ざっくり雑記

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スピリットの器

アメリカ先住民(以下記述の便宜上インディアンと呼称)の独特な土器づくりの文化を取材し、失われかけている人類と大地が密接に相補する関係性を見つめなおすドキュメンタリー。

 

インディアンを物理的にも文化的にも蹂躙した西洋文明は、この世界とそこに生きとし生けるすべてを、神が無償で提供してくれた資源の宝庫として捉え、際限なく搾取している。

 

一方、インディアンの文化では人間は自然界において特別な位置を占める存在ではなく、あくまで生命の大きな循環の鎖の一環として捉え、日々の生活に必要な糧を自然からの賜りものとして敬愛する。

 

その世界観に迫る手掛かりとして、本書では土器づくりに注目する。

 

インディアンにとって、土器は母なる大地(マザー・アース)の血肉の一部である土から作られるものであり、単なる日用品をはるかに超えた重大な意味を持ち、冠婚葬祭などの儀式においても象徴的に用いられる。

 

採土や成型や焼成といった土器を作る工程が、土に触れ、大地に満ちる人智を絶する力と語らい、土と水と火の恩恵に感謝する、ある種の巡礼となっている。

 

慎ましくも豊かで深遠な世界観を、西洋文明の侵略が容赦なく駆逐し絶滅へと追いやる歴史的経緯は痛ましく物悲しい。

 

西洋文明とひとくくりにしたが、かつてのそれは200年を閲して世界全体を覆うグローバルな資本主義、偏狭な物質主義、自殺的な拡大主義へと肥大し蔓延し制御困難に陥っている。

 

政治や企業活動の倫理が問われる昨今だが、その倫理はあくまで人間の立場に偏重して視野狭窄をきたしており、対照となる自然の摂理がないがしろにされ、不完全で歪んでいる。

 

いわば天動説と同質の天上天下唯我独尊の思想に立脚する倫理であり、地動説のような実態に即した倫理と違って実効性に疑問が残る。

 

その倫理の堕落を象徴する出来事がインディアンたちの土地で起こる。

 

第二次世界大戦における核開発だ。

 

のちに核開発の一大拠点としてロスアラモスと名付けられる土地からは、核爆弾の核心となるウラン鉱山が開かれ、その採掘や核爆弾研究施設の手伝いに大勢の地元インディアンたちが駆り出されることになる。

 

ニューメキシコの大地から譲り受けた粘土で土器を焼く穏やかな炉の火と、同じ土地で採掘されたウランを材料とした核爆弾の恐ろしい火力の対比は、人間と自然との関わり方が、母なる大地と父なる空の偉大な包容力と治癒力で許容しうる領域からの逸脱したことと、自然の広大無辺の慈悲をもってしても弁護も尻ぬぐいもかなわない、著しく罪深い地獄へ到達したことを意味する。

 

土から土器を産み出す素朴な人の知恵は、いまや土から人を滅ぼす核兵器を造り上げる禁忌の領域に踏み込んでしまった。

 

大地の恩寵を災禍に変性してしまった知恵と傲慢の境界線を探り、道を踏み外しなおも進路を修正せず驀進する人類を、自然の循環へ再編入する正しい帰路を見出すヒントを、インディアンの土器作りの文化は示唆しているかもしれない。