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映画『ベイビー・ドライバー』

 

 

 

どんな映画?

強盗組織の元締めドク(ケヴィン・スペイシー)に弱みを握られ、強盗の片棒を担がされる天才ドライバー、ベイビー(アンセル・エルゴート)。

 

恋人との平和な生活を夢見て足を洗おうとするも、凶暴な強盗メンバーの起こしたトラブルに巻き込まれ、事態は悪化の一途を辿っていく。

 

感想

音楽とアクションが混然一体となって相乗し、観客の興奮を煽る。

 

主役であるベイビーの傑出したリズム感覚が音楽とアクションの間を取り持つ完璧な触媒となっている。

 

音楽や歌に合わせたセリフと大げさなダンス調の身振りで感情の起伏やストーリーの盛り上がりを強調するのがミュージカルの手法だが、そこには一歩間違えば不自然さが入り込み興醒めを催す演出上の難しさがある。

 

スマホ内蔵の音楽アプリは言うに及ばず、TVの天気予報のBGMや、スーパーマーケットの宣伝放送や、街宣車の勇ましい戦時歌謡風の演歌などなどetc、例を挙げればキリがないほど音楽は日常に飽和し、むしろ静寂の方が希少な時世だが、現実世界では、ミュージカルのように状況と感情にマッチした音楽がタイミングよくBGMになる場面に遭遇する機会は意外と少なく、裏を返せばミュージカルがどれだけ現実離れした舞台設定かがよくわかる。

 

ポータブル音楽プレイヤーが普及したおかげで意図的にミュージカル的状況を自作し気分を昂揚させるハードルもかなり低くなったものの、楽しくなったらアップテンポな楽曲、哀しくなったらセンチメンタルな楽曲、などという風に、いちいち状況と感情に照応した音楽を流すために、スマホやプレイヤーを操作して選曲の手間をとるのも本末転倒の感がある。

 

だが本作では、主人公ベイビーの天涯孤独の生い立ちと強盗の援助を強制される過酷な状況の設定がその不自然さを緩和し、ミュージカル的演出を日常と融合させ、不自然さを見事に払拭し、ミュージカル的演出のメリットである扇情効果のみを最大限に活かす。

 

ベイビーは幼い頃に両親を事故で亡くし、自身も耳鳴りの後遺症を負う。

 

耳鳴りを抑えるために常にアイポッドやラジオで音楽を聴き続け、果ては日常で録音した音声素材をサンプリングして作曲しているほどだが、それは歌手だった亡き母親への満たされない思慕を癒す思い出のよすがでもあり、単なる耳鳴り症状の鎮静剤以上の重要な意味を持つ。

 

音楽が正常な生活に不可欠の日用品になったことで、ベイビーの普段の挙動も否応なく音楽の影響を受け、ちょっとしたコーヒーの買い出しで街中を通り過ぎるだけでも、ミュージカルの一場面を彷彿とさせるパルクールじみた大仰なパフォーマンスが交ざるアドベンチャーになる。

 

そして音楽の影響が最も顕著なのが、本作の見どころでもあるドライヴィングシーンだ。

 

まだ自身は待機状態にある強盗作戦のスタート時点から、ベイビーはシチュエーションにマッチした音楽を神経質に選曲し、秒単位で頭出しのタイミングを調整し、少しでも予定や調子が狂うといちいち頭出しをやり直したり、あるいは見るからに動揺したりするほどそのこだわりは強く、もはや依存症の様相を呈する。

 

だが、選曲がリズムと合致すれば、普段は内向的でどこか頼りなげなベイビーが、古今無双の超絶ドライヴァーへ変貌する。

 

雲霞の如く群がり追いすがるパトカー軍団を、BGMと一体化した華麗なドライヴィングテクニックと独創的な機転で切り抜け疾走するカーチェイスシーンは、極めて痛快で気分が高鳴る。

 

タイヤが路面を切りつける金切り音や、ベイビーにまんまと誘導されて衝突する警察車両の激突音までが、アップテンポのビートと一糸乱れず同調し、音楽とビジュアルと効果音が混然一体となり、次元を異にする芸術表現へと昇華される。

 

惜しむらくは、自分にアメリカ音楽の文化的素養(というかそもそも音楽自体に関する素養)と、歌詞を理解する英語力が欠けているせいで、曲の雰囲気以上の面白さを感じ取れなかった点である。

 

作中で、ベイビーが聞いている音楽や立ち寄った店で流れている曲の歌詞を、登場人物たちが会話の中で引用するシーンは分かりやすいのだが、それ以外のシーンでも明らかにシチュエーションにオーバーラップする選曲がなされているのだろうなあと、朧げに分かるシーンも多々(というか全編)あり、本作に丹精込めて満載した製作者の行き届いた心遣いを十全に堪能できなかった歯がゆさが残る。

 

そういった観客の無教養を差し引いても十分楽しめるのだから、映像と音楽と演技の調和の度合いは群を抜いている。

 

冒頭で華麗に警察の包囲網を潜り抜けるスマートなカーチェイスシーンと対照的に、ストーリーの進行とともに、ベイビーのドライヴィングはどんどん荒々しくなり、クライマックスではいよいよ血生臭いヴァイオレンスへ達する。

 

前半では、躱し・避け・去り行く、「逃走」のドライヴィングが、後半では打ち・壊し・殺し尽くす、「闘争」のドライヴィングへと180度の転換を遂げる。

 

前半で人目を避け素性を隠していたサングラスをクライマックスでは取り去り、代わりにそれまで見えなかった眼差しを殊更強調した大写しのカットインで、闘争心むき出しの凄絶な覚悟を露わにしているのも、変心のコントラストを際立たせる分かりやすい表現だ。

 

それまで流されるままに凶悪犯罪の片棒を担ぎ、困難な状況から実際的にも比喩的にも「逃走」していた気弱な青年が、かけがえのない恋人デボラ(リリー・ジェームズ)を守るため、人殺しすら厭わない「闘争」へと身を投じる心境の変化が、ドライヴィングの様相の変化と、そして当たり前のようにBGMとシンクロし、最終的には観客もその昂揚に心情を重ね、思わず腰が浮きそうになるほど物語に吞み込まれる。

 

苛烈なまでの変心を遂げたものの、芯のところでは心優しいベイビーが、情状酌量を得て罪の割に短い刑期を終え、かつて幻視した恋人とオープンカーが出迎える安寧に満ちた幸福な風景が実現するラストシーンは、炎と血と車の激突に満ちた地獄絵図からの落差もあって、心の底から二人の幸せを願わずにはいられなくなる。

 

終わりに

音楽好きでも何でもないのにこれだけ音楽の力に圧倒され楽しめる作品なのだから、音楽好きだったら一体どれほどの感動を得られたのだろうかと、残念でならない。

 

悪役も、含蓄のある一筋縄ではいかない曲者ぞろいで、音楽に負けず劣らずストーリーを盛り上げ、シンプルなケイパー映画に見応えのある厚みを加える。

 

中でも、悪辣で冷酷無比な強盗組織の元締めドクが、へまをやらかしたベイビーを無情にも突き放して見捨てようとしたところ、恋人と寄り添う彼を見て、何の琴線に触れたのか、情にほだされ心変わりし、命がけで二人の逃避行をサポートする超展開には一瞬面食らったが、なぜか違和感なく受け入れられてしまったのは、キツネにつままれた気分だ。

 

これも音楽の成せる業か。

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骨身でも音楽は楽しめる