ざっくり雑記

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パーフェクト・ゲッタウェイ

 

パーフェクト・ゲッタウェイ(字幕版)

パーフェクト・ゲッタウェイ(字幕版)

  • 発売日: 2018/09/29
  • メディア: Prime Video
 

 余人には理解しがたい歪んだ欲求を際限なく満たすべく、次々に犠牲者を手にかける狡猾な連続殺人鬼の隠微な恐怖を、風光明媚なハワイの大自然と対比して描くスリラーミステリー。

 

どんでん返し系のミステリーだが、そのどんでん返しの内容が序盤で何となく察知できてしまい、その予想がそのまま当たってしまう素直などんでん返し系。

 

なのだが、どんでん返しが分かってしまっても十二分に楽しめるのは、秀逸な脚本と出演陣の温度差の激しい鬼気迫る演技によるところが大きい。

 

登場人物の台詞や行動の意味が、どんでん返しから振り返ってみると全く違う様相を呈す。

 

大半のセリフがダブルミーニングになっており、だまし絵のように見る角度によって全く違う、時に真逆の意味を持つようになっている。

 

それだけでも技巧としては秀逸なのだが、そのセリフのいちいちが魅力的で引き込まれるからすごい。

 

さらにすごいのは、登場人物の一人が脚本家で、会話の中で脚本論に触れる箇所がある点だ。

 

物語に接するときの前提として、物語は物語にとっては現実であるという暗黙の了解がある。

 

物語が作り物であるという意識が浮上すると、途端に興ざめしてしまう。

 

例えば本格中世ファンタジーの緻密な世界観を何万ドルもかけて精巧に再現したドラマの荘厳な一場面が、スタッフが置き忘れたスタバのカップ一個が映り込んだだけで台無しになるように。

 

映画という物語においては、作り物ではあっても作り物には見えないように演出する、リアリティを演出する技術が重要な要素となってくる。

 

観客の作品への没入を妨げるフィクション的な要素の排除が基本となる物語において、劇中で「物語」について触れるということは、寝た子を起こす藪蛇になりかねない。

 

物語、特にその理論的な側面に触れるということは、物語を作り物として捉え、評価する視点を観客へ提供するとともに、物語に没入した状態から観客を引きずり出し、興ざめの気分に陥らせる危険を製作者自らが冒すことを意味する。

 

例えば物語の中で登場人物に、「物語というのは登場人物に特別な特徴を持たせなくちゃ面白くない」というセリフをしゃべらせると、途端に観客の注意は登場人物たちの特徴に向けられ、それが特別かどうか、そして面白さにつながっているかどうかを厳粛に判定する、物語から一歩距離を置いた分析的な冷めた視点へと転じる。

 

そういった批評家的鑑賞手法には、それはそれで特有の面白さがあるが、せっかく労力を費やして物語に付与したリアリティを危うくする無意識の粗探しの動機と、そのための判定基準というツールを観客に与えるメタ情報の挿入は、物語が持つ「現実からの遊離」という本質を自ら否定し、没入に基づく面白さをスポイルする危険を孕んだ、扱いの難しい諸刃の剣である。

 

にも拘わらず、本作の脚本家はその難業に真っ向から取り組み、そのメタ情報を物語の面白さへ見事に結実させている。

 

また「脚本家」が象徴する諸々の性質が、殺人鬼の殺人の動機の本質にも通ずるメタファーにもなっており、メタ情報の提示が物語を構成する具体から抽象に至るあらゆる次元の要素を紐づける太い背骨として機能し、どんでん返しというワンアイディアだけに終わらない奥行きと高密度の質量を本作に与えている。

 

さらに特筆すべきは、そういったメタ情報の提示によっても揺るがない、出演陣の迫真の演技力がある。

 

特にミラ・ジョボビッチのアクションで鍛えられた追い駆けシーンの絶望感は圧巻で、画面の奥からこちらへ向かってくるミラ・ジョボビッチの狩人オーラに、思わず後ずさってしまった。