ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

クオリティランド

高度に発達した情報テクノロジーに基づく倫理観を欠いた経済構造が人々(とAI)の生活を翻弄する近未来の世界を描くドイツSF。

 

先端の情報技術を利用した思想統制が人々を支配するディストピアを描いたジョージ・オーウェルの名作SF「1984」の系譜に連なる作品。

 

半世紀以上の時を経て、象徴的小道具のテレスクリーンは汎用性と偏在性が段違いに向上したタブレット端末に進化し、ビッグブラザーの役どころはGoogleAmazonFacebookの後釜と思しきプラットフォームビジネスを実質独占的に営む超巨大企業体や、それらにおもねり、人民の心情を(現代以上に)蔑ろにする非情な政府や法制度などに置き換わっている。

 

近代ドイツSFは本作と「帰ってきたヒトラー」しか読んだことがないので、ごくわずかなサンプルに基づく偏りまくった思い込みでしかないが、この2作を読む限り、社会情勢を適度な距離感をもって俯瞰し、冷静に客観的な批評を下し、そこで終わらず丹精を凝らした思考実験にユーモアを添加してエンターテイメントへと昇華する風刺SFの分野において、ドイツ人は特筆すべき素養を国民性のレベルで備えているように感じられる。

 

優れた作品を生む文筆家にはそもそも客観性や分析能力やユーモアが高いレベルで備わっているといえばそうなのだろう。

 

だが、生まれた時から先達が犯した大量虐殺の歴史を背負い、その反省を義務化される戦後生まれのドイツ国民に共通する生い立ちが、大勢の人々を誤った道に迷いこませる構造的危険性をはらむ社会情勢への鋭敏な批判精神を人格の根深い次元で育み、緻密で妥当性の高い思考実験をベースにした社会風刺を手法とする優れたSF作品を生み出す作家を次から次に輩出する温床となっているのでは、という偏見に満ちた仮説を提唱したくなる程度に、本作と「帰ってきたヒトラー」の物語構造やディテールから漂う雰囲気には、個人が天性や修練から会得したにしては似通いすぎている、作家性よりも更に深層で作風を決定づけている国民性のようなものの存在感が無視できない強度で感じられる。

 

様々な媒体から収集した人々の膨大な行動様式データを元に、その趣味嗜好を的確に分類・抽出し、無意識化の欲求すら浮き彫りにできると謳う進化した商業アルゴリズムと、その商業アルゴリズムに日常生活上のありとあらゆる選択権をなしくずしに白紙委任せざるを得なくなった国=クオリティランドでは、人々は自由を保障されてはいても、主体性を発揮する機会は皆無、という奇妙な状況に陥っている。

 

例えば、クオリティランドに住む主人公の家には、毎日のように頼んでもいない商品がドローンで配達されてくる。

 

これは、主人公のこれまでの生活様式や購買傾向を分析したビッグデータの解析から算出された、主人公が「確実に」欲すると思われる商品をアルゴリズムが先手を打って用意して送り付けるからだ。

 

これは、Amazonに代表される通販プラットフォームが提示する「おすすめ商品」のシステムの理想的な、あるいは悪夢的な完成型だ。

 

クオリティランドの住民はこの、現代人からすると送り付け詐欺じみた通販企業のサービスを何一つ問題視することなく当たり前のものとして受け入れ、送られてきた商品も当然返品などしない。

 

そこには、「欲しいものが送られてきた」のではなく、「送られてきたからには欲しいものだ」という、欲求と充足を結ぶ因果関係の奇妙な逆転が生じている。

 

この奇妙な逆転が、通販や買い物の商品だけでなく、日常生活のありとあらゆる意思決定の領域まで侵食している。

 

クオリティランドの住民は、仕事や娯楽、付き合う友人や恋人、選挙で投票する大統領候補まで、各種ネットワークサービスのアルゴリズムがパーソナルデータに基づいて提示する「おすすめ」に唯々諾々と従って判断を下している。

 

生活のありとあらゆる側面にいきわたったこれらのサービスのおかげで、人々の人生にはまったくと言っていいほど主体的な判断を下す余地が無くなっている。

 

だが、クオリティランドではそれが良しとされている。

 

生活のあらゆる要素をサポートする偏在アルゴリズムは、人々が下す主体的判断を代理しているのではなく、あくまで主体的判断を完璧に予測し、提示しているだけなのだから、判断に行き着くまでの行程を効率化しているだけで、意思決定には一切干渉していないというのがその論法だ。

 

1984」では、人々はビッグブラザーの掲げる単一の価値観に隷従させられた。

 

本作でクオリティランドの人々が隷従を強制されるのは「自分」だ。

 

「自分」に隷従する、という表現は、同義反復に近く、本来なら何の意味もない言葉だ。

 

意思決定する「自分」に従わずにいられる行動する「自分」などいないのだから。

 

だが、主人公を襲う災難は、クオリティランドにおいては、「自分」に隷従する、という同義反復が、厳密には同義反復ではなかったことに由来している。

 

アルゴリズムは人々の日々の行動パターンの膨大なデータを収集し、解析して人々の判断や欲求を予測する。

 

あたかも一流のメンタリストが、髪をかき上げたり足を組み直したりする動作など、些細で何気ない挙動からその人の心理状態をつぶさに読み取り次の行動を的確に予測するように。

 

だがそれはあくまで統計学的な予測から構成された、実際の心情に対するおぼろげであやふやな鏡像に過ぎず、けして「自分」ではないものだ。

 

行動パターンは行動パターンであり、個人の心情と同一視することは原理的に不可能だ。

 

本物と鏡像には、いくら接近しても、決して越えることはできず、ましてや接触すら叶わない一線が横たわる。

 

それは、言葉がいくら正確を期して尽くされようとも、言葉が指す実体を完璧に代替できないのと同じ現象だ。

 

アルゴリズムを盲信するクオリティランドの人々は、その一線の存在に気付かず、あるいは意図的に無視して、統計学的な予測と個人の心情を完璧に同一だとする幻想を土台にした国家を建設した。

 

結果としてアルゴリズムが提示する「自分」は、実際の「自分」とはほんの少し、しかし決定的にずれた、「自分」に限りなく近似した鏡像となる。

 

クオリティランドの人々は、この鏡像に「自分」を同期させるよう、ありとあらゆるメディアを通じて24時間絶えず強迫されている。

 

いくら精巧でも、表出した行動パターンやコンテンツの好みや購買傾向だけから復元された鏡像はおぼろげであやふやで、ともすれば歪んでおり、決して実際の「自分」とは重なり合わない。

 

人を模した人造物の容姿や行動の精度が本物に肉薄するほど親しみが減じ不気味さが増す「不気味の谷」という現象があるが、クオリティランドに横行するアルゴリズムが提示する歪な鏡像も、本物と鏡像の間に横たわる絶対的な一線に近づくほどに、大多数の共通点より僅少な相違点の方が夜闇をまぶしく照らし目を刺すスマホの画面のように存在感を増し、いよいよ無視できない不気味な違和感となって不快を催す。

 

今はまだ、Googleの的外れな検索結果にフラストレーションを感じたり、Amazonが提示する微妙なおすすめ商品を横目で流す程度で済んでいるが、アルゴリズムがデータを勝手に解釈して作り出した不細工な鏡像をあらゆる方面から提示され続けるという現代の環境はクオリティランドと世界観の軌を一にしており、技術革新の追い風は確実に現代をクオリティランドの地点まで連行するだろう。

 

もし日常で接するネットワークサービスに不満や無関心ではなく、不気味さを感じるようになった時には、既にこの世界はクオリティランドと化しており、人々はネットワークとアルゴリズムに挟み込まれた不気味の谷を、スマホ片手にいつまでも行進し続ける羽目に陥っているかもしれない。

 

ただ不気味ではあっても、この谷間がこの上なく便利で快適なのも否めず、利便を捨てて谷間を脱出する勇気を持つのは難しいだろう。

 

時代時代に社会情勢の在り様を決定づける強力なテクノロジーに潜在する未知の危険を鮮やかにリアルに、そして何よりユーモラスに描き出した一冊。