Newton別冊 無とは何か
科学的に「無」を概説するムック。
「無」についての本だが、最後まで読んでも「無」が何かはわからない。
この本に書かれていないのではなく、本書で登場する錚々たる知の巨人を含めた誰も知らないのだ。
表題の「無とは何か」とは、教示の枕詞ではなく、今なお世界中の頭脳を悩ませ続ける問いかけの言葉なのだと、読後に気づく。
「無」を解明するために、科学は「有」をしらみつぶしにしていく。
全ての「有」を見つけ出せば、それらが無い状態が「無」となる論法だ。
だが、掘れば掘るほど次から次に「有」が湧きだし、そのたびに科学の常識が覆り、繰り返すパラダイムシフトの底は見えない。
「無」の研究は、逆説的に「有」の研究となる。
「無」に接近すべく有を切り刻んでいくと、慣れ親しんでいたはずの「有」の中に潜んでいた奇妙奇天烈な怪物が続々と湧き出て、無へ至る道に立ちはだかる。
慣れ親しんだ原子や、波であり粒でもある、なんとなくわからなくもない量子はまだしも、その先に現れるひもやゆらぎや膜や、果ては九次元に至っては、難解な数式や回りくどい比喩でしか表現できない、あるいはそもそも仮説にすぎない観測不可能な「有」だ。
ごく一部の専門家しか理解できない奇妙奇天烈な「有」の数々が本書で提示されるが、さらに奇妙なのは、当たり前に存在している自分たちやこの世が、それら訳の分からない「有」から例外なく成り立っている事実だろう。
畢竟、「無」の証明とは、悪魔の証明に他ならない。
いくら「有」を洗いざらい発見しつくし、それらの不在を「無」と定義したところで、常に未発見の「有」の可能性は無限に残存する。
だが、そんな浅墓な諦観などものともせず、科学者は「無」への到達を夢見て知の限界を更新し続ける。
「無」は、この世そのものを意味する「有」を探求する衝動を人類にもたらす、これ以上ない目標として「有」り続けるだろう。
無についてはまるで不明なままだが、有についての科学的知見は深まる、あからさまな表紙詐欺の面白い本。