ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

本『死物語 下』

どんな本?

化物語モンスターシーズン最終章下巻。

 

上巻の感想はこちら。

 

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かつて蛇に呪われた少女、千石撫子は、呪いの大元である洗人迂路子(あらうんどうろこ)と会い、因縁に決着をつけるため、臥煙伊豆湖の指示を受け、パートナーである斧乃木余継と腐れ縁である貝木泥舟とともに沖縄は西表島へ赴く。

 

感想

上巻が目に見えない感染症による緩慢な死がテーマだったのに対し、こちらは目に見える過酷な自然環境によるド直球な死がテーマとなる『死物語』。

 

上巻の構成を踏襲してか、本シーズンの裏ラスボスに相当する洗人迂路子との対決そのものの分量は体感的には少なめで、撫子の無人島(?)サバイバルの精細で稠密な描写が紙面の相当の部分を占める。

 

文明社会から切り離された一人の少女が、命からがら絶海の孤島で生活基盤を一から構築するドキュメンタリーとしては出色の出来で、呻吟の末に、初めて火を手に入れるパートは涙なくしては読めない。

 

純粋な過酷さでは、千石撫子はシリーズを通して一番リアルな苦労を強いられたキャラクターかもしれない。

 

本書の冒頭で、千石撫子というキャラクター誕生のコンセプトと、その後の肉付けについて、メタ的な解説、もといぶっちゃけ話が、型破りにも本人のモノローグで語られるが、他のキャラクターと比較すると薄弱だったキャラ付けを、後付けで埋めて横並びにしようとした反動が、この虐待じみた現状の遠因となっている。

 

化物語のヒロインに共通する基本コンセプトに、「被害者であり加害者でもある」という設定があると作中で明言される。

 

千石撫子には「被害者」の面しか無かったと明かされ、アニメ化の恩寵で人気が出たことを受け、他ヒロインとの人間味の深みをそろえるため、加害者の特性を獲得し、あるいはそれぞれの特性をより顕著にする、あれやこれやの物語が付加されたようだ。

 

人間性を陶冶するための修行パートや苦労パートはお約束だが、漫画家志望の文系引きこもりをいきなり無人島生活にぶっこむという展開はハードそのもの。

 

作者お得意の冗長なまでに精細な描写がその労苦を隅々まで網羅している分、痛々しさは格別で、読んでいて胸苦しくなるほど。

 

しかも文字通りの裸一貫で漂着したとあっては、無人島生活に加えて原始生活のハンディキャップまで負う二重苦だ。

 

サバイバルに精通した専門家でもなければ早々に音を上げ、あるいは音を上げる間もなく死んでいてもおかしくない、掛け値なしの死線に臨んでいる。

 

ただ、その見返りが死線に見合ったものだった点が救いだ。

 

メタ的にも救いだったし、物語的にも色々な意味で救いとなった。

 

陰陽、表裏、葛藤、矛盾、優等劣等。

 

レイニー・デヴィルや忍野扇と同質の、二元性に出自を持つ怪異の中でも極めつけであり、「なんでも知っているおねーさん」こと臥煙伊豆湖すら「迂回した」、洗人迂路子に、二元ならぬ二次元のエキスパートである漫画家(志望)の千石撫子がカウンターとして対峙する展開は熱い。

 

終わりに

時系列は上巻と前後するが、スタートが後発だった分、化物語ヒロインの中でも著しく成長した千石撫子の怪異専門家としての一応の修成と、漫画家としての門出を描いた本作は、徹頭徹尾、シーズンの末尾を飾るにふさわしい区切りとなっている。

 

年頃の少女が全裸で無人島生活という、倫理上映像化不可能な内容なのが残念でならない。

 

シャフトの美麗な作画で、火を得るために無限ピッチングマシーンと化した千石撫子の流麗な投石フォームをアニメーションで一目拝みたかった。

本『死物語 上』

どんな本?

化物語モンスターシーズン最終章上巻。

 

下巻の感想はこちら。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

 

 

死を超越した怪異の王族たる吸血鬼を冒す死病が、忍野忍こと旧キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの親筋に当たる、デストピアヴィルトゥオーゾ・スーサイドマスターを死へと誘う。

 

血族の絆でデストピアの窮地を察した忍野忍と、その主従たる阿良々木暦は、盟友の命を救うため、かつてキスショットの前身が滅ぼしたアセロラ王国(仮)を目指し、コロナ禍によって断絶した海を越え、ヨーロッパへ渡る。

 

感想

死物語という字面で、「しにものがたり」かと思っていたが、よくよく読んだら「しのものがたり」で、今作のメインを張る忍野忍の名前に掛かっていた。

 

時間軸も時系列も次元も無視し、メタ発言が当たり前のように自由自在に飛び交う独特の世界観は今作でも絶好調。

 

時系列では、前シーズンのオフシーズンの過去に当たるモンスターシーズンだが、昨今のコロナの惨状を物語の背景とテーマの中核に色濃く取り入れた、リアルタイムの世相を反映した新鮮な内容となっている。

 

コロナ関連の情報を色濃く取り入れすぎて、体感としては文中の八割方が、コロナの知識や感染対策、社会生活や国際情勢の変化の情報で占められ、さながら国が発行した白書の様相を呈しており、物語の本筋の容量自体は少ない印象。

 

とはいえ、暦と忍の掛け合い形式で進むコロナ情勢の解説は、非常に面白いだけでなく分かりやすくまとまっていて、復習にはもってこいの内容になっている。

 

今となっては日常に馴染んでその一部となってしまったコロナだが、こうやって表現力と語彙力と構成力に優れた作家の手で文字に起こしてもらうと、いまだ全容の掴めぬ深刻な脅威と、広範な対策を要する厄介さ、そしてニューノーマルという言葉で総括される社会の大規模な変容が再認識でき、緩みかけていた警戒心が改めて引き締まる。

 

TV、インターネット、SNS、新聞、政府広報、あらゆるメディアがコロナの情報を途切れなく怒涛の勢いで供給し、いやが応にも受け手にならざるを得ない立場として、コロナについてはそれなりの知識を有し、最適には及ばずとも的外れにはならない程度にはパンデミックに対処できていたつもりだが、本書を読むと、それは過信であり、悪くすれば実情からかけ離れた誤信であったと思い知らされる。

 

数百年を閲し、太陽を克服した吸血鬼ですら、目に見えぬ感染症には最大限の警戒を敷く世の中なのだから、定命の凡夫は用心するにしくはない。

 

終わりに

声に出して読みたい吸血鬼の名前ランキング殿堂入りのお二方(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードデストピアヴィルトゥオーゾ・スーサイドマスター)の名前が事あるごとに紙面を飾り、読んでいて小気味いい。

 

物語の最後に描かれる二つの卒業は、晴れがましくも切なく、シーズンの最終巻を締めるにふさわしい。

 

『死物語』の題名通り、死を招く感染症をテーマとした本だが、死の精細な描写は、対置する生の解像度も鮮明にする。

 

生に倦みやすい現代社会では、生の復権を図り、その価値を声高に謳おうとも、効果のない過剰供給に陥ってしまう。

 

空腹が最高の調味料と言われるように、死こそが生に価値を与える逆説的真理に思いを馳せずにはいられない死の物語。

胸を打たれる×2


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通勤途中に胸を打たれた風景×2。

 

一枚目は雲一つない青空のど真ん中を突っ切って鮮やかな航跡を描く飛行機と太陽のコラボレーション。

 

二枚目は山際にかかった夕日の控えめな煌めき。

 

肉眼でも胸を打たれる美しい風景だったが、最近のスマホカメラはAIが自動で補正してくれるのか、画像は画像でまた違った印象となり改めて胸を打たれる。

 

一粒で二度打たれるお得な時代になった。

 

本『巨人・スウェデンボルグ伝』

 

どんな本?

スウェーデンが生んだ稀代の科学者にして神秘思想家、エマニュエル・スウェデンボルグの生涯の足跡と広大無辺の思想を丹念に辿る珠玉の伝記。

 

超常の異能や神秘思想への傾倒の影に隠れてしまった、有能な行政官にして超先進の科学者でもあったスウェデンボルグの実像にも光を当て、多岐に渡る膨大な功績を総括した渾身の労作。

 

感想

初めてスウェデンボルグのことを知ったのは、石ノ森章太郎のマンガ・サイボーグ009だった。

 

マンガの中のスウェデンボルグは、時を越えて様々な時代に干渉する神のようなタイムトラベラーとして描かれており、最後までその正体は明かされず、人類の歴史を左右する底知れないフィクサーとして描かれていた。

 

その次にスウェーデンボルグの名に接したのは、秋田禎信の小説・魔術師オーフェンシリーズに登場する人間へと零落した半神半人、スウェーデンボリーだった。

 

ここでも尋常ならざる力と人智を超えた深謀遠慮で物語をかき回す、底知れないトリックスターとして描写されている。

 

こうやって振り返ると、スウェデンボルグという存在に生涯でまともに接したのは都合二回だけであり、どちらも大胆に脚色された創作の登場人物としてであり、モデルとなった本物のスウェデンボルグについては正味全くの無知といってもいい。

 

にもかかわらず、スウェデンボルグの印象は邂逅から今日まで、数十年を閲してもまったく色あせず、心の一等席に居座り、もはや神格を得ている。

 

一度耳にしたら鼓膜に染み付く、仰々しくも妙に軽やかな響きの名前の効能もあるだろう。

 

墾田永年私財法とか、スリジャヤワルダナプラコッテとか、難しくて長ったらしい割りに、音の響きと軽快なリズムのおかげで忘れられなくなってしまう類の名前だ。

 

だがそれだけが堅固な記憶の理由ではない。

 

百冊を超える著作をものし、スウェーデン経済の屋台骨を支える鉱山局の高官として確固とした地位にあった歴史上の科学的・政治的要人でありながら、オカルティックな言行で世間の人々を驚愕させる奇人というのは、異端中の異端として鮮烈な印象を接する者に与えずにはいられない。

 

オカルト、いわゆる神秘思想や超自然現象は科学至上主義の近現代社会の風潮とは折り合いが悪く、自然とその関係者にも塁が及び、不当な評価が下されやすい。

 

スウェデンボルグが生きた時代と土地では、宗教の権勢は衰退の兆しを見せつつも健在であり、科学の発展も端緒に就いたばかりで、現代よりはオカルトが許容される環境であったが、その中にあっても、スウェデンボルグという存在は異彩を放っていた。

 

本書を読めば、スウェデンボルグがそういった不当な扱いの末に、歴史の表舞台から押しのけられ、楽屋裏で不遇に甘んじた典型例だとわかる。

 

現代での無名ぶりはともかくとして、在世中の彼は多くの権力者から一目置かれる要人中の要人だった。

 

有能な政府高官として国務で辣腕を振るい、一方で科学者としても解剖学、物理学、化学、鉱物学、機械工学、生理学、心理学に至る様々な分野で頭角を現し、近現代の科学の天才たちが知性の限りを尽くしてようやく辿り着いた真理(相対性理論におけるエネルギー論や、脳の運動野の特定、星雲説など)にも、科学の黎明期にあった250年前の時点で既に妥当な推論を辿って到達していたというから、その鬼才と超人ぶりは揮っている。

 

本来なら政治史にも科学史にも思想史にも燦然と輝く功績が刻まれていてもおかしくない掛け値なしの偉人でありながら、現代にあっては正確な実態について世間に知る人は少なく、偉人ではなく奇人としてのエピソードばかりがクローズアップされ、SFやファンタジーに引っ張りだこのイロモノ扱いが定着してしまっているのは残念極まりない。

 

とはいえ、残念ではあるものの、イロモノとしてのスウェデンボルグのエピソードに、創作者の琴線に触れる強烈な魅力があるのは否定しようがないし、そもそもスウェデンボルグと私の出逢いがその残念なイロモノ扱いの所産のお陰なのだから文句のつけようはない。

 

イロモノ的な有名エピソードはいくつもあるが、代表的なのは、スウェーデンのユルリカ女王と、彼女の兄にあたる亡きフリードリヒ大王の、余人のあずかり知らぬごくごく私的なやり取りについて言及し、更には死後の大王からの言伝を女王に伝え、それを聞いた女王が驚愕したというエピソードだ。

 

晩年のスウェデンボルグは日常的に死者の霊たちと交流し、天国や地獄といった冥界の事情や世界の真理について情報を収集し、最終的なライフワークと定めた聖書の新解釈に役立てていたという。

 

こう書くと、彼が浮世離れしたオカルト趣味に傾倒した社会不適合者のようにとられかねないが、実際は真逆だ。

 

非常に多くの人々と盛んに交際した群を抜く社交家で、徒歩と馬と船が交通手段だった当時にあって、交友範囲は国境や海をまたぎ遠く外国にまで及んでいた。

 

それだけでなく、著作や伝聞を介して、直接面識のない人々や後生の思想や信条にも大きな影響を及ぼしている。

 

カントやゲーテドストエフスキー、エマーソン、果ては日本の禅の大家、鈴木大拙といった錚々たる思想界の大物たちが、洋の東西、陸の南北、時の遠近を問わず、スウェーデンボルグの神秘思想に注目し、その影響を受けていると言明している。

 

このように様々な偉人から功績や思想の素晴らしさを賞賛されながらも、世間的にはほとんど無名なのは、スウェデンボルグがあまりに巨大な存在であることも無関係ではないだろう。

 

あるものの大きさを測るには、相応の長さの物差しが必要だが、こと現代に至っても、彼の正確な寸法を測るに十分な物差しはまだ無いようだ。

 

彼の業績の巨大さを示す一つの例として、1910年にイギリスで開催された国際スウェデンボルグ会議の規模が挙げられる。

 

会議には、20部門、400人の学者・思想家が集結し、彼の業績を20世紀の立場から検討した。

 

当時から見て、既に150年も昔の、それも一人の人間が成し遂げた業績を検討するのに、それだけ多岐に渡る専門家が雁首揃えて大挙し、ひざを突き合わせなければならなかったというのは、寡聞にして他に例を聞かない。

 

表題で冠する「巨人」は、無知な輩を恐れ入らせる大げさな修辞ではなく、スウェデンボルグの科学界・思想界におけるスケールの大きさを端的に言い表した、これ以上なく正鵠を射た適切な形容なのだ。

 

ニュートンが自身の学術的功績について、「巨人の肩の上に載った矮人」というメタファーを引用して謙遜した逸話があるが、その例に従えば、我々の誰もが、いまだスウェデンボルグという巨人の肩にまでたどり着けていないでいるばかりか、その頭頂の在処すら視界に収められていないでいる。

 

本書は、その全容定かならぬ茫漠とした巨人の輪郭を明確に描き出す、途方もない知的探索を試みる。

 

なんせ、著作だけでも百冊を超える知の巨人であり、さらに携わった分野は多岐に渡り、それでいてそれぞれの分野における造詣が極めて深く独創的ときては、資料を収集し、内容を咀嚼するだけでも、並外れた学際的知性を要し、且つ辛労を費やす難行となる。

 

そこへきて、スウェデンボルグが晩年巨人としての総力を傾注した難解な神秘思想が加わるとなれば、いよいよ既知の領域をなぞる探索から、未知の領域へ踏み出す探検の様相を呈する。

 

一歩踏み違えれば、無限に広がる知の密林に遭難しかねない危険な旅路を、著者は堅実な努力で踏破し、後に続く読者のために道を開拓する。

 

敷かれた舗装路は非常に歩きやすく、望む眺めも風光明媚だが、それでも道のりの長さだけはいかんともしがたい。

 

正直、一度読み通すだけでも非常な体力を消耗した。

 

著者が十分に解きほぐし、流動食のレベルにまで磨り潰した読みやすい内容でありながら、一貫した理解ができたとは到底言えず、今は2周目に挑戦している。

 

そんな浅薄な読み込みなので、感想はどうしても皮相的で的外れになってしまうが、それでもこれだけの分量になってしまうのは、やはり本書の内容、ひいてはスウェデンボルグの業績と思想が、どれだけ希釈してもなお濃厚な味わいを保つ、恐ろしいほどの密度と奥深さを備えているからだろう。

 

面白いのは、スウェデンボルグを語る上で欠かせない、彼の霊媒能力や千里眼を、彼自身は全く特別視していなかった点にある。

 

普通、オカルトに傾倒する動機の一つに、常人からの逸脱への憧憬がある。

 

仮に霊媒能力や千里眼といった超能力が、多くの人々が当たり前のように持つ視力や聴力と同じ次元の普通の能力だったとしたら、ここまで信仰を集め、特別視される謂われはない。

 

霊媒能力や千里眼といった超能力の持ち主は、その真偽は別として、単なる成功者や実力者とは別格の存在として、特別の自信を持ち、もてはやされ、時に社会的、経済的成功にさえ恵まれる。

 

その結果、超能力をアイデンティティと同一視する人間も当然出てくる。

 

一方で、超能力は科学的に証明されていない人間の能力ゆえ、どうしても批判の対象になりやすい。

 

この時、超能力がアイデンティティと同一化、あるいは社会的・経済的ステータスの根拠となっている場合、保身を図ろうとする非常に強烈な自己防衛の心情を生む。

 

自己の能力の肯定に頑なに執着し、批判に対し強烈に反発する場合が少なくない。

 

誰だってアイデンティティを否定されたり、地位の安定を脅かされれば躍起になって反抗するのは当然の心理であり、そこには何の不思議も異常も無いが、超能力の場合、その根拠が科学によって証明されておらず、何の保証もないがために、批判への対抗を自力のみで成し遂げなければならない。

 

物事の真偽を問う試金石として科学が絶対視される現代社会において、その試金石を用いずに超能力の正当性を証明しなければならない無理難題を強いられる孤軍奮闘は、勢い、論理に欠けた感情論や、浮世離れした精神論に走りやすい。

 

そもそも科学や論理から逸脱することで特権を得ている分野が超能力なのだから、最終的には感情論や精神論に頼らざるを得ない。

 

そういった意味で、世間の否定に対するスウェデンボルグの反応は、超能力者の典型に当てはまらない、特異な例に当たる。

 

彼は、自身の超能力の証明や承認にはほとんど関心を持たなかった。

 

彼にとって霊媒能力や千里眼といった超能力は、「超」能力ではなく、当たり前の視力や聴力と等価の、「普通」の能力の一つだったからだ。

 

彼の超能力の真偽や内容については、ファンもアンチも興味津々であり、本書にも超能力に関するおびただしい記録やコメントが列挙されているが、スウェデンボルグ自身の反応は一貫して極めて淡白であり、時に煩わしさすら匂わせる。

 

熱を上げて信じる者は諫め、躍起になって疑うものはそのまま放置して、特に説得も反論もしなかった。

 

なぜなら、彼は超能力によってではなく、実務能力や科学への熱意によって既に社会の承認を十二分に受けており、それは超能力の有無程度ではこゆるぎもしない盤石だった。

 

無論、情報収集の手段として超能力が有用だったのは確かだが、それは性能のいいスマートフォンを持っているようなもので、それだけで社会的な承認や、ましてや科学的な真理を得ようとは露ほども思ってはいない。

 

彼にとっては、科学的な発見や、思想の錬磨こそが至上命題であり、それらの完成に役立つ情報の原拠が、心霊との対話だったのか、読み込んだ論文なのかはさしたる問題ではなかった。

 

とるに足らないことをくっちゃべる心霊よりも、有意義な議論に耐える有識の生者の方が、彼にとってははるかに価値が高い。

 

事実、自分の状態をよくわかっていない死者の霊に、己が死を受け入れさせようと滾々と説諭したというコミカルな仰天エピソードも本書では取り上げられている。

 

生と死が、一方通行で往来不可の隔絶された別世界ではなく、地続きの同郷だと看做していたスウェデンボルグにとっては、死というのは一種の船出に過ぎなかった。

 

その信念が本物であった証として、死の床に伏した彼の最期は、「なんだか休日のピクニックか何かに行くみたいな様子」(死の前日に彼と会話した女中のコメントより引用)だったという。

 

彼にとって、定命の肉体と永遠の魂は対立する概念ではなかった。

 

彼には科学者としての顔と、神秘思想家としての顔があったが、彼の中でそれは対立も矛盾もしていない。

 

魂の秘儀にたどり着くために科学的手法を用いるのが彼の流儀だったからだ。

 

例えば、魂という目にも見えず手で触れもしないものが何かということを知るためには、その魂が収まっている目に見えて手で触れる肉体の構造や働きについて知らねばならないと考えたスウェデンボルグは、それまで専攻していた物理学や化学という分野からかけ離れた、生理学や解剖学分野へと果敢に挑んだ。

 

これは、凡百の神秘思想家が、肉体からの解脱を志し、時にそれが行き過ぎて肉体の軽視や侮蔑にまで至る傾向に陥りやすいのと比べると、対照的な態度だ。

 

魂や神が、物質世界を超絶した存在と同義であり、ゆえにその道理に通じる人間はこの世の論理に縛られぬ特権階級であるという論法を権威の拠り所とする神秘思想家からは、堅実な科学的検証によって魂や神の原理を解き明かすという発想は決して出てこない。

 

魂や神の真髄へ科学的手法によって到達する難行に生涯を懸けたスウェデンボルグは、本当の意味では神秘思想家ではなく、徹頭徹尾純粋な科学者だったと言える。

 

凡人には全く別種の事柄にしか見えない神秘思想と物質世界の間を確かにつなぐ、人跡未踏の階梯の幽かな影を、スウェデンボルグという巨人の慧眼ははっきりと捉えていた。

 

現実の現象から飛躍して、一足飛びに神秘の領域へ到達し、世俗からの解脱を図る神秘思想家には、堅実な手順を割愛して手短に利益だけを享受しようとする怠慢で小狡い性根が透けて見える。

 

一般の感覚の持ち主が、神秘思想を眉唾な出鱈目と同一視して敬遠するのは、神秘思想家を名乗る人間の大半が、そういった地に足のつかない胡散臭い詐欺師同然の連中だからだ。

 

中には真の神秘思想家も当然いて、卓越した才覚を手掛かりに、世界の真理へ到達する場合もある。

 

だが、そこには再現性が無い。

 

神秘思想が古今東西の人心を強く惹きつけ、紀元前から多くのマンパワーを得ている一方で、実績についてはぽっと出の科学に大きく水をあけられているのは、ひとえに再現性の無さが理由である。

 

理解に特別な才覚を必要とする神秘思想は、ごく一部の天才の私有財産として寡占され、その真理にどれほどの御利益が含有されていようとも、そのほとんどが世間に還元されず、羨望や嫉妬の的になるのがせいぜいに終わっている。

 

対照的に、科学はその成果に至るまでの道のりがスタートからゴールまで全て明らかになっている。

 

時に道のりは遠く険しいが、必ず成果まで途切れず繋がり、踏破するために適切な努力を払う覚悟さえあれば、万人がその恩恵にあずかる。

 

スウェデンボルグは、当時教会が独占していた神秘思想を、聖書の象徴的解釈と魂の立証いう科学的手法によって解き明かし、再現性のある理論として成立させ、万人の手の届く恩恵へのリフォームを試みた。

 

残念ながら、その大事業は未完に終わっている。

 

当時の科学のレベルと、扱ったテーマの奥深さゆえに、百冊を超える著作で、文字通り百万言を費やしても、魂と神の科学的理論は完成しなかった。

 

それでも、究明の途上で得られたおびただしく有益な副産物的発見は、今なお科学史において、並ぶ者なき金字塔として燦然と聳えている。

 

彼は実務家として、自身の科学的知識を積極的に世間に還元した。

 

神秘思想家が世俗から距離を置き、深山幽谷で真理を弄ぶのとは対照的に、ひたすら故国スウェーデンの発展や世の中の幸福の増大を志向し社会に分け入ったことからも、彼の本分が科学者であったのは明白だ。

 

当然、当時でも心霊とか超能力といったオカルトに対し、冷静な批判の目を向けて正しく敬遠する理性的な教養人はいた。

 

スウェデンボルグの周りにもそういった人々はいたが、興味深いのは、スウェデンボルグのオカルトがらみの言行を受け入れられなかったにもかかわらず、変わらず親交を続けた者も少なからずいた点だ。

 

<このことはお互いの胸にだけしまっておこう、笑ったりしてはいけない>

 

本分より抜粋

 

これは、スウェデンボルグが死者と話せるというショッキングな噂がストックホルムで流れた際に、鉱山局で彼の後継者となったティラス男爵が友人にあてた手紙からの引用だ。

 

手紙の中では、明らかに噂が、不名誉なスキャンダルとして扱われている。

 

だが、ティラス男爵の態度は慎重で、文面にはスウェデンボルグに対する繊細な配慮がある。

 

他にも、似たような慎重で気を遣った反応を示し、軽率な批判や絶縁を控える友人や知己の例が紹介されており、彼が交友関係の中で非常に大切にされていた様子がうかがえる。

 

前述したように、彼はとびぬけた社交家だった。

 

逢う人を次々虜にする魅力と活力に満ち溢れた知性溢れる人格者であり、そこには他者を怯ませ驚かし遠ざける狂気など微塵もない。

 

狂気とは、他者の理解できない理屈を主張したり、その理屈に従って行動し周囲に迷惑を振りまく病的な信念だ。

 

スウェデンボルグは骨の髄から科学者であり、彼にとって魂や神といった神秘思想は、科学的な証明を待つ仮説に過ぎず、証明が完了していない以上、他者に理解を求めて躍起になって主張するような真実ではなかった。

 

自身の霊媒能力や千里眼について、他者から否定されればそのまま訂正もしなかったのは、彼自身、それらの原理を科学的に証明できていなかったからだ。

 

科学者として正しく、人間としてバランスの取れた公正な態度のお陰で、スウェデンボルグは生涯人々の信望を失わず、親しまれ、慕われ続けた。

 

本書は、スウェデンボルグの科学や神秘思想の偉大な業績をつぶさに綴るが、何よりも人間スウェデンボルグの全存在が放つ類まれな魅力こそが真のテーマとなっている。

 

彼の魅力の全貌こそ、真の巨人の巨躯の全体像であり、科学的業績も神秘思想も、その巨躯の一部を成すにとどまる。

 

スウェデンボルグという存在が全て解明される日がいったいいつ到来するのか、気が遠くなる。

 

 

終わりに

現代で国際スウェデンボルグ会議が開かれたら、どれほどの分野から何人の科学者が殺到するのか、見当もつかない。

 

かつて空を飛ぶことが「科学的に」不可能とされていた時代には、航空力学という分野はあり得なかった。

 

現代でも、霊や神は科学の分野ではなく、当然、該当する分野も無い。

 

超心理学がかろうじて心霊現象や超能力をカバーするが、世間に広く認められるような成果はまだ出ていない。

 

いずれ、霊や神を解剖学や生理学の延長線上で科学的に取り扱う時代が来るかもしれないが、その時こそ、スウェデンボルグの真価が正当に評価される。

 

霊生理学や神解剖学といった分野が拓かれ、発表される論文の引用文献やサマリーには、スウェデンボルグの名が欠かさず登場するはずだ。

 

新しく開拓された学問分野の学者まで詰めかけたら、会議がどこまで膨れ上がるのか想像するのは愉快だ。

 

こんな予想は戯言で終わるかもしれないが、科学の所産の多くは、仮説段階において戯言だった。

 

戯言に誠実に向き合い、所定の手順で戯言を真実へ消化していく作業が科学だと言い換えてもいい。

 

科学黎明期の当時にあっては、あまりの知的独走ぶりに理解者に恵まれなかったスウェデンボルグの功績が、本書では先進の現代科学で再評価されているが、これでもまだスウェデンボルグの構想の全体像からすればごく一部に過ぎず、独走するスウェデンボルグの後姿を捉えることすら覚束ず、せいぜい足跡をたどっているレベルかもしれない。

 

タイムトラベラーにでもなれば、彼に追いつけるのだろうか。

149参る ハムとソーセージのキッシュ


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天気が良かったので寄居町までサイクリング。

 

途中で道すがら神社に立ち寄り149度目のお百度参りを行う。

 

しめ縄がご立派。

 

寄居町でバルツバインというドイツ食材を扱う手作りハム工房に立ち寄り、ハムとソーセージのキッシュをイートインコーナーでおいしく頂く。

 

ドイツ風の店舗のたたずまいやBGMのおかげで異国情緒に浸れたが、よく見ると食器にも「GERMANY」の刻印が入っており、細かいところまでこだわりが行き渡っている。

 

昼食後のサイクリングだったので軽食しか受け付けなかったが、今度は腹を空かせてソーセージとベーコンの盛り合わせに挑戦したい。

 

キッシュについてWikipediaで調べたら、フランスの郷土料理だった。

 

日本のラーメンやカレーライスのように、異国の食文化が輸入され、その土地に深く根付くケースがあるが、ドイツのキッシュもそうなのだろうか。

148参る


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youtubeがおすすめするハチミツの健康効果を紹介する動画に感化されて早速ハチミツを買いに出かける。

 

通勤途中の道端でハチミツを販売している、農家が副業でやっていると思しき簡素な露店が以前から気になっており、サイクリングがてら満を持して訪ねる。

 

土日の昼間の限られた時間にしか営業していないので、わざわざ休みの日を縫って行った。

 

が、行ってみたら露店の狭い敷地にはなぜか数台のパトカーがぎっしりひしめき、その隙間を縫って警察官が忙しく聞き取りや鑑識に首っ引きになっている。

 

何か事件があったのか、物々しい雰囲気で中に入るどころか声を掛けることすらはばかられる。

 

しばらく近所を散策して時間をおいてから再び訪ねてみるも、状況にはいっかな変わりがなく、依然物々しい。

 

運が無かったとあきらめて、散策中に見つけた神社で148度目のお百度参りを粛々と執り行い、すごすごと帰宅し、ハチミツは後日近所のスーパーで購入した。

 

ハチミツおいしい。

本『BORN TO RUN 走るために生まれた』

どんな本?

ランニング愛好家のライターである著者が、ランニングに付いて回る足腰の故障を解決する究極の方法を求めて、裸足同然の粗末なサンダルで100マイル以上の険しい山道を平気で走る伝説の民族・ララムリ(「走る民族」の意)が隠れ住むというメキシコの秘境、バランカス・デル・コブレ(銅峡谷)へ、決死の訪問を敢行する。

 

長きにわたる過酷な迫害の歴史と、人の好さと俊足を利用されて搾取された苦い経験から、よそ者との交流を謝絶し秘境に引きこもったタラウマラ族と、グリンゴ(米国人)のライターを結びつけたのは、カバーヨ・ブランコ(白馬)と呼ばれる、ララムリからランニングの秘儀を教わって山間を放浪する、実在も定かならぬ謎のグリンゴランナーだった。

 

ララムリとカバーヨ・ブランコの謎を追う長い道のりの途上で、著者が、これまで当たり前とされてきたランニングの常識を覆す新しい知見と出逢い、現行人類の起源にまで遡るランニングの悠久の歴史に触れ、やがてララムリの精鋭と人類最高峰のウルトラランナーが一同に会し雌雄を決す、世界最高のウルトラマラソンに参加者として立ち会うまでの小説より奇なる顛末が、心躍る筆致で生き生きと綴られる。

 

感想

本書は、ごくまれに出逢える、読者の生き方を変える強烈な影響力を備えた一冊。

 

効率よく速く走る方法を解説するランニングの教本は真砂の数ほど巷に溢れようとも、読むと走りたくてしょうがなくなる本は、どれほどあるだろうか。

 

科学的な分析を加えた具体的な走り方が分かりやすく記載されており、その効果のほどを試してみたいという好奇心が意欲を後押しするのは、他のランニング関連の良書と相通ずる部分であるが、本書が他の本と一線を画するのは、ランニングを単なる健康のための運動やレジャースポーツとしてではなく、究極の幸福の境地へ直結する、人類の本能に深く根差した生活行為の一つとして捉えなおしている点だ。

 

ランニングの結果得られる健康やスマートな体形が、現代社会でもてはやされるステータスとして富や名声を惹きつけて二次的な幸福をもたらすのではなく、ランニングそのものが幸福の源泉であり、ゆえに幸福を希求する原初の衝動に火がついて走りたくなる。

 

ランニングそのものが幸福であるからこそ、何百万人もの人々が、時に数十キロメートルにも及ぶ、益体のない苦行に精を出すのだ。

 

だが一方で、ランニングには足腰の故障が分かちがたく付いて回る。

 

グローバル企業が社運をかけて開発した、最新の人間工学と素材技術の粋を詰め込んだ究極のデザインとクッションの結晶である、数百ドルもする高価なランニングシューズで足を固めても、数キロと走らないうちに膝や腰に我慢しがたい痛みを発症する人々は多い。

 

類まれな知性と莫大な資金を投じた熱心な研究の結果、テクノロジーや走法は膨大な知見を得ているにもかかわらず、状況は改善されるどころかむしろ悪化の一途を辿る矛盾したジレンマに陥っている。

 

ララムリたちが原初の人類より脈々と受け継ぐ一見奇抜な走法が、先端科学が抜け出せずいよいよドツボにはまったジレンマを解消する快刀乱麻となる展開は、多くのランニング愛好家を日夜悩ませる憎々しいフラストレーションが一挙に吹き飛ばされ痛快極まりない。

 

本書のテーマはもちろんだが、読み物としても非常に面白い。

 

本書には様々な側面があり、多様な読者の多岐に渡る感性に訴えかける。

 

現代ランニング理論を根底から覆す知見を丁寧な調査と最新の研究資料の膨大な引用を駆使して分かりやすく解説する優れたランニングの指南書であり、同時に人類史の表舞台から姿を消した少数民族のミステリーを命の危険を顧みず追跡する迫真の社会派ドキュメンタリーであり、そしてランニングに魂を売った生粋のランナーたちが生き様を懸けて鎬を削る真剣勝負の様相を生々しく活写するスポ根ヒューマンドラマである。

 

知性と理性と本能に訴えかける筆致で綴られた多面性の物語の芯には、ランニングという、人類の命脈を数百万年に渡りしっかりと支えてきた大黒柱が聳え立つ。

 

あっちこっちに飛躍するトピックは大黒柱に向かって一つの壮大な物語に収斂し、読者の心身の奥底で何世代にも渡り深い眠りに凍り付いていた原始の衝動を強烈に打ち据え、衝き動かさずには置かない。

 

本書を読めば、走り方は生き方であるとわかる。

 

走り方の起源への回帰を薦める本書は、レジャー的ランニングの充実に寄与するのはもちろん、文明の発達と引き換えに記憶の向こうへ遠ざけてしまった、幸福に生きる天稟の復旧へつながる、寂れ果てた王道を再び拓いてくれる。

 

終わりに

怪しいカルトに入信したての初々しい狂信者が教義の素晴らしさについて語るがごとく、本書の感想は分別に欠けた激賞に終始してしまった。

 

わずかに残された自省の心で読み返せば、気味の悪いことこの上ない感想文だが、たまには一心不乱の没頭に耽溺するのも悪くない。

 

本書を読んで早速ララムリの真似をして近所を1㎞ほど走ったら、ふくらはぎの筋肉痛が翌日から出て、一週間近く歩くのもやっとの体たらくだった。

 

便利な現代生活に髄まで侵された弱体では、メキシコの秘境で日常的にウルトラマラソンに精を出す少数民族の生活スタイルを再現するのは容易ではなさそうだ。

 

だが、遠い道のりにも嫌気がささないのは、人間の根幹にプレインストールされている幸福の源泉から漏れ出るわずかな甘露の旨味を味わってしまい、病みつきになってしまったからだ。

 

クッション性に富んだNIKEのシューズが、ランナーの足の故障を招く戦犯として本書では槍玉に挙げられているが、そのNIKEが、ララムリたちの走法に通じるフォアフットランニングをサポートする画期的なシューズで、主要なマラソン大会のトップランナーたちの足元をピンク一色に染め上げた一連のブームは記憶に新しい。

 

いったんわき道にそれ、迷走していた現代ランニングも、太古の昔に整備済みの王道へと立ち返りつつある風潮には安心感を覚える。

 

願わくば、ララムリたちが世間に舞い戻ってきても、違和感なく溶け込める世の中が実現してほしい。

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老若男女 誰もがウルトラランナーの系譜