ざっくり雑記

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僕の大統領は黒人だった

情報化とグローバル化が飛躍的に進行し、地球上の誰もが隣人になりうる現代社会において、その誰もが無縁ではいられなくなった人種差別問題。

 

その中でも特にこの問題が白熱し、国どころか世界を揺るがす大きな社会現象にまで進展してしまったアメリカにおける黒人差別問題を、自身も「アメリカにおける黒人」のルーツを持つ著者が鋭く考察した評論集。

 

アメリカに代表される黒人差別問題については、年がら年中昼夜を問わずあらゆるメディアから多彩な情報が大量に供給され、誰もが知る現代基礎知識の一つになっている。

 

だが、いざこの問題を正視すると、そのあまりに茫漠とした得体の知れなさと、数百年かけてアメリカ社会を深甚かつ広範に浸蝕し汚染する、複雑に絡み合い腐敗した遺恨のそら恐ろしい膨大な山積に直ちに突き当たり、知ったつもりになっていた半可通は、己の無知と無力を痛感し、怯懦に駆られた衝動的撤退を余儀なくするか、やぶれかぶれの特攻を敢行して手酷い痛手を被ることになる。

 

生半可な覚悟では着手どころか直視すら躊躇われる、今なお旺盛な成長の途上にある未曽有の大問題に、著者は文筆を頼りに真っ向勝負を挑む。

 

本作は上下巻構成となっている。

 

上下巻各々はそれほど厚くなくいっそ華奢と評して差し支えないスマートな体躯で、一冊にまとめたとしても、大きな社会問題を扱った分厚い同類の著作の中では埋もれてしまうボリュームだ。

 

だが、読むと上下巻の分割の妥当性が身に染みる。

 

厳選され計算され尽くした一言一句に込もる含蓄の密度、そして行間紙背に充溢する執念の熱量は常軌を逸し、一冊にまとめていたら、製本と同時に内圧で爆発していたのではないかと、突拍子もない空想の懸念を催す臨界寸前の濃密な内容となっている。

 

何らかの問題の有効な解決には、まず問題の定義が必須だが、こと黒人差別問題はあまりに大きすぎ、かつ複雑すぎてその定義すらままならず、したがって解決も難航してきた。

 

偉大な先人たちの涙ぐましい命がけの熱心な努力の数々も、問題の途方もなく巨大で根深く、そして何より輪郭も陰影も判然としない朦朧とした全体像からすればどうしても部分的・局所的にならざるを得ず、着実な成果を積み重ねながらも、十七世紀に端を発する問題の根本的で全体的な解決には至っていない。

 

本作は、その巨大で曖昧模糊とした黒人差別問題のディテールを、忘却や欺瞞の垢を取り除き、隈なく精細に観察し、誤解の余地なく厳密に言語化して、正確な全体像を万人が共有可能な形に標本化する試み、その悪戦苦闘の記録である。

 

それは、暴れ回る巨大な獣を暗闇の中で生きたまま解剖する無理難題に等しい。

 

しかも解剖はごく一部の臓器や組織の断片を採取するにとどまらず、全細胞、果ては全原子に至るまで分解し、その途方もない物量をひとつ残らず系統だって分類し、観察や理解の妨げになる余計なノイズを除去し、見やすく染色し標本化し、さらには人々の耳目を集め巨大な獣の正体を周知する宣伝の行程までを含む、一連の一大事業として完全に完成させなければならない。

 

獣の一部でも解剖から取りこぼし、その正体を見極められぬまま等閑に付すならば、その正体不明の残骸は、正体不明を武器に息を吹き返し活発に力強く暗躍し、いつか必ず捲土重来し、暴政の玉座復権するからだ。

 

黒人差別主義と表裏一体の関係にある白人至上主義はそうやって17世紀から現代まで手練手管を駆使し、太々とした命脈を保ってきたし、アメリカ社会はその跳梁跋扈を創設以来許してきてしまった。

 

黒人差別主義に対する無理解や誤解や曲解が、黒人差別主義に不死身の生命力をもたらしている。

 

その力を剝奪するには、徹底して厳正に定義づけして議論の余地のない正体を定めなければならない。

 

「議論の余地」という一見民主的で理性的な、しかし一方で詭弁がのさばる留保状態こそ、黒人差別主義に安全と安逸を保障する難攻不落の巣窟であり、力と勢力を培う温床なのだ。

 

黒人差別主義の正確な正体を暴きだそうとする著者の文学的努力は徹底しており、一部の隙もなく厳密に展開し極限の一点にまで純化されてゆく論理と、それでも満足せず自虐といっても過言ではない自説に加えられる容赦のない自省の反復には、読んでいて息苦しさすら覚える。

 

黒人差別主義の全体像の把握と正体の洞察にこの上なく有用な資料として役立つだけでなく、一人の「アメリカにおける黒人」が巨大な社会問題の解決に向けて安易な諦念や思考停止に陥らず奮闘する真摯な思索の履歴を克明に記述した自伝として、世界と個人の関わり方について読者に再考を迫る、重々しいメッセージ性を備えた骨太で力強い本となっている。

 

 上下巻の黒と赤の装丁は、黒人の肌の色と、虐げられた人々が流した血の色を象徴しているのか。