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レヴェナント: 蘇えりし者

 

レヴェナント:蘇えりし者 (字幕版)

レヴェナント:蘇えりし者 (字幕版)

  • 発売日: 2016/07/27
  • メディア: Prime Video
 

次から次に畳みかけるヨブもかくやの凄惨な苦難の連続を乗り越え生を全うする男の生き様を美麗なアメリカの大自然を背景に描いた映画。

 

以下ネタバレあり。

 

主人公のヒュー・グラスは19世紀の西部開拓時代の実在の罠猟師で、本作は彼が体験した壮絶な運命を下敷きにしている。

 

グラスはネイティブアメリカンのポーニー族の妻を持ち、一人息子のホークをもうけ彼女が属する集落で暮らしていたが、軍の襲撃により集落は壊滅し、妻も殺されてしまう。

 

命からがら襲撃を生き延びたグラスとホークはのちに毛皮猟の一団にガイドとして参加するが、グリズリーとの死闘や息子の死、孤独なサバイバルなど、さらなる苦難がグラスを襲う。

 

ディカプリオ演じるグラスが、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂ならぬグリズリーの散々な目に遭い続け、棺桶にバキバキに折れた片足を突っ込んだ満身創痍の半死半生で未開拓の厳冬のアメリカの荒野に孤立無援で放り出されるという、人智を凌駕する最悪に最悪を塗り重ねた苛烈を極める苦境は、災禍の当事者であるグラスどころか観ているだけの視聴者の心ですら折りかねない。

 

利己的な卑劣漢で息子の仇であるフィッツジェラルドが、作中折に触れ、守るべき家族を全て喪い瀕死のグラスの悲惨極まる不遇をあげつらい、卑賤な宗教観に基づく冷酷な神意を振りかざし、彼の復讐の切っ先を鈍らせようと過酷な生から甘美な死への逃避を執拗に推奨し、ただでさえ生死の境界に追い詰められているグラスに容赦ない追い打ちをかける。

 

残酷な運命に翻弄され続け、家族を全て喪い、自身も死の淵に立たされ腐りかけの傷の苦痛に喘ぎ、惨禍の連続に終わりが見えないグラスの境遇を鑑みると、フィッツジェラルドが嘯くおためごかしの死への誘導にも一定の理があるように聞こえてしまう。

 

だがグラスはそれでも安易な死へと逃避しない。

 

ベテランの罠猟師としての知恵や工夫を駆使し、時に天祐を得ながら、文字通り這う這うの体に関わらず地獄のごとき状況から生還を果たし、非道の限りを尽くすフィッツジェラルドに報いを受けさせる。

 

ネイティブアメリカンの教えらしき、生存の義務を称揚する教訓が、亡くなった家族の幻想に伴ってリフレーンし、生と死の分水嶺で危ういバランスに立たされるグラスをかろうじて、しかし強固にこの世に引き留め続ける。

 

フィッツジェラルドの言に代表される、生きる意味の有無を生存の是非と直結して問う言説や物語は数あるが、本作はその逆転に真理を見出す。

 

すなわち、生きる意味があるから生きるのではなく、生きるからこそ生に意味が生起するのだ。

 

前者は人間の道理であり、後者は自然の摂理である。

 

道理は容易に揺蕩うが、摂理は永劫不変である。

 

生き抜いたからこそ、妻や息子の非業の死がグラスを死に誘う悲劇ではなく、己の生に彩りを齎すかけがえのない人生の一部へと昇華されたのだ。

 

グラスは実在の人物だが、本作では摂理の体現として描かれる寓意的存在であり、同じく道理の体現であるフィッツジェラルドと対比される。

 

生命から熱を奪い死へと追いやる恐ろしくも美しい厳冬のアメリカの空と大地と雪が強烈な対照となってグラスの生存への努力を際立たせ、ひいては生が保証された文明社会では不明瞭になりがちな生の摂理の輪郭を極限まで美しくコントラストする。

 

本作について特筆すべきはメッセージ性だ。

 

物語には大抵何かしらのメッセージ性があるが、本作ではその点が明確に意思表示される。

 

ラストでアップで映し出されたグラスが突然カメラ目線になり、視聴者と目がばっちり合う。

 

状況的には、その視線の先にはグラスの注目を引くような特別な対象はなく、ストーリー上、その視線の切り替えには必然性が無い。

 

明らかにその視線は視聴者に向けられ、何かを伝え、あるいは何かを問いかけている。

 

その際のグラスは、何とも言えない表情をしている。

 

家族を喪った果てに復讐を成し遂げ、当面の目標を失った虚無的な無表情にも見えるが、同時に、押し寄せる万感が混然一体となった結果の無表情にも見える。

 

モナリザの微笑のように、万人の多種多様な解釈を受け入れてなお無限の余地を残す、森羅万象を包含した曖昧な無表情だ。

 

あらゆる意味が生起し、あらゆる意味を戴く無限の土台たる「生」の、純粋な状態がグラスの無表情に束の間顕現し、その表情を差し向けられることで、視聴者は映画表現全体によって織り上げられた「生」の総体を、最後にグラスから託される。

 

 

単なる娯楽作品としても楽しめるが、本作にはなまなかには捉えがたい「生」の実態を伝承する一面がある。

 

ネイティブアメリカンが、一族が培い蓄えた知恵を伝承するのに口承という手段を用いることがあるが、本作はいわばその現代版、「映承」とでもいうべき伝承の一つに位置づけられるかもしれない。