという、怠惰で虫のいい欲求が臆面もなく顔をのぞかせる。
ホログラフィック・ユニヴァースは、そんな虫のいい欲求にまやかしの活路を提示し、慰めを与えてくれる福音としては、非常に筋の通ったドグマである。
ただし、そんな虫のいい欲求を受け入れてくれるほど、現実は甘くない。
仮にホログラフィック・ユニヴァースが真理であり、個人の理想が過程を省略して即座に反映される余地がこの宇宙にあるとしても、実際の世界ではほとんどの場合においてそうならないのは、インスタントな因果の直結を拒否する勢力が大勢を占め、秩序を志向する理想がホログラフィック・ユニヴァースの実際の在り様を規定しているからだろう。
ホログラフィック・ユニヴァース自体が、ホログラフィック・ユニヴァースの本質が露骨に体現されたバーリトゥードな因果直結型の宇宙を否定する論拠として矛盾しないというのは皮肉である。
終わりに
高尚な意識がインスタントに世界を理想郷へと変革するホログラフィック・ユニヴァースという宇宙観は、多くの問題が錯綜し複雑怪奇の様相を呈する現代世界においては、快刀乱麻の解決力をもたらす、魅力に溢れた夢の概念だ。
半面、ホログラフィック・ユニヴァースには、世界の変革を志向する人々に正攻法を放棄させ、浮世離れした益体のない努力に傾倒させる魔的な一面もある。
全体性に囚われるあまり、些細だが確実に世界を塗り替えていく地道な営為を軽視するようでは本末転倒も甚だしく、そういった観点からすると取扱いには細心の注意を要する宇宙観とも言える。
スピリチュアルやオカルトを取り扱った著作としてみるなら、本書は豊富な情報を満載したエンサイクロペディア的な楽しみ方もできる。
見方によってさまざまな様相を見せる奥深い構成は、ホログラムを題材とした著作に相応しい。
気ままにサイクリング
十連勤をやり遂げ、梅雨の晴れ間にも恵まれ、久しぶりにサイクリングに繰り出す。
およそ60キロ強を走り、体のあちこちから悲鳴が聞こえ出したところで帰宅。
ホイールのリムを研磨したおかげでブレーキの異音が無くなり、終始快適だった。
研磨に使用したラバー砥石はこちら。
ラバーなのに石とはこれ如何に。