死の工場 隠蔽された731部隊
第二次世界大戦中の日本軍において、生物・化学兵器の開発研究・実戦使用を専門に担った731部隊を始めとした関係者や部署の謎に包まれた行状を、その中心人物であった軍医・石井四郎中将の動向に着眼して追及したドキュメンタリー。
東京裁判によって多くの日本人が戦争犯罪者として裁かれ、厳刑に処された。
その裁判の是非や判決の過程については、今もなお侃侃諤諤の議論が後を絶たないデリケートな問題となっているが、一方で、戦争中、軍事において人道上の見地から大いに問題視される作戦に従事したにも関わらず、訴追を免れた人間が少なからずおり、その筆頭に挙げられるのが、731部隊や関連諸機関を率いた石井史郎中将である。
731部隊に代表される関連諸機関は、石井中将の提唱した生物・化学兵器を用いた戦略構想に基づき設立・運用され、兵器の効果検証や運用方法の模索の人体実験に供され亡くなった被験者や、実際に投入された兵器の被害を受けた人々など、おびただしい数の犠牲者を生み出した。
本書は、本文部分が二段組の350ページを超える大著だが、一ページめくるごとに犠牲になった人々の情報が数人から数百、時に数千にも達する単位で休む間もなく次から次に列挙され、読み進むうちに数字の大小に感覚がマヒしてしまいそうになる。
時間も空間も隔てた、文字媒体に落とし込まれた間接的な情報を読んでいるだけでこれなのだから、当時の現場で人体実験や軍事作戦に従事していた人々の精神状態がどのような変容を遂げていたか、想像もつかない。
目的は手段を正当化するという理屈は、戦争において頻々に適用され、平時では到底許容されない非人道的行為も不可抗力の結果として罪と見なさない場合があるが、731部隊らが行った、人命を知的好奇心の充足のために生贄にくべる大量虐殺は、その非常事態における極限の理屈を以てしても、情状酌量に値しないのではと疑問を呈さざるを得ない、人智を逸脱した残虐行為であった。
彼らの行いが非難されるべきは、直接的な被害の甚大さという面だけにとどまらない。
敵の殲滅への飽くなき要求が、人間の倫理を壊滅的に崩壊させた。
倫理の歯止めの瓦解は、闘争と不可分の残虐性の飛躍的なエスカレートを招いた。
人類の文化が長年培ってきた「平時の良識」に代わる「戦時の良識」が、東京裁判によってすら裁かれることなく勝者のお墨付きを与えられ、戦後世界の基本構造に骨組みとして組み込まれた。
世界の様相が気付かぬうちに悪い方向へ、特に低劣で野蛮な方向へと大きく舵を切る起因となる悪しき前例を、731部隊らは作ってしまったのだ。
例えばナチスのホロコーストは人類の尊厳に対する犯罪として裁かれたことで、偏った特定の思想に基づく大規模な殺害は、戦時にあっても許容されない無条件で非難されるべき悪事であるという世界的な合意が形成されたが、731部隊の明らかに人権無視の人体実験や生物・化学兵器の実戦使用は当局によって認知されていたにも関わらず、東京裁判に取り上げられることは一切なく、それはつまり、それらの行為が黙認されたことを意味する。
なぜなら、その方がアメリカや日本にとって都合がよかったからだ。
その辺りの詳しい経緯は多岐に渡る利害関係が複雑に入り組んだ厄介な問題であるため、ここでは詳細を省くが、何はともあれ、この件に関しては倫理ではなく利害の得失が優先されたのだ。
この、実質無罪放免と変わりない裁可は、当事者たちは気づかなかったであろう、二次的な、しかし見ようによっては一時的な災厄より大きな悪疫の密かな蔓延を許してしまった。
それは、人類を絶滅させかねない核兵器の保有が是認され、国力を構成する一要素として世界が公認している現状にも通底する悪疫である。
銃刀法違反という法律があるが、これは人や物を傷つける恐れのある道具の所持を規制し、違反した場合は処罰を課す決まりだ。
銃社会で悪名高いかのアメリカですら、銃火器の所持には(一応)許可がいる。
実際に傷害しなくても、その前提条件ですら規制されるのだ。
一方で、警察や軍隊は、治安維持や国防という目的のために銃火器や兵器の所持や使用を特別に許可されている。
これは、前述した目的は手段を正当化するという論理に基づいている。
では核兵器の保有や使用も、国防という目的達成のために正当化されるのか。
核兵器の火力と保有数を単純に掛け合わせると、地球上の地表を焼き尽くし、人類文明を壊滅させて十二分なお釣りがくる破壊力があるのは周知の事実だ。
この火力が、政治家や軍部といった、特定の組織のごく一部の人間の意思決定、あるいは過失により使用される可能性がとりもなおさず常在するのが偽らざる現在の世界情勢だ。
拳銃やナイフならば、いくら危険とはいえ傷害したり殺害できる人数はたかが知れている。
そんな武器の所持ですら規制しているのは、所持が使用へつながる可能性があるからだ。
つまり、人間の自制心に安全の保証を一任せず、また常在する過失の可能性を危惧しての予防措置が敷かれているということだ。
銃刀ですら規制されるのに、否応なく人類を滅ぼしかねない絶滅火力たる核兵器が容認されている現況は倫理的に正しいのかどうか、甚だ疑問だ。
はっきり言って異常である。
その異常が常態としてまかり通っている。
もとより核兵器を厳しく批判する世論はあっても、それが主流となって核兵器が根絶されたり、実効性を以て規制されることは、その実用化以来一度としてなかった。
仮に規制されるとしても、人類を絶滅させかねない兵器の保有や使用が一国家や一組織の決定に許されるに妥当な、手段を正当化する「目的」など、この世に存在するのだろうか?
国防、つまり国民の生命という究極の財産を守るための武力に、全人類を根絶する可能性が含有されているのなら、本末転倒もいいところで、そうなると倫理どころか論理としても破綻している。
倫理的にも論理的にも許容されないはずの武力が、倫理や論理の具現である法治国家において是認されている大いなる矛盾が横行しているのが現代だ。
この矛盾は、人類の倫理や論理が核兵器という個別分野に関して破綻をきたしてしまっていることを意味する。
731部隊らの不起訴は、生物・化学兵器という個別分野に関する倫理や論理の破綻と同義だ。
そもそも、生物兵器分野で主力となる細菌やウィルスが、人類の総力を結集してもいまだに制御不能な自然界の事象の代表格であることは、昨今のウィルス禍を引き合いに出すまでもなく明らかな事実だ。
完全なテクノロジーの産物である銃火器や核兵器ですら持て余している人類が、自然界で猛威を振るう細菌やウィルスを兵器転用するというのは、全くの門外漢の素人考えでも傲慢が過ぎ、愚かを通り越して滑稽ですらある。
自衛が武力の最も基本的にして最重要の役割なのに、自滅の可能性、果ては絶滅の可能性すら十二分にある細菌やウィルスを武力に組み入れるというのは、核兵器と同様、あるいはそれ以上の倫理的・論理的破綻をきたしたアイデアだ。
その破綻したアイデアが通用してしまい、そして敗戦という絶好の反省の機会すら逸し、存続を許してしまった倫理のダウングレードが、731部隊らの処遇が世界に遺した悪疫の正体である。
個体としての731部隊らは解散したが、その遺伝子は変異と感染拡大を繰り返し、難治の悪疫となって命脈を永らえ、世界に深く根を下ろしたのだ。
物事の善悪は相対的であり、状況によってその基準は変動するのだから、731部隊らの所業も、戦時という特殊な状況に置かれた人間たちの精神状態や思考形態を勘案すれば、当時としてはそれが正義として受け入れられたのではないか、という同情的な想定ももちろん可能だ。
この想定に対し、注目すべきは、一連の生物・化学兵器事業に関わったすべての人間が、それらを強力に推進した石井中将ですら、それらの事業の秘匿と隠蔽を真っ先に考慮し相当の労力を費やしている点だ。
戦争の勝敗に関わる軍事機密の秘匿と隠蔽工作は情報戦の観点からして当然の処置であるし、それが決戦兵器ともなれば尚更だが、生物・化学兵器事業におけるそれらの工作にはさらに別のニュアンスが、それも前述のものよりさらに重大なニュアンスが含有されていた。
関係者たちは自分たちの所業が、世間から無条件で猛烈に批判され、いかなる正当化も許されない悪逆非道であることを、明らかに自覚していたのだ。
関係者たちに良心の呵責があったかどうかは定かではないし、あったとしても異常な環境に順応してしまい不感症に陥っていたとしても不思議ではなく、個人差もあろうが、少なくとも、戦争の勝利という名目のもとで行われる殺害を前提とした人体実験や生体解剖、民間人への細菌攻撃、情報隠蔽のための捕虜や虜囚の殺処分といった行為が、到底世間に公表できない人道に悖る恥ずべき悪行であることを、関係者全員が終始一貫して認知していたのだ。
全人類共通の敵といっても差し支えない細菌やウィルスを培養して同族たる人類を殺傷するという所業は、敵の繁殖を促し勢力拡大を助長する、人類全体に対する裏切りそのものであり、裏切りは核兵器よりも生物・化学兵器よりも許容されない。
本書は、その全人類に対する背信行為に手を染めた組織の、闇の深奥に沈潜した栄枯盛衰の一部始終を日のもとに引きずり出し、現代までを冒す倫理の荒廃という悪疫の遺伝子配列を綿密に解析した力作だ。
この解析結果をもとに、人類が悪疫に対する免疫を獲得することが、本書が著された目的の一つかもしれないが、そこに至る道は険しく遠いような気がしてならない。