ざっくり雑記

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人類最強の純愛

人類最強の哀川潤がどんだけ最強なのかをひたすら掘り下げる最強シリーズの第二弾。

 

「最強」という言葉はその意味する唯一無二性とは反対に、至る所で目にするありふれて手垢のついた表現としてすっかり新鮮味を失って日常生活に定着し、見聞きしてもさほどの驚きを与えない凡庸な表現の一つとなっている。

 

だが、具体化しようとするとこれほど難渋する厄介な概念もない。

 

序列に直すと、最強は二位に対する一位ということになる。

 

が、二位が一位と三位の間という限定された枠組みの中に位置する有限な存在であるのに対し、一位には二位の上という下限の限定しかなく、上限に関しては無限に発散し、ただただ茫漠とした果てなしの可能性が広がり、捉えどころがない。

 

実例があるかどうか定かではない、まことしやかな都市伝説として、オリンピックで金メダルを獲得したアスリートが競技に対する意欲を失い燃え尽き症候群的な無気力に陥るエピソードがあり、このエピソードには状況を変えただけのバリエーションも多々あるが、ある分野で頂点に立った人間がその分野に対する情熱を失い、一種の廃人になるという筋書きは同じだ。

 

これは、最強の立場に立った人間が、一位という目指すべき明確で有限の目標を喪失し、茫漠とした無限の可能性と生身で直面したときに陥る、途方に暮れるしかない危機的状況を端的に説明している。

 

もちろん、いかなる分野も単に対等の競争相手がいなくなったというだけで、その分野そのものの奥深さやそこから生じる魅力が損なわれるものではない。

 

どんな分野にも、上達や卓越から獲得できる向上の愉悦は常に存在し、それは最強だろうが最弱だろうが関係ない。

 

だが、あくまで競争のみに焦点を当てるなら、最強というのはゴールであると同時に終点でもあり、その先には何のコースも用意されておらず、最強という称号は王座に君臨する栄誉を称える栄冠ではなく、枠組みからの逸脱を示すだけの味気ないレッテルにもなりうる。

 

本シリーズの主役である人類最強は、そういった意味で、人類の枠組みから逸脱し、人類の尺度では計り知れなくなってしまった存在である。

 

そして本シリーズは、その計り知れない存在を計る尺度の物語とも読める。

 

前述のとおり、競争の頂点たる最強には、上限のない無限の可能性と直面し途方に暮れる燃え尽き症候群に陥る精神的危機がついて回るが、哀川潤もその例外ではない。

 

肉体のみならず精神においても人類最強である彼女には、燃え尽き症候群に由来する抑うつなど縁遠い話だが、それは遠いだけであって、燃え尽き症候群の危機が無いのと同義ではない。

 

あくまで、燃え尽き症候群のネガティブな引力に捕まらないロケット級の推進力を誇るポジティブさがあるというだけだ。

 

むしろ、燃え尽き症候群の引力に関しては、ボクシング最強とか、空手最強とかと比べると、人類最強の競争相手は全人類となるわけで、当然その引力は人類最大になる。

 

人生から楽しみを享受する術にたけた最強の享楽主義者の一面も持つ彼女だが、たびたび退屈を覚えたり孤高を危惧する描写があるのは、彼女の傍に人類最大の燃え尽き症候群の大穴が常に控えていることを示唆している。

 

燃え尽き症候群に陥らない一般的な対処法は、新たな目標を設定し挑戦を続けることだ。

 

人類最強の哀川潤も、この方法で燃え尽き症候群の危機を回避している。

 

強さをアイデンティティの柱とする人類最強の哀川潤が、強さについて新たな目標を設定するとなると、現行人類や、現行人類が取り組んでいる分野は対象となりえない。

 

というわけで、本シリーズで彼女が向き合うのは、人外と、人類の手に負えない問題ばかりとなっている。

 

登場人物たちが最強の座を巡って切磋琢磨し鎬を削る王道のストーリーは数あれど、最強そのもの、それも名実ともに人類最強の最強に正面から切り込み、次から次に突拍子もない対比物を投入することでディテールを彫り込んでいく描写を主題に据えた物語に接する機会はあまりない(バキぐらいか)。

 

圧倒的な力で相対的弱者を蹂躙し無双する「最強」のキャラクターが活躍するコンテンツが一部で熱狂的な支持を受けているが、それとはまた違った「最強」描写が楽しめるシリーズ。

 

しかし、本当に人類最強に見合う伴侶は見つかるのだろうか。