ざっくり雑記

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ソクラテスの弁明

 

無知の知」でおなじみの紀元前の大哲学者、ソクラテスの死を決した裁判の一部始終を、高弟であるプラトンが記述した歴史的文学作品。

 

ソクラテスの死刑後、貶められた彼の名誉を取り戻すために弟子やシンパが刊行した著作群の中でも出色の一作。

 

研究者の意見では、ソクラテスの教えに対するプラトンの解釈や独自の主張を表現する哲学的な読み物としても成立させるために脚色や演出が施されて史実とは異なる部分も多々あるようだが、普遍性の高い質実剛健な命題の本質を焼結し、アクセシビリティを格段に高めた巧みな加工と編集は、この著作を2000年を閲してなおも洋の東西を問わずに熱心に読み継がれる歴史的名作の境地へと押し揚げている。

 

本書におけるソクラテスの弁論には、現代の各種メディアにおいて一定の需要を得ている、様々な意見や主張の論理的欠陥やデータ面の脆弱性を衝いて瑕疵を批判することで、各界の著名人や大組織の権威を貶める知識人や文化人のことさら挑発的で、時に嘲弄的な弁論と印象が重なる部分がある。

 

当然公衆の面前で面目を失った著名人や組織は、己の権威をコケにした知識人や文化人を敵視し、時にそれが本格的な泥沼の争いにまでエスカレートする場合もあるが、それは2500年前のアテナイにおいても同じだったらしい。

 

だがソクラテスと彼らの重なりは一部であり、それも皮相のわずかな部分に過ぎず、両者の根本と実質には決定的な違いがある。

 

果たして自分の命が、その批判する対象の手に握られている土壇場で、正しくはあっても対象の機嫌を損ねるに違いない手厳しい批判をなおやめようとしない、ソクラテスと同等の不退転の信念と決死の覚悟を持った知識人や文化人が現代にどれだけいるだろうか?

 

本来批判というものは、相手を貶め悪い立場へ追いやる敵対的攻撃ではなく、意見の論理的間違いを修正して改善し、より良い人生へ導く友好的援助であり、悪意や敵意から発する利己的行為ではなく、善意と好意から発する利他的行為である。

 

意見や主張の修正による真理の追究がもたらすであろう批判対象の幸福を願わない、屈服と優越だけを主眼に置いた真の思い遣りが欠けた批判は、どれだけ論理的に正しく根拠が確固としていても、そもそも批判ではなく、ただの罵詈雑言や誹謗中傷の類から脱却しえない下世話以下の所業である。

 

ソクラテスは自分の命の懸かった裁判においても、命乞いまがいの自己弁護ではなく、告発された罪状の論理的瑕疵を指摘し、自分の行い(有名な「無知の知」を実証した辻問答)の正当性やそれによってもたらされる真理に近づく道徳的便益を弁によって明らかにしていく。

 

それだけに留まらず、告発者やその支援者である多数のアテナイ市民たちがその告発に賛同した感情的で不合理な動機の理不尽にも自ら踏み入り、容赦無く批判のメスを入れていく。

 

当然、ぐうの音も出ない理詰めで間違いを指摘された告発者たちがそれを素直に喜ぶはずもなく、案の定ソクラテスは最終的に陪審員を兼ねる500人もの聴衆の大多数の賛成を以て死刑判決を受ける。

 

プラトンが臨場感豊かに描写する、数百人の聴衆を前に、一歩も怯まず、よどみなく筋の通った自説を演説するソクラテスの堂々たる態度には、現代日本人の感覚からすると少々現実味が薄く、創作物にありがちな万能無敵の英雄に通ずる嘘くささを感じずにはいられないが、仮にこの内容が完全なプラトンの創作だとしても、批判というものは、たとえ命を落とすことになってもやり遂げねばならない、普遍の真理の探究の一手段あるという理想の具体的な一形態の教材であると捉えれば、目指すべき目標として、本著の「ソクラテス」は格好のモデル足りうる。

 

「正しい」ということの本当の重さがありありと実感できる一冊。