ざっくり雑記

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混ぜるな危険 本『ショック・ドクトリン』

 

概要

戦争や政変、災害、あるいは強権的な独裁政権による圧制といった惨事で、大規模なショック状態に陥った人心の虚を衝き隙に乗じて、国民に帰すべき国家の富を掠め取り、庶民に損失を押し付け一部の特権階級や富裕層、多国籍企業が私腹を肥やす、際限のない格差拡大を助長する経済システムの導入を強制する経済戦略、「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」の凄惨な実態を告発する。

 

混ぜるな危険

世の中には混ぜると危険なものがある。

 

例えば塩素タイプと酸性タイプの洗剤を混ぜれば塩素ガスが発生して中毒になる危険がある。

 

例えば天ぷらとスイカ食べ合わせが悪くて消化不良になる危険がある(と言われている)。

 

このような危険な組み合わせは世の中に無数にあるが、その「混ぜるな危険」ランキングに議論の余地なくランクインするであろう組み合わせこそ、本書が最大音量で警鐘を鳴らす、ショック療法と自由放任主義経済だ。

 

ショック療法とは、カナダの精神科医、ユーイン・キャメロンが提唱し、実際の患者に施された精神疾患の治療法だ。

 

精神病患者に「ショック」を与え、患者の「古い病的な行動様式(パターン)を破壊」して退行した「白紙状態」に戻し、望ましい人格を刷り込むというのがその原理だ。

 

キャメロンの与えた「ショック」には、以下のようなものがある。

 

標準を遙かに超える頻度と回数(30日に渡り計360回以上)の電気ショック療法(ECT)、中枢神経刺激剤や鎮静剤・幻覚剤投与による見当識の混乱、隔離室への幽閉と身体拘束による感覚遮断、長時間の強制睡眠(長ければ65日にも及ぶ)などだ。

 

キャメロンが患者に施したこれらの「ショック」のレパートリーが、拷問となんら変わりない虐待であることは、医学の門外漢でも容易に理解できる。

 

「ショック」によって患者が陥った「白紙状態」の具体的描写の一部を以下に引用する。

 

たとえば第二言語が話せなくなったり、自分の結婚歴も忘れてしまうなど。さらに進んだ形として、支えがなければ歩けない、自分で食事ができない、大小便の失禁などがある。(本文より抜粋)

 

痛ましい幼児退行に陥った患者に、望ましい人格を刷り込み、治療は完了する。

 

その刷り込みの方法は以下のようなものだ。

 

「あなたは良い母親であり妻で、皆あなたと一緒にいることを楽しいと思っています」などという録音テープを繰り返し聞かせることだった。(本文より抜粋)

 

一日十六~二十時間、何週間にもわたってただテープを聞き続ける。中には一〇一日間連続でテープを聞かされる患者もいた。(本文より抜粋)

 

怪しげな睡眠学習法そのものだが、それもそのはず、このアイディアの元は「セレブロフォン」という睡眠学習機器の広告だった。

 

虐待そのものの「ショック」で、歩くことも用便もままならないまでに幼児退行した患者に、睡眠学習じみたテープを何百時間も聞かせて、「良い母親であり妻」に戻ったのか?

 

そんなわけはない。

 

キャメロンの「ショック療法」の結果、精神病患者は、人格が荒れ果てた廃人になっただけだった。

 

ショック療法とはつまり、稚拙で浅墓な希望的観測に導かれた的外れな原理に基づく、効果が無いどころか大いに有害な影響を患者に及ぼし以後の人生を台無しにする、明らかな大失敗なのである。

 

自由放任主義経済も、大失敗という点でショック療法に通ずる。

 

自由放任主義経済とは、あらゆる規制が撤廃された野放図な経済システムだ。

 

自由放任主義経済の信奉者が掲げるドグマを以下に引用する。

 

生態系がそれ自身の力でバランスを保っているように、市場もまたそのままにしておけば、生産される商品の数も、その価格も、それを生産する労働者の賃金も適正になり、十分な雇用と限りない創造性、そしてゼロインフレというまさに地上の楽園が出現する(本文より抜粋)

 

価格統制も関税も参入障壁も雇用調整も公共事業も公共福祉もセーフティネットも無い、全き自由こそが経済を健全化するというのが自由放任主義者の主張だ。

 

経済面に於ける無政府主義である。

 

オチから言えば、自由放任主義経済の試みは、ことごとく無残な失敗に終わった。

 

この失敗は、「シカゴ学派」を自称する、ミルトン・フリードマン率いるシカゴ大学経済学部の関係者たちが失敗を認めなかったことで、更に深刻な失敗として、多くの人々の生活にいまだ癒えぬ深い傷を刻んだ。

 

そもそも、自由放任経済に暴走がつきものだったからこそ、様々な規制がボトムアップ式に生み出され定番の政策として組み込まれたというのに、その歴史的経緯を無視した浮世離れした机上の空論を、複雑で雑然とした条件下で展開する現実の経済システムに無修正で適用したのが、大いなる過ちだった。

 

言ってみれば、自由放任主義経済は、アダム・スミスの「見えざる手」の焼き直し、どころか二番煎じであり、200年以上も前に一個人が提唱したエビデンスの薄弱な、人の善性に全面的に依拠する楽観論の劣化コピーに過ぎない。

 

この二つの理論は、それぞれを単独で評価するならば、歴史に淘汰されてきたその他大勢の失敗の一つに過ぎず、それなりの損害は生じても、早々にその過ちに気が付き、燃え広がる前に消化されるボヤ程度の失策で終わるはずだった。

 

だが、捨てる神あれば拾う神あり。

 

この二つの理論に活用の場を見出した連中がいた。

 

だがこの場合、拾った神は、神は神でも疫病神だった。

 

失敗というものは、ある面から見た価値であって、別の面から見れば成功にもなりうる。

 

ショック療法は精神疾患の治療法としては落第点だが、人格を破壊する拷問、あるいは思考能力を奪い意のままに操る洗脳の下地を作る手法としては、これ以上ない方法だった。

 

一方、自由放任主義経済は、経済活動の暴走を招き、貧富の格差を拡大するが、それと引き換えに、ごく一部の特権階級や富裕層に更に莫大な富をもたらす絶好の機会を提供する。

 

つまり、本来意図した用法ではないものの、ごくごく限られた受益者にとっては、これ以上なく有益な手法なのだ。

 

だが、どれほど(一部の人間にとって)有益な手法といえど、それぞれ単体では物の役には立たない。

 

ショック療法(もはや療法ではないが)による拷問や洗脳の下地作りは、倫理観が進歩した現代では、人権を侵害する到底許されない犯罪行為だ。

 

そして、ごく一部の人間が得をするが、その他大勢が致命的な大損を被る格差社会を助長する自由放任主義経済を、民主主義が曲がりなりにも普及しつつある現代社会で受け入れる共同体などあるはずがない。

 

そのはずだった。

 

この二つの理論が出会うまでは。

 

ショック療法と自由放任主義経済は最悪の相乗効果を発揮する。

 

鬼に金棒が可愛いレベルの最悪の相乗効果だ。

 

民主主義は理性の産物である。

 

ゆえに、理性が停止すれば途端に機能不全を来す。

 

自由放任主義経済をある共同体に導入するためには、民主主義の無力化が必須だ。

 

そこでショック療法の登場となる。

 

政変や軍事クーデターなどによる治安の悪化、台風や地震津波や疫病といった自然災害の「ショック」は、人心を混乱に陥れ、理性を一時的にマヒさせ、民主主義の力を著しく減退させる。

 

この共同体レベルの幼児退行に付け込み、自由放任主義経済を速やかに確立する経済戦略こそが、ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)だ。

 

平たくいえば、国家規模の火事場泥棒である。

 

そしてこの火事場泥棒は、時に放火魔も兼ねる。

 

この火事場泥棒の極めて質の悪いところは、消防士を装って現場に駆け付け、被害者を助けるふりをしてまんまと略奪をやりおおせる狡猾さにある。

 

一例として、イラク戦争の復興事業がある。

 

莫大な税金を投入した復興事業は、ほとんど実効性がないまま終わり、後の残されたのは戦火で荒廃したイラクの大地と社会と焼け出された失業者の群れ、そして業績と株価を大きく伸ばした復興事業請負業者だった。

 

国民が結集した血税がごく一部の企業に流入し、その株を有する政治の有力者を潤す。

 

公共の利益に還元されるべき税金が、一部の私企業や税金の使途を決定する政治家に収奪される構造は、平時ではただちに糾弾される明らかな背信行為だが、戦争という危機的状況の混乱で冷静な理性を失い機能不全に陥った民主主義は、このようなあからさまな横領犯罪を防ぐだけの力すら失うのだ。

 

強欲に突き動かされる火事場泥棒が、次なる猟場となる火事を探し求めるうちに、自ら火事を起こす放火に手を染めるのは自然な成り行きだ。

 

耐えきれない邪悪、そして希望

実のところ、だいぶ前に本書を読んではいた。

 

だがその時は、上巻の半ばまで読み進んだところで読むをのやめてしまった。

 

ショック・ドクトリンのあまりの醜さと邪悪さに胸糞が悪くなり、耐えきれなくなったからだ。

 

現今、日本を含めた世界は疫病の災禍の渦中にある。

 

局所の政変や戦争、災害とは比べ物にならない規模の「ショック」が世界を襲っている今は、ショック・ドクトリンの信奉者にとって、またとない好機だ。

 

ここで改めてショック・ドクトリンの概要を把握し、訪れるかもしれない二次的人災に備えるべく、再び本書を手に取り、今度は読了した。

 

結果、読み切ってよかった。

 

以前本書を途中で閉じた自分は短慮だった。

 

本書には、ショック・ドクトリンの実例が山ほど紹介され、その経済的・倫理的問題点に対する明晰な批判が展開されるが、酸鼻を極める被害の羅列の最後に、ショック・ドクトリンに対抗する民主的勢力の巻き返しを取り上げた章があてがわれ、絶望ではなく希望で締めくくられている。

 

自らの身を滅ぼしかねない強欲は人間の本性だが、一方で、身を滅ぼす前に自戒する克己の精神も人間の本性だ。

 

一時、世界を席巻しかけたショック・ドクトリンだが、やがて世界は免疫を獲得し、ショック・ドクトリンの邪悪な侵攻を効果的に食い止められるようになってきている。

 

恐らく、現今の疫病の蔓延のショックに付け込み、人々の苦しみを助長することを承知で、この混乱から不当な利益を得ているショック・ドクトリンの信奉者がいるはずだ。

 

感染症蔓延に伴う経済的困窮者が増えているのに、実態経済を無視して、高値を更新し続ける日本やアメリカの株価の不可思議な動向がそれを物語っている。

 

ショック・ドクトリンはまだまだ勢力を保っており、疫病に加担して災禍を拡大する人類の裏切り者を駆り立てる動因として十二分に警戒せねばならない恐ろしい大敵だが、それでも人類には、「ショック」を乗り越える潜在能力があることを、本書は示してくれる。