ざっくり雑記

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アニマ

愛する妻を胎内の子供諸共虐殺された男の、凶暴な殺人者を追う放浪の旅路と心の変遷を、通りすがる数多の生命(アニマ)の多様な視点と心の反応が子細に点描する。

 

グローバル化に必然に付随する、人種や民族、国籍、宗教や文化の衝突や分断といったネガティブな化学反応の虐待と略奪を受け、伝統的な共同体と断絶し、不安定で混乱した孤立を強いられるマイノリティたちの、重々しい苦悩が本作の基調をなしている。

 

相違の否定や弾圧ではなく、多様性の理解や許容で社会を豊かに改善する相乗効果を得る、いわゆるダイバーシティ思想の社会への積極的導入が声高に喧伝されている。

 

その風潮に乗って多様性を安易に賛美する作品も少なくない。

 

それはそれで素晴らしい価値観だが、素晴らしいがゆえに魅了され傾倒すると、皮肉にも、世界における多様性の在り様、その多様性を狭めてしまう罠にもなりかねない。

 

本作の特筆すべき表現上の特徴は、数多の動物たちが一人の男の動向を描写する、目まぐるしいまでの三人称視点だ。

 

同じ対象でも観察者によって認識は異なる。

 

似たような形質を持つ人間でも、一人ひとりの世界の認識は全くと言っていいほど別物となる。

 

これが、まったく異なる形質を持つ異種の動物となると、認識の差異も甚だしくなるのは想像に難くない。

 

家猫からすれば餌と愛撫をもたらす同居人が、肉牛からすれば命を奪い死肉を貪る略奪者になったり、遥か高空を舞う猛禽からすれば地表を右往左往する小さな点になったりする。

 

動物たちによる男の動向の描写に婉曲な言い回しが多く含まれるのは、動物界には存在しない人間界の概念を、動物界に存在する概念で説明しようとする苦肉の翻訳の結果だ。

 

動物たちの知覚には、人間の行動の大半は無意味で不可解で珍妙で滑稽に映るが、それをもって人間同士の差異にまつわる諸問題を俯瞰して単純な相対化の枠にはめ、矮小化してシニカルに自嘲する、という主旨の作品ではない。

 

種族の違いに起因する認識の極端な相違を強調する婉曲な言い回しの一方で、動物たちは、人間同士では為しえない恐ろしい深度と精度で主人公の心情、あるいは魂と呼ぶべき総体的な本質の核心に触れ、著しい共感や反感、好意や敵意、愛情や憎悪を抱く。

 

どうしようもなく理解できない部分と、どうしようもなく理解できてしまう部分が、それぞれの生命(アニマ)の中で共存している。

 

それは量子論的重ね合わせにある斥力と引力であり、隔絶と融和である。

 

異なっているのに同じであることが矛盾せず成立する、生命(アニマ)の不思議がそこにある。

 

この生命(アニマ)の性質は、一個の生物の中だけでなく、他者との関係性の中でもたびたび立ち現われ、本作を貫く重要なテーマとなっている。

 

主人公が殺人者を追う動機も、単純な復讐や憎悪ではなく、自分と殺人者を混同する奇妙な錯乱状態の解消を求める探求心にあり、そこには、妻と子を虐殺した加害者と被害者である主人公との絶対の隔絶を貫通して二者を連結する、にわかには理解しがたい根源的な共感がある。

 

また、主人公の人生を破壊し命をも脅かす殺人者の凶暴性が、対決と、引き続いて起こる超常の邂逅を経て主人公に転移し、忘却の底に封じた残酷な過去と対峙する断固たる勇気として定着するという、不倶戴天の仇が主人公の人生を補完する相補関係を成している。

 

光と影が対立しながらも互いの存在に欠かせない要素であるように、生命(アニマ)の中の多様性と同一性も互いの存在に欠かせない。

 

動物たちの人間とは大きく異なった多様な視点が、異種同士を分かちがたく結び付ける同一性を対照的に強調する舞台装置として効果的に機能すると同時に、主人公が自己の本性を探求する助けとなるインディアンの祖霊信仰の世界観を読者がより分かりやすく理解する親切な注釈にもなっている。

 

理性に頼って多様性に翻弄される世界を安定化する新奇な方策をゼロから築くのも一つの道だが、生命(アニマ)に古来より内在する同一性の力を活用し、多様性がもたらす混乱と散逸から抜け出て統合と融和へ至る道を、主人公の苦難の遍歴は力強く指し示す。

 

衝突と分断が生む多様性の荒波に揉まれ、今なおその渦中で一流の表現者として国境を越えて活躍する著者自身の実感が本作に付与する説得力は重厚で生々しい。

 

余談だが、メイスン=ディクスン・ラインの顔が想像より100倍怖い。