バグダードのフランケンシュタイン
日本ではあまりお目にかかれない、イラク作家の小説の日本語訳。
つぎはぎした人間の遺体が動き出した怪物、いわゆるフランケンシュタインの怪物が、イラク戦争終結後の世情の混迷を極める首都バグダードに現れるという物語。
世間から便宜上「名無しさん」と呼称されるこの怪物は、元々は、爆弾テロで街角に四散した人間の残骸の断片を、地元のほら吹きの古物商ハーディーが拾い集め縫いつなぎ、かろうじて一個の人間ぽい形に成形したもので、本来ならただの腐りかけの肉片の不細工な寄せ集めに過ぎない。
だがそこに、何の因果か、他の遺体と同じように爆弾テロで死んだホテル警備員の魂が入り込み、突如として動き出した挙句、自身を含む怪物の部品となった人々の遺恨の集合体として復讐のための連続殺人を始めたことで、ただでさえ混乱の渦中にあるバグダードは、その度合いをより色濃くしていく。
この「名無しさん」という超常の怪物が、本作において重要で存在感のある重要なファクターであることに間違いはないが、表題の指す「フランケンシュタイン(の怪物)」にはさらに大きな含意がある。
物語が展開するにつれ、「名無しさん」が、本作の主題や着想を可視化した比喩的な存在に過ぎず、彼もまた、この「バグダードのフランケンシュタイン」という、多様な人間や状況の寄せ集めの物語、つまりフランケンシュタイン的な構造の物語における部品に過ぎないことが明らかになっていく。
破壊され機能を停止した異質な要素の残骸の寄せ集めが、一個の機能する存在として成立しているフランケンシュタイン的理不尽が、「名無しさん」は当然として、本作のどこをどのように切り取っても顔を出す。
だが、その物語構造としてのフランケンシュタインの顔にも、「名無しさん」の顔にも、定まった造作というものがない。
物語の過程で破壊されて散り散りになっていく事態や状況の断片を、時間経過で腐り落ちていく部位の補修素材として拾い集め置き換えていかざるを得ないフランケンシュタイン的物語の顔は、常時変化の過程にあり、またその変化には終わりというものが一向に見えてこない。
「名無しさん」も、混迷の一途をたどる一方で収拾は一向につきそうもない物語の様相を反映して、当初はシンプルだった目的と動機が、腐って崩れていく自身の補修のため取り込んだ新たな残骸の意向も混入することでどんどん複雑化し、明確で単一だった到達点が際限なく増殖し、達成のめどが遥か永遠の彼方へ遠のいていくことに困惑し、途方に暮れてしまう。
これは、絶え間なくスクラップアンドビルドが繰り返され、奇怪で物騒でいっかな安定しない様相を呈する、制御不能の暴走状態に陥ったイラクの現状の縮小された投影である。
イラクの現状の寓意が「バグダードのフランケンシュタイン」という物語であり、「バグダードのフランケンシュタイン」のテーマの擬人化が「名無しさん」という入れ子構造になっているのだ。
破壊されたそれぞれが異質な遺骸の断片を寄せ集め、人間の形に整えたところで、本来ならよみがえる道理はなく、依然として遺骸は遺骸であり、不気味で不潔で不快を催す存在ではあっても、向こうから何らかの意図をもって積極的に危害を及ぼすような危険ではない。
だが、現実世界はそうではない。
事故や戦争がどれだけ社会を痛めつけ破壊し断片化しようとも、人々が生活を取り戻そうとその残骸を寄せ集め形を整えると再び社会として動き出す。
だがその自然な欲求に基づくスクラップアンドビルドに、遺恨や憎悪といった破壊を志向する不純物が混入すると、動き出した社会は歪な怪物的状況と化して新たな破壊の拡大再生産をもたらし、自らが生み出した犠牲者を取り込みながら肥大化と醜悪化の一途をたどる、極めて悪性の高い悪循環を形成する。
だが本作には、本作をイラク社会がドツボにはまっている世知辛い理不尽をエンターテイメントに翻訳した憂鬱な寓話で終わらせず、フランケンシュタイン現象とも呼ぶべき世情の際限なき怪物化の悪循環を断ち切る、あるいは円環の閉鎖から脱出する道を提示していると思われる描写もあり、作者がイラクの未来についてまるっきり悲観しているだけではないような、前途有望な明るい印象も垣間見える。
イラク文学というものに接する機会がこれまで全くなく、基礎知識がないので、文体や作品が醸す独特な雰囲気が、イラクの風土に根差す文化的なものか、作者や作品に根差す個人的・個別的なものなのか判別できないが、おそらく両者が混交したフランケンシュタイン的な作風とするのが、本作を読んだ後の分析としては妥当かもしれない。
イラク社会の置かれた過酷な現状の本質を直観的に把握できる、実用的寓話。