ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

現実よりもリアルな異界……映画『JUNK HEAD』

 


www.youtube.com

概要

1600年後の未来、人類はテクノロジーの発展により死なない体を手に入れたが、代わりに生殖能力を失っていた。

 

永遠に終わらない享楽の日々を謳歌していた人類だったが、新種のウィルスに襲われ多くの人命を失い、絶滅の危機に瀕する。

 

窮地に陥った人類は、ウィルス問題を解決する手段の発見を期待し、独自の進化を遂げた人工生物マリガンが跋扈する地下世界へ調査隊を派遣する。

 

人口激減により仕事が行き詰ったダンス講師である主人公は、調査隊へ志願し、地下世界へと赴くが、出発早々トラブルに見舞われ体と記憶を喪い、頭だけで地下世界へたどり着く。

 

多種多様で奇妙奇天烈な生態のマリガンたちが支配する、危険で広大な地下世界を巡る命がけの探索の中で、主人公は不死を得た代わりに長らく忘れていた生の実感を取り戻していく。

 

現実よりもリアルな異界

ごくまれに本作のような、鑑賞すると酩酊を覚える作品に出遭う。

 

車酔いにも似た、強いて分類するなら不快感なのだが、この感覚は、文句なしに凄い作品に接した際に発症する、私特有の正常な生理的反応だ。

 

悪阻が胎内に生命が宿ったことを保障する兆候であるのと同じで、不快であっても本質的には喜ばしい吉兆にあたる。

 

「凄い」というのは、「名作」とか「面白い」とかとは別軸の評価基準だ。

 

凄ければ名作なのは間違いないが、名作が凄いとは限らない。

 

そして凄い名作と凄くない名作の間に優劣は無い。

 

これはあくまで、私に固有の神経回路を揺るがす特別の刺激を含むか否かであって、作品の優劣とはあまり関係がない。

 

甘党が甘味に特に強く惹きつけられるようなもので、だからといって甘くない他の料理の価値が減らないのと一緒だ。

 

では本作のような「凄い」作品に共通する、私に酩酊をもたらす「甘味」とは何なのか。

 

それは、現実よりもリアルな異界である。

 

本作はストップモーションアニメ形式の映画だ。

 

驚くべきことにこの大作は、実質たった一人のクリエイターの手による作品だという。

 

本作の存在は、映画は大勢のスタッフで制作するものという一般常識を軽々と覆す。

 

本作は原作者の構想が、他者という不純物が混入することなく、純粋に具現化した稀有な代物といえる。

 

当たり前だが、他者の頭の中は覗けない。

 

一時、百発百中の読心術を応用したパフォーマンスで、TVなどの各種メディアで人気だったメンタリストでさえ、他人の心を読むのではなく、表情や所作から統計学的に行動の傾向を予測していたにすぎない。

 

いわんや、メンタリストですらない一般人が、互いの考えをやり取りするには、言葉や創作といった、抽象化された表現を媒介にするしかない。

 

大人数で制作に関与する映画では、スタッフ間のコミュニケーションは必須であり、どれほど豊穣なイメージが原作者や監督の脳内にあったとしても、それを皆で共有するためには、いったん言葉やイメージボードといった何かしらのメディアに落とし込まねばならず、それらは当初のイメージからの抽象や劣化を免れない。

 

更に、分業制のもと、イメージの具現化が他者に委託されることで、そこにはその他者の独自解釈や技術的な限界が加味され、最終的なアウトプットは、大本のイメージから大きくかけ離れた別物になってしまう。

 

そういった制御不能なイメージの変容をあえて活用する創作の技法もあるが、偶然に依存する度合いが強く、むしろより大きなスケールでのコントロール能力や、奔放に拡張するコンテンツを統合する高度な編集能力が要求され、よほどの覚悟がない限り、生半可な力量の人間の手に負える手法ではない。

 

基本的には、原初のイメージからの乖離をどれだけ抑制できるかというのが、映画監督の力の見せ所となる。

 

独力で映画を制作できるなら、この乖離については思い悩まなくて済む。

 

とはいえ、言うは易く行うは難し。

 

そんなことが易々とできるなら、この世には才能豊かな個人制作の大作映画が氾濫していいはずだ。

 

要求される広範な専門知識の習得と、膨大な作業をこなすマンパワーというのは、非常に高く厚い壁として個人制作の道を阻む。

 

だが本作は、そのハードルを常軌を逸した熱意と執念で乗り越えた、というより突き破った。

 

傑出した表現力と、7年もの歳月を捧げる執念が、本作をこの世に産み落とした。

 

本作は、制作者である堀貴秀氏の構想を、本人の表現力の限界と労力が許す限り、忠実に具現化している。

 

彼の頭の中だけにあった、まるまる一個の世界と歴史を、我々はこの映画を通じて垣間見ることができる。

 

それは、現実の世界を下敷きにしながら、堀貴秀氏の頭の中で1600年かけて醸成した異界である。

 

不安定な遺伝子が形作る異形の人工生物の末裔・マリガンたちが、日の届かぬ閉鎖された地下空間で1600年間生活してきた歴史の重みと厚みが随所に見て取れる。

 

古びた建造物や降り積もった土埃、擦り切れ薄汚れた衣類、独自に変容したごにょごにょ言語、無造作に打ち捨てられた廃棄物の山、気色の悪い嗜好品である「クノコ」、ユーモラスでありながらどこか殺伐として冷淡な道徳観などが、さりげなく画面に登場し過ぎ去ってゆくが、どれをとっても尋常ならざるディテールで作り込まれ、圧倒的な実在を主張する。

 

現実世界と見比べれば、異様極まりない意匠の怪物や怪人が跳梁跋扈する異界でありながら、まるで実在する別世界の現実を覗き見ているような、恐ろしく精細なリアリティが作品全体をくまなく満たしている。

 

私の感じる酩酊が車酔いに似ているのは、恐らくそのせいだ。

 

車酔いは、体感する速度と視界に映る景色のギャップが原因という説がある。

 

本作のような「凄い」作品を見て私が感じているのも、一種のギャップだ。

 

現実にはあり得ない異界の景色や生物の生態を、その出色の出来栄えから、現実のように誤認してしまう。

 

理性ではフィクションだと重々承知しているのに、感情のレベルではノンフィクションとしか思えないのだ。

 

この理性と感情が受け取る情報のギャップが、神経系の統合にひびを入れ、不快な酩酊となって現れると考えられる。

 

リアリティ

現実からかけ離れているのに、現実と見紛う迫真のリアリティは本作のどこに由来するのか。

 

単純に堀貴秀氏の突出した造形力や演出力、表現力によるところが大きいのは間違いない。

 

そして、ストップモーションアニメという形式自体の貢献も大きい。

 

ただでさえ労力と時間をバカ食いする映画の個人制作に、明らかに手間暇のかかるストップモーションアニメの手法を採用した堀貴秀氏の選択は、素人目線では明らかに不合理に思える。

 

省エネでの映画制作を試みるなら、セルアニメーションCGアニメーションという、もっと作業効率に優れた選択肢がすぐに浮かぶ。

 

ストップモーションアニメでは、舞台や登場キャラクターを現物として造形しなければならず、絵やCGなら簡単に引ける線一本でも、資材を用意し、切ったり張ったり組み立てたりして表現しなければならないので、手間暇は比べ物にならない。

 

ちょっと調べたところでは、堀貴秀氏は内装業者で、その技術を生かせる創作手法としてストップモーションアニメを選択したそうだ。

 

とはいえ、そういった個人的事情を鑑みても、なかなかできるものではないように思える。

 

現物を用いるストップモーションアニメが、セルやCGのアニメーションと比べて優れているところは、質感のリアリティだろう。

 

セルやCGで何かの質感を表現するというのは難しい。

 

本質的に、絵は実物とは違う物質だからで、どう頑張っても「似ている」以上の存在にはなりえない。

 

「本物を超えた」とか「本物以上」といった謳い文句の良くできたイミテーションは世の中に氾濫しているが、なんとなく違和感が付きまとう。

 

だが、ストップモーションアニメなら、少なくとも本物を使えば本物と同レベルのリアリティを表現できる。

 

砂を表現したければ砂を持ってくればいいし、コンクリの壁を表現したければコンクリの壁を作ればいい。

 

もちろん、登場キャラクターは本物ではない。

 

本物の遺伝子改良されて不死となった人間もいなければ、本物の人工生物マリガンもいないのだからそれはしょうがない。

 

だが、彼らの体を構成する材質は、現実世界に存在する。

 

現実世界に存在する以上、それらは現実の重力や大気や光や温度や湿度の影響を受けている。

 

現実が含有する無数の物理法則や成分の影響が、作り物の登場キャラクターや舞台背景に、現実と地続きの、創作では得難いリアリティをもたらす。

 

セルやCGアニメーションではこうはいかない。

 

いくらアニメーターの技量が高く、現実の人間の動きや重力の影響、大気の流動性や光源との位置関係、温度や湿度に伴う皮膚や衣類の質感の変化などを厳密に再現したところで、それはあくまで現実の模倣であって、無限の精度を有する現実に近似はしても並び立つことはできない。

 

極端な話、棒立ちになっている人間一人を絵で描くだけでも、考慮すべき物理法則や成分は無数にあり、それらを全て忠実に再現するのはもはや人間の表現力の限界を超えている。

 

ところが実写なら、どんな大根役者でも、ただ立たせるだけでそれら物理法則や成分の影響を余すところなく全て画面に写しだすことができ、リアリティという一点において、絵が決して到達しえない境地をいとも簡単に実現できる。

 

ストップモーションアニメで、現実には存在しないデフォルメされた人形が動き回っているにもかかわらず、そこに否応のないリアリティを見出してしまうのは、それらが存在する空間が二次元の架空の世界ではなく、現実世界だからだろう。

 

世界観や造形のリアリティとは別に、現実空間そのものが持つリアリティを、観客は否応なく感受する。

 

その現実世界のリアリティの底上げと見事に調和した異界を構築した制作者の表現力には脱帽する。

 

不気味の谷

欠くべからざる要素を欠いたまま、ただ姿かたちを似せた造形に漂う、ぬぐいがたい違和感を指して「不気味の谷」という。

 

本作は、現実にはあり得ない異界を描きながら、その不気味の谷を飛び越えて、「こちら」に到達している。

 

だが本作は「こちら」に到達していながら、現実離れした異界の様相を崩すことなく、矛盾を抱えたまま存在している。

 

決して混ざらない水と油であるはずの現実と創作が混ざった結果、核融合のような特別なエネルギーを得た本作は、私を打ち据え、恐ろしい震度で揺るがした。

 

この激震に襲われた現実感はもろくも崩れ去り、新たな現実感が取って代わる。

 

本作の鑑賞で生じた酩酊感が、新旧の現実感が急進的に代替わりする勢いに耐えかねた肉体の悲鳴だとするならば、滅多にない精神の大変革が私に訪れた証として、もろ手を挙げて歓迎すべきなのだろう。

 

現実感の再定義を迫る、本当に「凄い」作品だった。

 

本作については、三部作の構想があるそうで、続編に期待が高まるが、この精神の大変革が後二回発生する可能性があるかと思うと、少し怖い。