ざっくり雑記

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映画『JOKER』

 

 

どんな映画?

DCコミックスの看板作品であるバットマンシリーズで敵役を務める人気ヴィラン、JOKERの誕生までの経緯を、多くの人々を苛む種々の社会問題を背景にして描くサイコスリラー。

 

感想

映画自体がJOKER一流の非常に悪質なジョークになっている。

 

現代社会で生きる誰もが無視できない深刻な社会問題をメインテーマとして背骨に据え、JOKERという屈指の人気ヴィランをシンボリックな主役に配し、多様な解釈を許容する秀逸なシナリオと構成で肉付けした本作は、一分の隙も無い出色の出来で、多くの人々を魅了し、あるいは挑発し心をかき乱す話題作である。

 

無制限に暴走する資本主義の庇護の下、ごく少数の強者が価値あるものを独占し囲い込み、大多数の弱者がわずかな残り物を奪い合う弱肉強食の摂理が地球の果てまで行き渡った残酷な世界では、貧困や障害や人種や性別や宗教や階級や教育や居住地やetc……といったハンディキャップを抱え社会の援助も十分に得られない人々が、苦界から脱する方策は皆無に等しく、不安に苛まれ、鬱憤を溜め込み、声なき怨嗟を募らせる一途をたどる。

 

本作のJOKERは単なる悪役ではなく、そんな大多数の弱者たちの声なき声の代弁者としてアイコニックに描かれ、弱者を虐げ恬として綺麗ごとを嘯く社会の強者たちに一矢を報い、弱者たちが反逆の狼煙を上げ蜂起する嚆矢となる。

 

JOKERの前身であるうだつの上がらないピエロ、アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)のみじめで報われない境遇に身をつまされる、似たり寄ったりの苦境で呻吟する同士なら、調子に乗った大手証券会社の若手証券マンや、友人面する一方でいざとなればアーサーを裏切り平気で陥れる小狡い同僚や、アーサーをTVの全国放送で見世物にするショービジネスの成功者、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)や、将来バットマンとなるブルースの父親の大富豪、トーマス・ウェインが、なすすべなく惨殺されるシーンに、不謹慎ながら胸がすく想いを抱いたはずだ(私がそうだった)。

 

嘲笑の的となるひ弱なピエロが、羨望の的となる盤石の強者を滅ぼすという誇張された逆襲の構図は、現実世界では到底あり得ない強きを挫く展開であるがゆえに、弱きを強烈に惹きつける。

 

JOKERの暴挙を皮切りに噴出する社会的弱者の鬱憤が、強者優位の秩序体系をずたずたにしていく一連の暴動が、精神病院に入院した一患者の妄想に過ぎないとしても、その妄想に、様々なハンディキャップにがんじがらめになり、にっちもさっちもいかなくなっている弱者を惹きつける抗いがたい魅力があるのは否定できない。

 

本作に感化され改めて理不尽な社会構造に問題意識を抱き義憤を募らせる人もいれば、刺激的な本作のメッセージに喚起された激情に衝き動かされていてもたってもいられなくなり、具体的な行動に移す人もいるだろう。

 

とるに足りない小虫の五分の魂が発する苔の一念が蟻の一穴を穿ち、不公平と理不尽で緊結した強固極まりない社会構造を決壊させる可能性が示唆されれば、誰もが苦境から抜け出し平等にチャンスが与えられる理想郷の実現に一縷の希望を抱かずにはいられない。

 

だがその一縷の希望こそ、本作が「JOKER一流の非常に悪質なジョーク」である所以である。

 

当たり前すぎてわざわざ言及するに値しない事実だが、『JOKER』は映画であり、映画は商品だ。

 

どれだけ秀逸で奥深い意義を含み、リアリティと芸術性に富み、人心を強烈に揺り動かすとしても、あくまで『JOKER』は映画という商品であり、本作を鑑賞するには、映画館に足を運ぶにしろ、DVDやBlu-rayなどの映像メディアを購入するにしろ、サブスクの配信サービスに加入するにしろ、必ず一定の金銭の支払いが要求される(海賊版や違法配信などは考慮しない)。

 

R指定の作品として過去最高の売り上げを記録したというから、本作は商業映画としては押しも押されぬ成功作に位置づけられる。

 

当然、売り上げに比例した利益も出ているだろう。

 

ではその利益を獲得するのは誰なのか?

 

皮肉なことに、本作でJOKERとその追随者たちが叛旗を掲げ立ち向かった、資本主義の申し子、社会的強者たちなのだ。

 

JOKERはバットマンシリーズの登場人物であり、バットマンシリーズはDCコミックスが出版するコミックの一つであり、DCコミックスはコミックブック業界で成功した押しも押されぬ大企業であり、つまり資本主義における社会的強者である。

 

『JOKER』の制作に携わり、その利益の相伴にあずかる企業や関係者はDCコミックスだけではないが、少なくとも『JOKER』から発生する様々な利益の一部を、社会的強者である大企業が享受するのは確かだ。

 

『JOKER』が批判し憎み目の敵にし破壊の対象とした社会的強者こそが、他でもない『JOKER』の産みの親であり、莫大な売り上げをたたき出した『JOKER』は、表向きにはドラ息子でありながら、実のところは親の懐を十二分に太らせる稀にみる孝行息子である。

 

『JOKER』の内容に共感し感化され触発される人の大多数は、社会的弱者に属するか、社会的弱者に同情的な人だろう。

 

栄達と零落が二極化する格差社会において、圧倒的多数を占める社会的弱者側の人気を博したことが、本作が図抜けた売り上げを達成した一因と考えても差し支えないだろう。

 

大抵の社会的弱者は十分に安定した経済的基盤に恵まれていないが、その吹けば飛ぶ脆弱な経済的基盤から搾り出したなけなしの金銭で『JOKER』を観るという行為こそ、哀しいことに、社会的弱者を虐げる資本主義社会を積極的に強化し、格差の拡大を応援する草の根レベルの自虐行為となるのだ。

 

本作でJOKERとなるアーサー・フレックなる人物は、およそ社会的弱者を弱者たらしめる主だったハンディキャップをあらかた網羅して煮詰めたキャラクターとして描かれる。

 

精神と身体に障害を負った独身の中年男性であり、里親にネグレクトと家庭内暴力を受けた児童虐待被害者の過去を持ち、親の介護に追われ、特別なスキルも職歴もなく、不安定なショービズ業界に属し、その末席からすら追放され無職となり貧窮し、頼る知己もなく、頼みの綱の社会福祉は打ち切られ、殺人の容疑者として警察にマークされ、途方に暮れている。

 

さらにそこへきて、黒人のシングルマザーを添えて補完する隙の無い構えである。

 

露骨なバーナム効果により、これだけの特徴を詰め込めばどれかがフックとなり、誰もがアーサー(と彼を取り巻く周辺の人間)に自分の境遇の一部か全部を重ね合わせ、共感や同情を覚えずにはいられない。

 

だが、実のところこんな人間は滅多にいない。

 

これらのハンディキャップのいずれか一部を有する人は大勢いるだろうが、アーサーほど多く持つ人間の数は当然ながら絞られる。

 

みじめな敗残者として描かれるのでそうとは認識しにくいが、アーサーはマイナス象限におけるありとあらゆる特徴を兼ね備えた、逆ベクトルに突き抜けた完璧超人なのだ。

 

創作物の人物造形には現実世界の制限は一切無いので、いくらでも恣意的な特徴を詰め込んだ「出来過ぎた人物」も簡単に作れる。

 

アーサーもまた、創作物の中でしかお目にかかれそうもない「出来過ぎた人物」である。

 

ホアキン・フェニックスの鬼気迫る怪演がリアリティを与えているが、アーサーは、特徴だけ羅列すれば、まさにコミックの登場人物に相応しい現実離れした質量の不幸の詰め合わせであり、人の皮をかぶった不幸の記号の塊といった方がふさわしい、非人間的存在といえる。

 

そこには明確な意図を持った制作者の作為がある。

 

『JOKER』とは、餌なのだ。

 

過剰なまでに記号化された不幸を詰め込んだ、社会的弱者に関心がある者に素通りを許さないフェロモンを放つ極上の寄せ餌が、本作で描かれたJOKERであり、映画作品である『JOKER』なのである。

 

映画『JOKER』の中に、社会問題に対する悲哀や、一縷の希望を見出したところで、それはあくまで作り物でしかない。

 

一方で、『JOKER』から発生する莫大な利益は、『JOKER』が槍玉に挙げた巨大資本へと確実に吸収され、現実の格差として社会へ還元される。

 

弱者への共感や同情を標榜し、非情な強者や社会システムを批判しながら、実のところ正反対の結果を社会にもたらす『JOKER』は、あまりにも大掛かりで悪質なジョークとしか言いようがない。

 

だが、ここでいう「悪質なジョーク」とは誉め言葉だ。

 

人の心を弄び、自業自得の苦境へ巧みに誘導し、やり場のない憤りで自責へ追い込む、一連の悪辣な手練手管こそ、トリックスター的悪意の権化たる『JOKER』の面目躍如である。

 

作品の内容というよりも、作品そのものとそれを取り巻く強者に好都合な経済システム、そしてそのシステムが仕掛けるマーケティングにいいように翻弄され、苛斂誅求な搾取の苦痛に身悶え阿鼻叫喚する弱者の空騒ぎまでを含む、皮肉なマクロの総体が、『JOKER』という作品の本質だ。

 

『JOKER』を観て楽しむということは、自分の首を絞めて酸欠の幻覚を楽しむような倒錯した快楽に無自覚に耽溺することと同義である。

 

結局JOKERとは、どこまでいっても先導者ではなく扇動者であり、強者も弱者もひっくるめて平等に愚弄し嘲笑する愉快犯なのである。

 

JOKERが現実に存在していたら、『JOKER』の成功を見て心の底から高笑いしているに違いない。

 

終わりに

こんな愚にもつかない長文を書き連ねてしまっている時点で、映画『JOKER』が仕掛ける術中に頭の先までずっぽりはまり込んでいる。

 

周到に張られた伏線が次々に回収され、JOKERの人物像がストーリーと連動して克明になっていく秀逸な構成が見ものだが、JOKERの人となりを物語るうえで重要な「コメディアンになりたい」という夢の起源は、最後まで杳として知れない(もしかして見落としたり、読みが浅いせいかもしれない)。

 

アーサーがJOKERへ至る心理の変容を偏執的に丁寧に描いた作品でありながら、コメディアンへ執着する明確な動機は述べられず、どこかとってつけた感がある。

 

一分の隙も無く作り込まれた人物造形にしてはありえない大きなプロフィールの欠損にも何か重大な意図があるのかと勘繰りたくなるが、それもまた『JOKER』の仕掛けたトリッキーな罠の一つに違いなく、そんな些細な違和感の解消に拘泥し、日々の時間と労力を浪費する人々の右往左往こそが、JOKERの本望なのだろう。

 

大山鳴動して鼠ゼロ匹な気分にしてくれる傑作。

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妄想(?)のクライマックス