ざっくり雑記

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映画『私はあなたのニグロではない』

 

 

どんな映画?

黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの正鵠を射る率直な発言と著述、命懸けの活動の軌跡をたどり、アメリカにおける黒人差別問題の歴史と本質に肉薄するドキュメンタリー。

 

感想

このような作家を知らなかったとは、つくづく己の浅学無知に忸怩たる思いになる。

 

今でこそ、ネットやSNSで身元を隠しながら、アメリカの黒人差別問題について、誰もがああだこうだ好き勝手論じられる時代となった。

 

だが、ボールドウィンがテレビに身を晒し、差別主義者や差別を容認する社会、時にはふがいない同士に対し、面と向かって真正面から歯に衣着せぬ苛烈な批判を投げかけていた20世紀半ばのアメリカにおいて、それは間違いなく命懸けの行為だった。

 

事実、黒人公民権運動の旗手たるメドガー、マルコムXキング牧師、そして夥しい黒人が、残忍な差別主義の犠牲になり、命を落とした。

 

自由の国で、自由の訴求が死を招く、驚くべき矛盾。

 

その矛盾にボールドウィンを立ち向かわせたのは、勇気だけではなく、どうしようもない悲憤だった。

 

黒人差別問題の真の恐ろしさは、その無自覚や曲解にあるとボールドウィンは喝破する。

 

誰も彼もが、差別問題の本質をきちんと把握していない。

 

とあるテレビ討論番組に出演したボールドウィンが、物分かりのいいふりをした(あるいは本人は本気で「物分かりがいい」と自負しているのか)白人の学者の無知蒙昧で無神経な発言を捕まえて痛罵するシーンには、恐ろしい緊迫感が満ちている。

 

今にも白人の学者を殴り殺さんばかりのボールドウィンの怒気の放射は、画面越しでも十二分にわかるほど強烈であり、数十年の時と太平洋を隔てたはるかな距離を挟んでいるにもかかわらず、見る者の背筋を冷たくする。

 

そして、その凄まじい怒気の熱量を余すところなく痛烈なスピーチへと変換し、あくまで討論の姿勢を堅持した鋼の自制心には、畏怖を越えて、人外じみた神性さえ感じる。

 

だが、その怒気と自制心の見事な拮抗が生み出した珠玉のコメントを至近距離からぶつけられた当の白人の学者は、ボールドウィンの万感を込めた言葉に対し、ただただきょとんと、空虚な表情を返すだけなのだ。

 

この「物分かりのいい」白人の学者には、ボールドウィンの言葉の意味も、いわんや彼の心情もまるで理解できないのだ。

 

そして、それはこの学者に限らず、その他の黒人差別主義者たち全員に当てはまる症状でもある。

 

題名の『私はあなたのニグロではない』というボールドウィンの言葉は、この病状の骨子を的確に捉え端的に表現している。

 

差別主義者たちが自覚せず、あるいは曲解したり認めない事実とは、差別主義者たちは「ニグロ」無しでは生きられない、脆弱で依存的な存在であるという点だ。

 

アメリカは世界で最も豊かな国家だが、その豊かさは正当な工夫や努力の成果ではなく、恥ずべきインチキによる不正蓄財を礎とするのかりそめの豊かさだ。

 

アメリカ建国初期の発展を支えたのは、あまたの黒人奴隷の無償労働である。

 

あまたの労働者に支払われなかった給与の莫大な総体こそが、アメリカの豊かさの正体なのだ。

 

黒人差別主義者たちに限らず、アメリカで豊かさを享受する階層は、多かれ少なかれ、かつての奴隷たちと、その貧困を継承した貧しい子孫たちに借りがある。

 

そしてその借りは、富裕層がさらなる富を求める過程で今なお拡大している。

 

また、黒人を人種的劣位に配置することで、白人たちは相対的な優位に立ち、本来なら経済や学識、職業の違いから生じる分断を回避し、人種的・政治的団結を保ち、この体制を強固にしている。

 

つまり、黒人差別主義者にとって、差別対象としての「ニグロ」の存在は、経済的にも社会制度の安定のためにも必要欠くべからざる生命線なのだ。

 

黒人差別主義の根底に巣くう、浅ましく自己本位な生存本能の防衛反応が、なりふり構わぬ黒人への抑圧と寄生的依存症の正体だと看破したボールドウィンは、その幼稚で未熟な性根に『私はあなたのニグロではない』という名文句できっぱりとNOを突き付ける。

 

黒人差別主義者たちの暴虐や欺瞞を淀みのない明瞭な表現でばっさばっさと切り捨てる、ボールドウィンの力強いスピーチやコメントの数々は痛快そのものだ。

 

だが、黒人差別主義者には理性の言葉は届かず、返ってくるのはこん棒と銃弾ばかりである。

 

黒人差別主義者にとって、黒人=ニグロは、溺れる者の掴む藁なのだ。

 

「ニグロ」無しでは生きていけない以上、理性の言葉にいちいちほだされている余裕などなく、生命線である「ニグロ」を保持するためならば、あらゆる残虐非道が正当化されるというのが、黒人差別主義者たちの至上の倫理なのだ。

 

終わりに

本作では、卓越した黒人指導者たちの理性的な活動の輝きが際立つ反面、黒人たちを取り囲む黒人差別主義の暗闇の底知れなさも否応なく突き付けられる。

 

黒人と白人の人口比率は1対9であり、黒人側に与する白人がいることを考慮しても数的不利は否めない。

 

ゆえに、暴力に訴え出れば死を含めた再起不能の敗北は必至であり、ゆえに黒人が頼る道具が理性と言葉、団結と忍耐になったのは自然の流れである。

 

だがこの自然の流れは、数的有利にある白人側には逆方向に働き、数的有利が最も生かされる暴力への傾倒に至ってしまった。

 

短期的なスパンでは、明らかに理性に対し暴力は有利である。

 

数十年前にボールドウィンが喝破した黒人差別主義の真相が、いまだに世間には浸透せず、改めて現代の知識人が日の本に引っ張り出して解説付きで周知しなおさなければならない現状を見るに、差別廃止に向けた戦況が被差別側にとって芳しくないことは明らかだ。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

 だが、状況が好転する兆しが無いではない。

 

ボールドウィンやメドガー、マルコムXキング牧師の時代には無かったネットやSNSといったメディアが、散逸しがちな個人の力を結集し、政府と拮抗し、時に打倒さえする巨大なうねりを作り出す結着材として機能する世の中になった。

 

何十年かけてもいまだ解決していない問題ではあるが、裏を返せば何十年も反対活動が継続しており、これは、圧倒的暴力に対して、理性と忍耐が敗北していない証左でもある。

 

終始憂愁と悲憤を含んだボールドウィンの言動だが、本作終盤に、「楽観的」という言葉を用い、将来への力強い期待を表明しており、様々なテクノロジーの後押しや長年の実績がこの将来への期待と合流し、また新たな局面が開けるかもしれない。