ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

脳便秘解消……本『新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。』

 

概要

万人が漏れなく有しながら、大抵の場合抑圧され、発揮される機会を失って久しい創造性を解放する具体的方法を提示した自己啓発のロングセラー。

 

モーニングページ

本書を実際に読むまでには、その存在を知ってから多少の間が開いた。

 

まず、たまたま本書の内容を抜粋して要約したyoutubeの解説動画を見たというのが、本書を知る最初のきっかけだった。

 

そこで紹介されていた「モーニングページ」という創造性回復を謳う手法を試し、効果を実感していたく感銘を受けたので、改めて原本を読んだという、やや逆転した経緯となる。

 

創造性回復というテーマに対し、様々な考えや、その方法を提示しているのだが、正直、モーニングページという手法だけで、本書の価値の9割を占めている気がする。

 

あくまで個人的な実感なので、その他の部分に価値がないとか、そういう意味ではない。

 

むしろ隅から隅まで興味深く読める内容と文面で、普遍的で全人的な、創造性の抑圧という重大な問題の解決に資する有用な思考法や具体的手法が詳細に、かつ分かりやすく解説されており、二十年以上経っても根強い人気を誇り、版を重ねていることが否応なく納得できる、紛れもない名著だ。

 

内容が充実しすぎていて、現在の自分の立場では、その全てを消化しきれなかったというのが正直なところだ。

 

今後研鑽を積めば、今の時点では消化しきれない部分についても、取り組む余裕が出てくるかもしれない。

 

脳便秘

肝心のモーニングページなのだが、やることは非常に単純。

 

朝起きたらすぐにA4のノートを開き、思いついたことを端から全部、3ページ分書くという作業だ。

 

これを毎日休まず実践する。

 

たったこれだけの、やや分量の多い日記のような、特別な道具も技能も必要としない、取り立てて変哲の無い作業なのだが、これが驚くべき効果を発揮する。

 

本書の中では、この作業を「脳の排水」に例えている。

 

モーニングページは、とにかくどんな文章を書いてもいい。

 

その時、その瞬間に思いついたことを全て書き出していく。

 

前の日の出来事でも、最近読んだ本の感想でも、ちょっとした思い付きでも、仕事上の失敗の反省でも、適当にでっち上げた嘘八百でも、とにかく何でもいい。

 

もちろん、何も思いつかないこともあるだろうが、そんな時は、「何も思いつかない」と、何度も何度も、何か思いつくまでしつこく繰り返しても構わない。

 

本当に、書きたいことを書けばいいし、書きたいことが無くても、書けることを書けばいいのだ。

 

とにかく書く。

 

A4ノート3ページを埋め尽くすまで、何でもいいからひたすら書き込む。

 

こんな単純な作業をするだけで、頭がすっきりする。

 

人間、何は無くともいろいろなことを考えている。

 

一説では数万にも及ぶという膨大な量の雑念を、少しでも排出して頭の中を片付け、空いた容量を創造的で生産的で建設的な思考に充てようというのが、モーニングページの目的だ。

 

これがとにかく気持ちいい。

 

本書が取り上げる「創造性」という言葉には、いわゆる芸術的才能というニュアンスが多分に含まれている。

 

絵描きや詩人や建築家や陶芸家や脚本家や役者や小説家といった人間を支える創造性の源を解き放つことを目的とした様々なワークを、モーニングページの他にも紹介している。

 

実際のところ、モーニングページを初めて三か月以上経つが、本書が謳うような、芸術的な創造性はおろか、より広範な意味での、日常生活や実務面における創造性も高まったような実感はない。

 

だが、本書が称える世界や人生に変革をもたらす画期的な創造性の向上が果たされずとも、私にとって、モーニングページは抜群に素晴らしい効果をもたらしている。

 

まず、何を書いてもいいという、究極的な寛容の精神が素晴らしい。

 

日々頭の中に浮かんでは消えていく膨大な雑念のほぼ9割9分が、脳より外に出ていかない。

 

中には、一緒に働く同僚や、たまたま出かけた先で隣に居合わせた赤の他人に、言いたいことや教えたいことなども含まれる。

 

言いたいのに言えないというのは、思考の内圧を高める。

 

表現されなかった思考は、頭の中で堂々巡りを繰り返すこともあれば、他の思考に押し流されて消えてしまうこともある。

 

だが、たとえ消えてしまっても、表現されなかった思考は、抑圧された際に感じた不満の残滓を残し、その残滓は少しずつ蓄積して、思考の容積を圧迫していく。

 

本書では、この表出しなかった思考の残滓を水に例えて、モーニングページを「脳の排水」と例えているが、私の主観的イメージはやや異なる。

 

私の頭の中に詰まっているのは、外に出られなかった思考のカスが、長年蓄積して、腐敗し、見るも無残に溶け崩れ、悪臭を放つようになった醜悪な泥濘の海だ。

 

平たく言うとうんこだ。

 

いわば私の頭は、思考の便秘、脳便秘とも言うべき状態に、何十年ものあいだ陥っていた。

 

モーニングページは、この長年蓄積した思考の宿便を一挙に噴出させことごとく洗い流す、脳の下剤、それも飛び切り強力で即効性のある特効薬となってくれた。

 

モーニングページを初めてしばらくすると、その効果が覿面に現れてきた。

 

この効果は、モーニングページの考案者である著者が意図するものとは若干ずれているかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 

創造主の意図とは違った用法・用量で応用・重宝される道具など珍しくもない。

 

私にとって、モーニングページはそんな道具の一つだ。

 

まず、言いたいけど言えないこと、世の中に公言するには様々な理由により憚られる、妄言珍言駄言の類を、全部吐き出していい場所を得られたことが何よりも大きい。

 

モーニングページは誰かに見せることを前提としていない。

 

むしろ見せない方がいい。

 

誰かに見せるということは、他人の評価の目にさらされるということで、それは人の創造性を強力に抑圧する。

 

なので、誰にも見せない。

 

創造性が誰の批判にさらされることも無く、安全に安心して自由に羽を全開にして伸ばせる場所、それがモーニングページなのだ。

 

王様の耳はロバの耳という寓話があるが、その寓話の主人公が図らずも知ってしまった王様の秘密を吹き込んだ穴が、モーニングページに当たる。

 

言いたいことを全部言うというのは、それだけで気持ちがいい。

 

思考を具体的な言葉に翻訳して、それを紙面にボールペンで字に変換して書き出すという作業自体が気持ちいい。

 

頭の中で考えることと、実際に形にするのでは、意識の上で雲泥の差がある。

 

ほんのひと手間、一つの行程を経るだけで、頭の中を圧迫していた内圧が一気に吐き出されて、すっきりとした解放感に癒される。

 

書き出すという作業は、思考の外部化だ。

 

外部化されない思考は、意識しなくても記憶容量を圧迫する。

 

とりあえず外に出して記録として残した、という認識が、その思考を記憶から追い出してくれる。

 

これだけで、思考を保持するための堂々巡りが解消され、頭の容量が増える。

 

更にモーニングページには、言葉にならないけど、確かに存在する、言葉未満の曖昧な雑念まで、言語に結晶化させる作用もある。

 

モーニングページ実践の要点として、A4のノートという、日常使いにしては大きめのノートを用い、しかもそのノートを3ページも埋めるという条件が付いている。

 

B5でもA6でもなく、1ページでも2ページでもなく、A4ノートを3ページというのがミソだ。

 

大雑把に計算してみたところ、私の使っているノートだと、改行せずにひたすら書き込むと、少なくとも4000文字以上になる計算だ。

 

400字詰め原稿用紙10枚分の文章を毎朝書くというのは、職業作家でもない限り、なかなか体験できない作業量だ。

 

慣れれば苦にならないかもしれないが、慣れないうちは、書き出して程なく書くネタが底を尽き、行き詰まる。

 

それでも無理矢理書く。

 

乾いたぞうきんを絞るように書く。

 

すると、脳内に漂っていた、曖昧で薄弱なイメージが、ノートの紙面を埋めなければという強力なプレッシャーによって圧縮され、凝集し、遂に明確な言語として結晶化する。

 

この結晶には、たびたび驚かされる。

 

こんなことを自分は考えていたのかと、意表を突かれる想念が、ノートの罫線の間に、忽然と顕現するのだ。

 

自分の中から出てきたものであるのは間違いないのに、まるで自分のものとは思えない、そんな不思議な言葉と出逢うという、奇妙奇天烈な体験を毎朝のように味わうのは、自身に対する退屈に日々うんざりしている中年男性にとっては、毎日サプライズプレゼントを貰うような喜びだ。

 

サプライズプレゼントというのはちょっと語弊があるかもしれない。

 

せっかくうんこに例えたのだから、ここでは、理想的な形状と質感のお通じに毎朝恵まれる喜びになぞられておこう。

 

うんこ自体は、出した途端に間もなくそのまま下水に流されてしまう、高度に都市化された現代では大した生産性の無い代物だが、出なければ腹が張り、体に毒素が蓄積してしまうし、出たとしても、その性状が悪ければ、健康上の問題を示唆する凶兆にもなりうる、人の生活において、かなり重要な位置を占める生理現象だ。

 

モーニングページを始めて、思考にも糞便と同じような性質があるのだと気付かされた。

 

これまで自分が健康だと思っていた頭の状態は、実は恐ろしいほど長期に渡る頑固な便秘だったのだ。

 

あまりに長い間、異常な状態が続いてしまっていたので、それを平常と誤認してしまっていた。

 

モーニングページのお陰で、本当の健康な精神状態というものを、もしかしたら、物心ついてから初めて体感できるようになったのかもしれない。

 

このうんこを創造性と認知するのは、少なくとも今の私には非常に困難な業だが、例え生産的でなくとも、健康的であるのは何事にも代えがたい利益だ。

 

便秘解消のために温浴やお腹のマッサージを励行するように、これからもモーニングページは続けるつもりだ。

 

もしかしたらいつの日か、うんこではない、創造性と看做して憚ることのない、何か価値あるものが生まれるかもしれないと、淡い期待を胸に抱きつつ、明日もノートをひたすら埋めていく。

 

 

インデックス実験


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多読から熟読に読書スタイルを徐々に移行させようと思い立つ。

 

一冊の本を熟読するにあたり、目的の箇所をすぐに検索できるよう、インデックスシールの利用を検討中。

 

ただ貼って名目を記入するだけでも便利だが、もっと直感的に、いちいち目で確認せずに、指先の感覚だけで目的の箇所を開ける工夫はないかと、色々試行錯誤した結果、実験の犠牲になった本の惨状が冒頭の写真。

 

インデックスに角度を付けて向きを変えたり、段差をつけたりして、形状と配置を手指で確認するだけで、目的の箇所を探せるように工夫した。

 

これなら暗闇でもすぐに目的のページが開けるぞと盛り上がったのも束の間、そもそも暗闇じゃ本なんか読めないと、遅ればせながら気づく。

 

空前のアイデアを発見したつもりでも、単にとっくの昔に欠陥が判明していてボツになっていたアイデアだったという、発明あるあるをまさに体験した。

 

電子書籍全盛の時代に紙束の本の検索性なんかにこだわっているあたり、自分はもう過去の遺物の一部なのだと思い知る。

 

 

160参る 神社読書ドベリ


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天気が良かったのでサイクリング&お百度参り&神社読書。

 

神社読書についてはこちら。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

 

160度目のお百度参り。

 

連休中だからか、人が結構通りがかる。

 

夕方に差し掛かる境内の涼しい木陰で、菓子パンをほおばりながらのんびり読書に耽る幸福に耽る。

 

本日の本はこちら。

物事をクリアーに考える手引き。

 

内容はさておき、作者の名前の語呂、「ドベリ」のインパクトにやられる。

 

以前関連書籍を読んで考察した自分なりの解釈に依れば、神社は心に溜まった鬱憤を吸い取って初期化する効果がある気がするので、クリアーという意味ではシナジーがあるのでは。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

 

厳戒が限界

本日、3回目のワクチン接種を完了。

 

朝イチで出かけた帰りに、飛び込みで接種してきた。

 

会場は空いていて、飛び込みでもすぐ打てた。

 

というか、時間帯やタイミングもあるだろうが、ほとんど接種する人がおらず、対応するスタッフも時間を持て余している様子で、もろ手を挙げて歓迎され、プチVIPな気分を味わう。

 

恐らく、このような下にも置かない賓客待遇は、私の生涯においては初めてだし、そして絶後の体験となると思われ、ここぞとばかりに堪能してきた。

 

駅前の雑居ビルのワンフロアを貸し切った会場はガラガラで、10人を優に超える大勢のスタッフに対し、接種者は私を含めて最大でも3名がいいところ。

 

1回目、2回目に続き、今回もモデルナを接種した。

 

強烈な副反応を考慮し、3回目は半量での接種となったそう。

 

半量でも、筋肉注射の痛みは全量並み。

 

中年でも涙がちょちょぎれる。

 

注射してくれた看護師さんと少し雑談したら、薬剤の取り違え防止のチェックは3人掛かり、つまりダブルチェックどころかトリプルチェックで万全を期しているとのこと。

 

薬剤のチェックだけではなく、会場でも、取り違えや体調不良の見過ごし防止と思われる様々な対策が実施されていた。

 

会場に入場早々、すぐに番号入りの首掛け式のネームプレートを渡されるのだが、接種後の休憩中にトイレに行きたくなって席を離れたら、トイレに行くのに更に別の番号入りのネームプレートを渡された。

 

複数競技でメダルを獲得したオリンピアンよろしく、首から二つのネームプレートをぶら下げてトイレに行く自分がちょっと面白い。

 

コロナワクチン自体が賛否両論の集中砲火を今なお浴びるデリケートな案件で、テレビとかで取り違えや手違いに関するニュースも大々的に報道されることもあり、安全面は羹に懲りて膾を吹くがごとき過剰なまでの厳戒態勢が敷かれている。

 

正直、ちょっとやり過ぎ感がある気がしないでもない。

 

前回も安全対策のチェックや確認は複数回、ワクチン接種の行程に含まれていたが、今回はそれより多く、煩雑な印象だ。

 

医療事故は一歩間違えれば命にかかわる可能性があるので、安全対策は厳しくするに越したことは無いので、面倒くさいとかそういった不満は無い。

 

無いのだが、現実問題、こんなにチェックばっかりだと、ワクチン接種者はともかくとして、スタッフ側の負担増や、マンパワーの肥大化が心配になってくる。

 

厳戒が限界を越える、なんてつまらない地口が、接種後の待機時間中、暇になった頭に浮かんできた。

 

相当つまらない地口だが、これもワクチンの副反応のせいだろうか。

 

そうに違いない。

 

そうであってほしい。

ファンタスティックなビースト


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年間パスポートを買った近所の動物園を、元を取るために再訪する。

 

今日もいい天気。

 

週末なので、入場券の購入窓口が混雑しているが、こちらは年間パスポートで直接入場できるので、ちょっとした優越感に浸った。

 

我ながら悪趣味な優越感だなとは思う。


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前回は人だかりがあって近寄れなかったヤギのコーナーが今日は空いていたので、入園早々早速行ってみる。

 

持ち合わせが乏しいので、申し訳ないがエサ遣りはせず、ただぼんやりとヤギのたたずまいを観察する。

 

ヤギの顔を近くで見てみると、瞳孔が横に広がっており、瞳孔は丸いものという先入観があるせいか、ちょっとした恐怖が入り混じった違和感に襲われる。

 


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コアラコーナー。

 

産まれて初めて実物を肉眼で見た。

 

メディア越しに見るコアラより遙かに可愛い。

 

子供コアラが母親コアラの袋の中でまどろんでいる姿には、なんだか感じたことのない胸の痛みのような感覚が芽生えた。

 

これが胸キュンという感覚なのか。


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人間社会は疫病やら戦争やらで大変だが、コアラの世界も大変なようなので、なけなしの一円を寄付してみたが、最近値上がりした両替の手数料を考えたら、完全に赤字なので申し訳ない事をしたと後で反省。

 

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コアラの飼育小屋を彩るイラスト。

 

オーストラリアの原住民の民族芸術をイメージしているのかもしれないが、なんだかとってもサイケデリックで、見ていると言い知れぬ不安を催す。


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カピバラ

 

金網越しにお尻をつついてきた。

 

全く動じる様子はなく、目を細めて気持ちよさそうにまどろんでいる。

 

毛は太くて固い。

 

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ウサギ。

 

遠目にはちょっと大きめの石ころにしか見えない。

 

動物園の中ですら見間違えてしまうのだから、自然の中でこの擬態を見破るのは至難の業だろう。


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こちらはウサギのふれあいコーナーに転がっていた、正真正銘の石ころ。

 

一瞬、というかそれなりの時間、本当のウサギかと思った。

 

ウサギの擬態が凄いというより、私の目が悪いのか。


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坂の上の雲

 

素晴らしい景色だが、後で写真を見直したら指がレンズにかぶさっていて台無し。

 

坂の上の雲の上の指。


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ゾウガメ。

 

同じ種類なのに大きさがだいぶ違う。

 

人間に置き換えたら、赤ちゃんと大人以上のギャップになるのではないか。


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埼玉県の県の鳥、シラコバト

前回来たときは、檻の奥に引っ込んでいたので写真に収められなかったが、今日は表に出てきていたので間近で映せた。

 

そこらへんにうろついているハトと見分けがつかない。

 

やはり私の目が悪いようだ。

 

 

 

 

動物にちなんで、ハリー・ポッターのスピンオフ作品を最近鑑賞した。

 

ハリー・ポッターは、魔法使いの学生がメインの話なので、魔法の描写がたどたどしいが、こちらは大人の熟練した魔法使いがメインなので、魔法の描写がとにかくスピーディでスタイリッシュでファンタスティック。

 

続編も面白かったが、物語の重点が奇妙奇天烈な魔法動物が巻き起こす騒動から、シリーズ屈指の人気キャラ・ダンブルドアとグリンデルバルドの因縁にだんだんとずれ込んでいってしまっているのがちょっと残念。

 

商業的な視点から見れば、ファンタスティックビーストとダンブルドア関連の話は別にした方が、物語のテーマがシンプルになって見やすいし、別々のシリーズとしてそれぞれからうまい汁をより多く吸えたのではないかと、私の中のグリンデルバルドがほくそ笑んでいる。

 

個人的には、ジョニー・デップよりマッツ・ミケルセンのグリンデルバルドの方が、グリンデルバルドの繊細な悪役像に合っていて好き。

 

ジョニー・デップは、パイレーツ・オブ・カリビアンのイメージが先行しているせいか、ちょっとワイルドすぎて、知性溢れるダンブルドアと肩を並べるかつての盟友という設定にそぐわない印象。

 

相反するからこそ惹かれ合うという向きも無いではないが、そういう相性のいい、互いの欠落を埋め合うような感じもなかなかイメージできず、今回の配役交代は、ジョニー・デップには悪いが、正直、一ファンからしてみれば、シリーズにとっては怪我の功名になった気がしている。

 

 

子供向けだが子供だましではない……ドラマ『仮面ライダービルド』


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概要

火星探索から地球に持ち帰られた謎の遺物・パンドラボックスが引き起こした災厄によって、北都・東都・西都の三つの地域に分断され、10年が経過した日本。

 

その一つ、東都では、スマッシュと呼ばれる怪人が人々を襲う事件が勃発。

 

記憶喪失の天才物理学者、桐生戦兎(犬飼貴丈)は、東都の平和を守るため、仮面ライダービルドに変身して怪人たちと戦う。

 

子供向けだが子供だましではない

特撮ドラマを観たのは久しぶりだが、最近の作品のクオリティには驚かされる。

 

ストーリー、ビジュアル、アクション。

 

どこをつまんでも瞠目に値する。

 

子供向けだが子供だましではない。

 

大人の鑑賞に堪えうる、というと語弊があるが、少なくとも、主なターゲットが情緒が未熟で人生経験に乏しい子供だから、多少手を抜いてもばれやしないだろう、といった軽侮に由来する横着、明らかな手抜き、労力の出し惜しみに類する、目障りな粗は皆無だった。

 

むしろ、子供向けだからこそ、余計な虚飾を排した、率直で誤解の余地のない、普遍的な真理に基づく骨太の設定と物語が展開され、確固とした土台に据えられた揺るぎない安心感がある。

 

コンテンツが氾濫する現代社会においては、生まれた直後から夥しいコンテンツに晒される子供たちは、若年にして既に相当に目の肥えた視聴者として練成しており、ありきたりで安っぽい、つまりは従来の子供だましなどが通用するような生易しい相手ではなくなっている。

 

そのような状況下では、物語の作り手側に相当のプレッシャーがかかるのは想像に難くない。

 

一方で、視聴者の目が厳しくなればこそ、過酷な生存競争を経て、コンテンツの質も否応なく進化していく。

 

記憶の中の特撮ドラマと比べれば、その品質の差は歴然で、隔世の感がぬぐえない。

 

子供向け番組のセオリーを逆手にとった展開で主人公の精神的成長をドラマチックに演出する意外な展開には、むしろ王道の特撮ドラマの展開が刷り込まれた大人だからこそ、見事に引っ掛かり、度肝を抜かれた。

 

怪人も、単純な悪党ではなく、事件に巻き込まれた不幸な犠牲者であったり、腹の据わった理念に殉じる戦士であったりとバリエーション豊かで、それぞれの事情を汲み取ったデリケートな対応を余儀なくされる物語の重要な要素として、仮面ライダーが華麗なアクションを披露するための引き立て役に収まらない、大きな存在感を放つ。

 

物語が進むにつれて、シンプルな敵対構造が複雑に入り組んだ利害関係へと発展し、謎に包まれた主人公の正体が明らかになるにつれて、登場人物それぞれの立場の複雑な交錯は緊密さを増し、緊張をはらみながらも破綻をきたすことなく、溜めに溜め込んだエネルギーは余すところなく最終回で解放され、比類ないカタルシスを視聴者にもたらす。

 

物語序盤の、若い役者たちの粗削りで大げさな空回り気味の演技も、話が進むにつれてこなれてきて、やがて役との同調は憑依と呼んで差し支えない次元に到達する。

 

役との完全な同期のみが成し得る生々しい感情が迸る気合の入った演技には、理屈抜きで引き込まれた。

 

敵役が産み出した正義の味方というテーマは、初代仮面ライダーから連綿と受け継がれる由緒正しいテーマだが、同じテーマでも、演出の仕方や設定の工夫によって、まったく違う装いを見せる。

 

特に今作では、仮面ライダーが、ラスボスの最終目的達成のための駒であり、ほとんど最終回の間際まで、ラスボスのシナリオ通りに踊らされるという、やることなすこと全てに意味を見失いそうな絶望的な展開となっており、正義と悪の混乱具合は類を見ない。

 

それでも、自らの正義への信念を、少しずつ、しかし着実に育て、最後の最後に手ごわい悪の野望を辛くも凌ぐまでに強靭に仕立て上げた、主人公たちの苦悩の変遷には心を揺り動かされる。

 

エグい

そんな善と悪の相克を濃密な人間ドラマで体現する物語としての仮面ライダーには、もう一つの面がある。

 

むしろ、そっちの面の方がメインなのではないか。

 

それは、スポンサーであるおもちゃ会社の販促番組としての一面だ。

 

民放の番組である限り、子供向け番組であろうと、スポンサーの営利活動を宣伝するという構造的宿命からは逃れられない。

 

朝のニュース番組が、これから出勤する労働者向けに、カフェインたっぷりのコーヒーの宣伝を流すように、日曜朝の仮面ライダーは、全国の子供たち向けに、おもちゃを買ってもらうために様々な商品の宣伝を流す。

 

というより、番組そのものが、超長編のCMそのものなのだ。

 

おもちゃというものは、実際の道具の劣化コピーである。

 

特に、仮面ライダーのような、非現実の創作のおもちゃは、そもそも現実に存在しない道具の模倣品であり、どうあがいても劣化コピーにならざるを得ない。

 

非現実の創作に及ばないギャップは、使用者の想像力で埋めるしかないのだが、創作に基づくおもちゃは、現実に基づくおもちゃと比べると、その度合いが大きい。

 

子供たちの想像力というものは時に大人の常識をはるかに凌駕する驚異的な飛躍を見せる一方で、経験不足からくる情報の絶対量の少なさによるレパートリーの狭さやディテールの粗さ、考察の浅さもついて回る。

 

仮に、仮面ライダーの変身ベルトを、子供たちに何の前情報も無く与えたとしたら、面白いギミックや奇妙な音の出る珍妙な機械としてそれなりに楽しむだろうが、そのデザインの基盤を成す奥深く広大な世界観が醸し出す本来の魅力を存分に満喫するのはまず無理だろう。

 

だが、特撮ドラマの仮面ライダーを観た後では、その珍妙な機械は、無類のパワーと精悍なビジュアルを兼ね備えた悪と戦うヒーローへの変身を叶える魔法のベルトとして、子供たちの目には何よりも魅力的な、文字通り夢のアイテムに映る。

 

その情報量が多ければ多いほど、そしてディテールが精密で質が良いほど、素晴らしい創作の世界へ子供たちを誘う入り口となるおもちゃの価値も比例して跳ね上がる。

 

コンテンツの価値が、おもちゃの価値を直接左右する。

 

宣伝そのものの質が、商品の質に反映されるビジネスモデルなのだ。

 

週1回30分、一年間で49話に及ぶ膨大な時間を使って子供たちの頭の中に物語世界を刷り込む手間暇をかけるからこそ、仮面ライダーのベルトには、想像を絶する価値が付与される。

 

その価値がある臨界を超えたとき、はじめて子供たち(の親御さんたち)の購買につながるのだが、現在の少子化は、日本の将来はもとより、おもちゃ業界にとっては殊更厳しい逆風となっている。

 

いくら魅力的な商品であっても、一個買えば十分なおもちゃの売り上げは、消費者の頭数に、つまり子供の人口に依存する。

 

利益を出すためには販売数を稼ぐことが重要だが、おもちゃ販売のメインターゲットである子供の絶対数が減り行く少子化が進行する日本では、販売数を稼ぐ難易度は、年々上がる一方だ。

 

それでも売り上げを確保するには、客単価を上げねばならない。

 

客単価を上げるには、商品単体の利益率を上げる(高額商品を買ってもらう)か、利益率は上げず、バリエーションを増やして薄利多売によって利益の総量を増やす(安価な商品をたくさん買ってもらう)という販売戦略がある。

 

とはいえ、子供向けの商品、それも娯楽用品である実用性のないおもちゃに、高い価格は設定しにくい。

 

基本的に子供には資金力がなく、出資元はその親や親しい人間に限られている。

 

子供の養育にはただでさえ多額の費用がかかるのに、実用性のないおもちゃに高額の費用を回す余裕のある親御さんは、それほど多くないだろう。

 

そうなると、先述した販売戦略に基づけば、後者の薄利多売戦略が基本となる。

 

もちろん、「大きいお友達」と揶揄されることもしばしばな、潤沢な資金力を持つ成人消費者に向けた、おもちゃとしては並外れたクオリティの高額商品を販売する戦略も一つの選択肢にはなるが、薄利多売戦略は「大きいお友達」もターゲットとして包含できるので、外れが少ない。

 

私が以前観た特撮ドラマは、平成仮面ライダーとのちに総称されるリブートシリーズの第一作目、仮面ライダークウガだったが、この薄利多売戦略と相性のいいライダーの設定として、フォームチェンジという変身ギミックが採用されていた。

 

これは、様々な能力(テクニカルな棒術、遠距離攻撃可能なボウガン、力技で攻め立てる剣技)に特化したフォームに変身するというもので、ビジュアルとしては、基本フォームと造形は同じだが、体色と手持ち武器が変わるというものだ。

 

世界観的には全くの別物でありながら、造形上は同じ型を使いまわして色違いにカラーリングして、小物で更に差別化を図ることで、安価にバリエーションを水増しできるという、予算を節約しつつ、おもちゃの展開の幅を広げるという、一石二鳥の手法となっている。

 

その末裔である仮面ライダービルドでも、その基本戦略を踏襲しているのだが、長い年月を経て、その手法は空恐ろしいほどの進化を遂げていた。

 

というか、正直、エグい。

 

ちょっと引いた。

 

仮面ライダーの造形は流用しつつ、細かい造形をマイナーチェンジしたり色を変更したりすることでバリエーションを増やすという戦略の基本構造は同じなのだが、その数が尋常ではない。

 

本作では、様々な性状(ウサギや戦車、海賊や電車などなど)を持つ不思議な粉末やジェルを詰めたボトルをベルトにセットすることで、そのボトルの性状に応じた力を発揮する多彩な風貌の仮面ライダーに変身するという変身システムなのだが、物語中盤で明かされるそのボトルの総数がエグい。

 

何と60本である。

 

この数を聞いた瞬間、誇張抜きでずっこけそうになった。

 

先述したが、本作は一年間にわたるシリーズで、それなりに長く、正確には全49話となっている。

 

つまり、一話で一個のボトルを使ったとしても、10話ほど足りない計算になる。

 

その時間的な制約を乗り越えるブレイクスルーとして、本作の主役であるビルドは、キカイダーや阿修羅男爵のように、左右の半身の色が違うツートンカラーのデザインとなっており、一度に二つのボトルの性質を融合させて、一つの姿に搭載できるという設定になっている。

 

それでも一話につき0.6本以上のボトルを使わなければ間に合わない。

 

というか、実際に間に合わなかった。

 

設定上存在してはいても、遂に変身には用いられなかったボトルもある。

 

いくらなんでも、60種類の半身を用意することは、変身スーツの時間的・経済的コスト上でも、物語の展開上でも端から諦めていたのだろう。

 

変身のバリエーションだけでなく、そこに強化フォームも加わるのだから、バリエーションはさらに増える。

 

映画などのスピンオフを足しても、全部を使い切るには何もかもが足りない。

 

それでも、おもちゃとしてはちゃんと60(+α)種類のボトルが用意されている。

 

これを観たときの子供の歓喜と、親御さんの暗澹たる気持ちを思いやると胸が痛む。

 

薄利多売戦略しか有効な戦略が残されていないとはいえ、60種類(+α)という、一年がかりの番組ですらフォローしきれない商品展開など、いくらなんでもやり過ぎだ。

 

せめて番組内で最低一度くらいは見せ場を作れる程度の数に抑えてくれていればまだ納得もできるが、一年間もの放映期間を用いてすら、満足に消化しきれない分量の商品展開の規模は、正気はともかくとして良識を疑わざるを得ない。

 

60種類ものおもちゃをねだられることになる親御さんたちからすれば、悪夢としか言いようがない。

 

経済状態やしつけを理由に購入を見送るにしても、子供には不満が残るだろうし、親御さんとしても言下に購入を拒否するのは後ろめたいだろう。

 

家庭内に要らぬ不和の種をばら撒きかねない度を越した商業主義を、番組内でついぞ使用されることのなかったボトルたちがもの悲しくも体現している。

 

一方で、趣味に資産を自由に投入できる「大きなお友達」からすれば、コレクター魂を刺激される魅力的でコンプリートし甲斐のあるボリューム感となるだろうか。

 

コンプリートにいくら必要になるのか、想像するだに恐ろしいが。

 

厳しい販売環境でも利益を確保するためとはいえ、物語の容量を超過する膨大な商品ラインナップは、何か間違っている気がする。

 

他のシリーズ作品を観ていないので何とも言えないが、このビジネスモデル、つまり商品ラインナップを物語の容量以上に拡大するという路線はもはや常態化しているのだろうか。

 

だとしたら、おもちゃ業界の状況というのは思ったより悪いのかもしれない。

 

いくら視聴率至上主義、売り上げ至上主義の民放の作品とはいえ、メイン視聴者として子供を想定している番組なのだから、道徳観や情操の育成にも気を配るべきだろう。

 

誤解の無いように明記しておくと、本作の物語は、子供たちの道徳観や情操の育成には十分に配慮されているように思える。

 

最終的に理不尽で身勝手な悪の暴力に、暴力で対抗して問題を解決するという点はいかんともしがたいが、それまでの意思決定の過程や様々なトラブルとの遭遇で、正義と悪の線引きをはっきりし、主人公たちの正義の立場を明確に打ち出し、子供たちが憧れて真似しても差し支えのない価値観を事あるごとにアピールしてくれている。

 

だが、物語の内容が良くても、その周辺の実情が内容と相反するようでは、子供たちは混乱してしまう。

 

愛と友情を訴えかける番組に感化されて、そんな変身ヒーローになりたいと憧れておもちゃを親御さんにねだるという一連の自然な流れが、一部のご家庭には受け入れがたい経済的・精神的負担を掛け、ある種の緊迫状態を招くとなると、子供たちが番組から受け取るメッセージとその結果に不和が発生し、子供たちの情操はもちろん、親御さんたちの気分にも悪影響を及ぼしかねない。

 

とはいえ、おもちゃが先か、物語が先なのかは不明だが、膨大なおもちゃのラインナップをなるべく自然な形で物語に組み込もうとする脚本の凄まじい努力は、手放しで褒め称えたい。

 

下手をしたら秒単位で目まぐるしくフォームチェンジする仮面ライダーの慌ただしい様子に、商業主義に鼻をくくられ振り回される関係者一同の姿を重ね見てしまった。

 

奇跡の大団円

そういった物語内外の諸々の事情を全て呑み込み、破綻せずに最後まで走り切ったクライマックスには、万感の思いがこみ上がる。

 

宇宙規模の破滅を目論む強大な敵の野望を、その野望の歯車の一つとして操り人形同然に運命を翻弄されるがままになっていた主人公たちが、それでも正義の信念を貫いて想定外の奇跡を幾つも起こし、尊い犠牲を払いつつ、遂に悪の野望を打ち破るという、胸に迫る熱い展開もさることながら、何十種類ものおもちゃのラインナップを物語に自然な形で組み込み感動を盛り上げる要素として完全に融合させるという秀逸な脚本もまた、メタ的な意味での奇跡であり、いくつもの奇跡から成る本作は、紛れもない名作ドラマだ。

 

正真正銘、奇跡の大団円と言って過言ではない。

 

軽い気持ちで見始めた子供向け番組に、色々な意味でここまで強く心揺さぶられるとは思いもよらなかった。

 

他のシリーズ作品も見てみたいところではあるが、これ以上心揺さぶられてまともな精神状態を保っていられるのか不安でもあり、もうおなか一杯の感もある。

 

願わくば、子供たちと番組を同時視聴している親御さんたちの心胆を寒からしめるような、「ボトルは全部で60本!」などというセリフを登場人物に言わせるような、違う意味で驚愕の展開は勘弁してもらいたい。

159参る チクリ


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夜勤用の夜食を買いに出て、余った半端な時間で通りがかりの小さな神社に159度目のお百度参りをする。

賽銭箱が無いタイプの神社では賽銭しない派閥のお百度マイラーなのだが、帰り際に鳥居の傍らの石灯篭の台座に10円玉が供えてあるのを見て、少し心がチクリとした。