ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

本『神道はなぜ教えがないのか』

 

どんな本?

宗教にして宗教らしからぬ神道の特異な性質を、他の宗教との比較を通じて解説する。

 

感想

昔から神秘的なものに惹かれるたちで、特に神社は手軽に神聖な雰囲気を味わえる施設として、お百度参りと称して何くれとなく気が向けば訪ねている。

 

お寺も教会もモスクも、その他諸々の神域にも惹かれるが、神聖な場所なのに意外と人の気配が濃厚なのが苦手で、人見知りにはハードルが高い。

 

神社には人の気配がほとんどない。

 

小さな神社や祠は言うに及ばず、常時神職が詰めている大きな神社でも、あくまで主役は祀られている神であり、神職は裏方として鳴りを潜めている。

 

余計な気配に煩わされることなく、思う存分、世俗から切り離された神秘の空間に浸る贅沢は、神社以外の神域で味わうのは難しい。

 

人里離れた深山幽谷まで踏み込めば、いかなる神域も同様に堪能できるだろうが、そこまでの労苦を忍んでまで神秘に執着するほどの思い入れも無い。

 

なぜ神社には人がいないのか、あるいは人がいてもその存在が希薄なのか、本書を読んでその謎の一部が氷解した。

 

神道以外の大抵の主要宗教には、開祖・宗祖と教義がある。

 

苦悩する衆生を救うべく、開祖・宗祖が取りまとめた神仏の真理を教え諭す教義が宗教の根幹だが、神道にはそれらが欠如している。

 

困ったときの神頼みとは言うものの、神道の神は人を救わない。

 

他の宗教の神仏や教義が救いを確約するのに対し、神道では神頼みしてもご利益があるかどうかは一か八かの賭けであり、それならそもそも神頼みならぬ運頼みと同じである。

 

神道の神は人に関心がないようで、人が道を踏み外すと雷を落としたり洪水を起こしたり、情け容赦なく虐殺に踏み切る感情豊かな他宗教の神々と比べると、明らかに淡白で素っ気ない。

 

人に無関心なので、当然あれこれ指図するわけでも人生の指針を示すわけでもない。

 

つまり学ぶべき教義が無い。

 

お参りの作法はあっても、教えは無いのだ。

 

寺や教会やモスクは、神仏を祀る祭壇としての機能に加え、教義を学ぶ場として信徒が集会したり生活したりする教団の居場所の役割を持つ。

 

ゆえに神仏の領域でありながら、実質は人のための施設であり、引きも切らさぬ人の気配に占領されている。

 

一方、神道の神社は神を祀る祭壇としての役割がメインだ。

 

それも、必要に応じてその都度儀式を催し目的の神を招くので、普段は偶像も何もない、ただのがらんどうに過ぎない。

 

以上のように、宗教というくくりで一からげにするには、神道と他宗教には根底のレベルや成り立ちの段階で越えがたい一線がある。

 

神社のがらんどうは、意図して作られたがらんどうである。

 

意図どころか、空っぽにするために積極的に多大な努力が払われる。

 

いわゆる精進潔斎や禊と言われる一連の浄化の儀式は、とことん世俗の塵埃を落とし、空白状態に場や人の在り様を整えるために、潔癖症の手洗いのごとく徹底的に行われる。

 

夾雑物を完全に排した真空にしか、神は降りないのだ。

 

私が神社に感じていた神秘性は、つまるところ、この真空の気配ということになる。

 

心が洗われるのも当然である。

 

私の心身に鬱積した世俗の垢は、気圧の法則に従い、神社に設けられた真空へと吸い込まれ、希釈されていたのだ。

 

パワースポットというよりは、エアースポットという方が的確なのかもしれない。

 

ご利益を得んがために、ごてごてと曰く有りげな装飾や調度を詰め込みがちな他宗教とは方向性が真逆だ。

 

神道の祭壇や神社も、壮麗な装飾を施し、時に華美に走る場合があるが、その中核に何もないという点は首尾一貫している。

 

神道の神は、唯一無二の絶対神を奉ずる一神教とも、一神に負わされた数多の性質を分割し分担した多神教の神とも一味違う。

 

多神教多神教なのだが、既定の神を奉じる多神教ではなく、神道の神は神話に基づく主要神はあれ、あとからあとから人間の都合と想像力で新たな神が好き勝手に追加される、拡張可能な多神教だ。

 

全国津々浦々に神社がある天神様はその典型例で、菅原道真という元人間の貴族が神に祀り上げられたものだ。

 

また、厳密には神道の神とは呼べないが、日本では色々な事物を簡単に神と呼ぶ。

 

卓越した職人やとびぬけた人気者に「神」を冠して呼ぶのに何の抵抗も無い。

 

トイレの神様もゲームの神様もSNSの神様もアイドルの神様もなんでもござれ、膏薬のごとく凡そ何にでも神を冠して不都合がない。

 

他の宗教で軽々しく神仏の肩書を濫用しようものならただでは済まない。

 

この違いは何なのか。

 

それは、コンテンツとプラットホームの違いだ。

 

グローバルスタンダードな種々の主要宗教がコンテンツならば、ジャパンスタンダードな宗教である神道はプラットホームだ。

 

コンテンツである宗教は、当然中身や内容が本質だから、厳密な教義を設け、明確な独自性を打ち出し差別化を図る。

 

他と同じであってはコンテンツである意味がない。

 

一方、プラットホームである神道には中身や内容は必要ない。

 

必要なのは、土台としての強度と、あらゆる神を受け入れる融通無碍の形式だけだ。

 

内容はプラットホームに載るコンテンツしだいであり、コンテンツの創造や規定は信徒に一任される。

 

その場合、プラットホーム自体からは、コンテンツに干渉する余計な情報を極力排することが望ましい。

 

独自の思想信条を持ち、自己主張するプラットホームなど、コンテンツからすれば煩わしいだけだ。

 

つまり、精進潔斎や禊といった儀式は、コンテンツの純粋性を保つプラットホームの自粛と自浄の機能なのだ。

 

逆説的に神道のプラットホーム的性質を証明するのが、神仏習合における神道の劣勢である。

 

仏教が日本に入ってきた当時、仏教は非常に高度な教義や儀礼の体系を構築しており、神道は太刀打ちできなかった。

 

仏教の台頭に存亡の危惧を抱いた神道は、仏教の教義体系を習い取り入れ、また合流を図り延命を試みた。

 

だが、聡明な学者たちの懸命の努力にも関わらず、神道の教義の体系化や理論化はうまくいかず、神仏習合の試みは、半ば吸収合併の形で神道の劣勢に終わる。

 

習合の過程にあっては、神道の神様が一信徒として仏教に帰依するという、にわかには信じがたい屈辱の妥協までなされている。

 

これは、そもそもプラットホームが、ありもしない内容や中身をどうにかこうにかあるように見せかけて、コンテンツになろうとする無理が祟った当然の結果だろう。

 

その反省や反動もあってか、祭政一致を図る明治の時代には、神仏判然令に端を発する廃仏毀釈運動により宗教レベルの極端な精進潔斎が実行され、神道はコンテンツである仏教から半ば力づくで剥離・純化され、再びプラットホームとしての自覚と立場を取り戻す。

 

現代では、世界を牛耳らんばかりの勢力を誇り、GAFAと並び称される四大国際企業(GoogleAppleFacebookAmazon)は、どれもプラットホーム事業を基幹としている。

 

プラットホーム事業が先端のビジネスとして隆盛を極める中、日本は明らかに後塵を拝しているが、歴史を遡れば、GAFAに先んじること優に1000年、神道という由緒正しいプラットホーム事業が日本では草の根レベルで既に確立し、もはや一心同体となっている。

 

情報発信・通信テクノロジーが長足の進歩を遂げ、グローバル化が進行する一方で、多種多彩な文化が混交し、思想信条や利害関係は細分化の一途を驀進して、多様化の猛進には歯止めが利かなくなっている。

 

いきおい、マクロレベルの文化や文明の衝突は個人のミクロレベルまで降下し、分断の裂け目はより広範に、更に微細に、そして一層深く人類に食い込み、重症化しつつある。

 

価値観の統一を至上とする既存宗教の在り様は、時代に逆行しており、分断を促しこそすれ、収拾には不向きだ。

 

多様化に干渉せず、促通を図るプラットホーム事業の隆盛を目の当たりにするにつけ、統合失調的混沌が極まった現代こそ、融通無碍の寛容な形式であらゆる概念を受容し祀り上げ神仏と成す、万能のプラットホームとしての神道が活躍する絶好の時代ではないかと思えてくる。

 

終わりに

かねてより言葉にできなかった神道へのあやふやな親近感や依存の理由を明確に言語化してくれた本書のお陰で、長年の胸のつかえがようやく取れた。

 

神道という宗教らしからぬ宗教の本質への理解が少し深まり、今度からはよりすっきりした気分でお参りできそうで、今から楽しみでしょうがない。