ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

映画『ザ・ドア 交差する世界』

 

どんな映画?

不倫にかまけて目を離したせいで、娘を事故で喪った画家のダヴィッド(マッツ・ミケルセン)が、不思議なトンネルを通り過去へ戻り、娘の命を救う。

 

しかしアクシデントが発生し、恐ろしい事態へと発展していくSFサスペンス。

 

感想

以前鑑賞した『トランスポート』と同じく、タイムスリップというSF設定を用いながら、厳密な科学的考証には踏み込まない、SF風味のファンタジーサスペンス。

 

 

タイムスリップで発生する問題の筆頭であるタイムパラドックスが本作では発生しない。

 

トンネルは時を越える通路ではなく、時間座標のずれた並行世界へ渡る通路なのだろう。

 

この違いが本作の肝となり、SFサスペンスにヒューマンホラーの不気味で冷たい味わいを加える。

 

タイムスリップものの物語では、タイムパラドックスが登場人物の行動を制約するブレーキになるケースがあるが、本作ではそのブレーキが無く、主人公を含めた過去へ戻った人々は、現在の自分への影響を度外視できるので、欲望のままに過去を好き勝手に蹂躙し、侵略する。

 

その象徴が、過去の自分殺しだ。

 

トンネルを通って過去に戻り、未来の知識を使って失敗を取り繕っても、現在の自分には何の変化もなく、ただ過去の自分が不幸を回避して幸せを享受するのを眺めるしかない以上、自分が幸せになるためには過去の自分に成り代わるほかに選択肢はなく、過去の自分は殺すべき邪魔者でしかない。

 

失敗を犯した過去の自分を現在の自分と切り離して侮蔑し、時に憎悪し抹殺すらしたくなる心理は、多かれ少なかれ誰の心にも到来する精神状態だが、本作の設定は、現実では不可能な破壊的自罰欲求をストレートに叶えてくれる。

 

だが、失敗を自分事として受け容れず、過去を切除して無かったことにした人間の、忍耐を欠いた虚しく浅ましい姿は、人間の皮をかぶった獣のように、相容れない違和感を放つ。

 

ダヴィッドも過去の自分を殺してしまったが、不慮の事故であり、自発的ではなかった。

 

心情的には最後の一線を越えず、最後の最後に自分の過ちを受容し、粛々と己の招いた結末を受け入れられた。

 

ラストシーンで、和解した妻とともに娘が事故死したプールの傍らに座り込み、水面を眺め、覚悟を決めて殺意に満ちた暴徒の襲来を観念して待ち受けるダヴィッドのたたずまいは、ちっぽけではかなげでありながらも、凛として目を瞠る存在感があり、惨劇の予感にもかかわらず、物語の余韻は憑き物が落ちたように清々しく心地よい。

 

 

終わりに

「あの時ああすればよかった」という思いは誰もが一度ならず抱く苦い思いだが、ではそれが叶えば幸せになれるかというと、本作を見ているとそうではない気がしてくる。

 

衛生仮説では、清潔すぎる環境にあるとアレルギーが発症するとされるが、何を犠牲にしてもあらゆる失敗を人生から排除しようとする残忍な完璧主義も、それに似て新たな別種の問題、それもさらに厄介な問題を招く。

 

過去を許せないのならば、当然未来から見た現在も許されざる過去であり、そうなると人生のあらゆる時点が一切の慈悲から見放された地獄となる。

 

そういった意味で、本作はこの世での心持ちの見直しを促す、現代ドイツ版の地獄絵図に分類されるかもしれず、そう思うと、過去へ戻るトンネルも地獄への入り口に見えてくるし、デービッドをトンネルへ誘う蝶も地獄蝶に見えてくる。

 

失敗をしないように最善の努力を払うのは当然として、失敗をしてもその恥や罰から逃げずに受け止める真人間になった方が、その逆の人間になって「ザ・ドア」をくぐった先で自分を殺す羽目になるよりはましだと居住まいを正したくなる、教訓に満ちた映画。

 

余談

暗がりに白く浮かび上がるマッツ・ミケルセンの生尻の美しさは必見。

f:id:hyakusyou100job:20210708110601j:plain

地獄の入り口と地獄蝶