ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

映画『ワンダーウーマン1984』

 

どんな映画?

才、色に加え、武まで兼ね備えた万能の女性ヒーロー、ワンダーウーマンガル・ガドット)ことダイアナは、考古学者として人間社会に溶け込み、日夜人々の平和を守っていた。

 

虚栄に溺れた落ち目の実業家、マックスが手に入れた恐ろしい力が発端となる、文明崩壊の危機にワンダーウーマンが立ち向かう。

 

感想

ガル・ガドットによるガル・ガドットのためのガル・ガドットワンダーウーマン

 

名作が数年~数十年の時を経て別キャストでリメイクされることはままあるが、おそらく未来永劫、ガル・ガドットを越えるワンダーウーマンは出てこないと予感させるハマり具合。

 

ガル・ガドットを見てからワンダーウーマンの実写化が企画されたのではと、制作過程の前後逆転を疑うレベル。

 

陸海空を縦横無尽に駆け巡るアクションは剛勇無双の迫力でありながら、殺伐としたヒーローアクションに陥らず、巻き込まれた人や、果ては敵にすら情けをかける繊細な優しさがバトルスタイルに一貫し、他のヒーローものとは一線を画す。

 

投げ縄が主武装って、考えるとすごい。

 

待望の新兵器も空飛ぶ鎧だし、とことん武器を排除している。

 

真実の縄を用いたスイングアクションは、スパイダーマンのそれを彷彿とさせるが、スパイダーマンが慣性に任せた完全な振り子運動なのに対し、ワンダーウーマンは振り子運動に加え、空気を踏みしめて空を駆けるアクションが付け加わっている。

 

泥臭くあか抜けない所作だが、スパイダーマンのスムーズなスイングには無い張り詰めた力強さがあり、ワンダーウーマンを優美を売りにするステロタイプな女性ヒーロー像から差別化する個性を与えている。

 

また、スパイダーマンが摩天楼の隙間を縫いながら移動するのに対し、ワンダーウーマンは遮るもののない大空を駆けるという点で対照的だ。

 

雲海と雷光を背景に、全身のバネを躍動させ、長い手足を存分に振り回すガル・ガドットからほとばしる野生には、ただただ見とれため息を漏らすばかり。

 

単なるブランコ運動をここまで迫力あるアクションに洗練した、DCコミックスマーベルコミックスの相互インスパイアの長年にわたる切磋琢磨の歴史を想うと胸が熱い。

 

歌って踊れるドラゴンボールと化したヴィランとの、一筋縄ではいかない決着は、少々綺麗ごとすぎるきらいもあるが、ヴィランの心理を丁寧に追う描写のおかげで、すとんと胸落ちし嫌味がない。

 

一歩間違えればC-3POのコスプレになってしまいかねないあのゴールドアーマーを着こなすガル・ガドットに敵うヴィランなどなかなか想像できない。

 

1984という意味深な数字からして、統制社会がテーマかと思いきや、全然ビッグブラザーが出てこなかったのでちょっとびっくり。

 

終わりに

蘇ったダイアナのかつての恋人、スティーブ(クリス・パイン)が宇宙へ行く伏線ががんじがらめに張り巡らされまくっていたに、そのすべてを引きちぎってダイアナと決別し、物陰で消滅を匂わせるシーンが、いろんな意味で切ない。

 

宇宙博物館とか人工衛星とか、思わせぶりが過ぎる。

 

無茶苦茶期待してしまった分、尚更別れのシーンの切なさが際立った。

 

それとも、既に制作が決定している次回作で今作の伏線が消化されるのか、今から期待が膨らむ。

 

本『GO WILD 野生の体を取り戻せ!』

 

どんな本?

文明の進歩は人類に輝かしい繁栄をもたらしたが、同時に繁栄と表裏一体の厄介な災厄も産み落とした。

 

野生が秘める力から、文明が産み出した厄介な災厄を解決する糸口を見出すべく、有史の枠を遙かに越えた太古の自然に知恵を求めた、悠久の時を越える温故知新の書。

 

感想

「進化」とか、「進歩」とか、「進展」とか、先へ先へ「進む」ことを至上とする頑なで単純なドグマに基づき、近代世界の繁栄は長足の発展を遂げた。

 

だが近年は、当たり前の自明の理とされてきた、後顧なく前進一辺倒で猪突猛進する繁栄のスタイルを疑問視し、科学的な検証のふるいにかけて見直しを図る思想が勢力を拡げ、主流の座に迫り、地歩を固めつつある。

 

本書はその潮流に与する一冊である。

 

本書の主張は、温故知新(故きを温ねて新しきを知る)という概念に集約される。

 

民間の宇宙船が大気圏を突き抜け、コンビニの棚には世界中の珍味が日替わりで溢れ、地球の裏側の庶民のつぶやきが光速のネットワークに乗って瞬く間に世界中に拡がり、人間の一生では到底消費しきれない膨大なコンテンツが手の平サイズの端末でただ同然のコストで楽しめる、そんな夢のような時代に我々は生きている。

 

だというのに我々は、何を食べ、何を思い、どのように生活すれば健康に生きられるのか、最も重要で身近な人体の活用法について、まったくわかっていないのだ。

 

それどころか現代人は、かつてなかった新たな病まで招来し、本来幸福な期間の延長であったはずの長寿がもたらした長い晩年は、不治の慢性疾患に苦悶する、地獄の前借りに等しい拷問の時節となっている。

 

新しい薬剤や治療法が日進月歩の凄まじい速度で開発され、医療が著しく進歩しようとも、やすやすと病苦はその上を行き、地球全土津々浦々の老若男女の心身を冒し続け、勢力の拡大は留まるところを知らない。

 

それもこれも、我々が人類本来の生態=野生を無視し、がむしゃらで無軌道な進歩の暴走を許してきたからだ。

 

野生と野蛮を同一視して、生活から徹底的に野生を排除する無分別な取り組みを、我々は「文明」と称し、愚かにも、多大な労力と犠牲を払い、猛烈に推進してしまった。

 

ホモ・サピエンスの種としての歴史だけでも数百万年、生命全体の歴史に至っては数十億年という気の遠くなる悠久の時を費やし、数え切れぬ命がけの試行錯誤を重ねてロールアウトした、現行生命の精妙な仕組みを、生命の尺度からすれば、歴史と呼ぶのも憚られる、たかだか一万数千年の人類の歴史が、昨日今日ぽっと出た「文明」などという浅薄な基準で、正確に理解し適切な評価を下せるはずがない。

 

まだしも原始社会の人々は、己の理解を遙かに超えた精妙な生命の仕組みに畏敬をもって接し、その精華である心身にたゆまぬ関心を寄せ、その理を読み解き、理の命ずるところに忠実に従い、生命を的確に運用した報酬として、健康と幸福を享受していた。

 

だが、幼年期の科学が、その幸福な主従関係に終止符を打った。

 

科学は理を明確に可視化したが、同時に科学の及ばぬ領域を暗く見えざる不可知の洞窟に押し込んだ。

 

科学がもたらした画期的な功績の数々が素晴らしかっただけに、その輝きに目が眩んだ人々が陥った、科学万能主義の闇はなお濃く深い。

 

科学万能主義に則れば、科学に解き明かせぬ理など有り得ない。

 

だがこの万能は、幼児が抱く無根拠な万能感と同根に発する。

 

つまり勘違いだ。

 

その勘違いは、科学が解き明かした僅かな理だけで広大無辺の世界を説明し、運用するという無理を招いた。

 

だが、無理を通して道理を引っ込めたところで、真理は微塵も揺らがない。

 

真理をないがしろにした無理の報いは恐ろしい災厄となって人類を襲う。

 

本書は、野生を題材にしているが、本質は科学の成長を描いた書だ。

 

迷信と伝統を混同して、一緒くたに排除する短絡思考に陥っていた幼年期の科学から脱却を図り、温故知新の基本に立ち返った冷静沈着な科学が野生と和解する一連の流れを追っていく。

 

本書を、未来志向一辺倒の旧来科学の反動が行き過ぎた、不当な野生礼賛の書と解釈する向きもあるだろうが、たとえそうだとしても、これまで等閑視してきた生命の既存の在り様に着目し、科学の地平が前向きの未来だけでなく、後ろ向きの過去にも無限に開いていることを明らかにした慧眼は、掛け値なしの賞賛に値する。

 

宇宙開発に対する深海探査のように、頭上に広がる無限に対し、足下で支える無尽もある。

 

中でも人体は、宇宙が悠久の歴史を費やして丹念に構築した、珠玉の無尽である。

 

この無尽の性能を十分に引き出すことはおろか、故障しないよう平穏無事に扱うだけでも、我々が誇る「文明」の手には余る難事だと、日々人々を苛む高血圧や高血糖高脂血症が証明している。

 

人類に遺された最後のフロンティア、という定型句は、絶滅に瀕する旧来科学の幼稚な万能感の残滓に過ぎず、実際のところ、科学は世界の解明に先鞭をつけたばかりで、フロンティアではない領域を探す方が難しいありさまだ。

 

本書を読んで、人体の構造や生理機能について、新旧の知見を統合したバランスの取れた知恵を獲得できたと自惚れては、再び幼稚な万能感に酔う愚を犯している。

 

野生は宇宙や深海よりも広く深い謎に満ち溢れており、ひたすら平身低頭して教えを乞う、永遠の尊敬に値する教師だ。

 

これからの科学、というか正しい科学に必要なのは、莫大な研究費用でも、常軌を逸した突飛な発想力でもなく、ただただ天然自然に教えを乞う、謙虚の姿勢であるというのが、本書から得られる最大の教訓だ。

 

終わりに

文中で頻繁に引用される『BORN TO RUN 走るために生まれた』を併せて読むと、椅子に座っていることが耐え難く、いよいよ家の中でじっとしていられなくなる。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

 

本書の著者の既刊、『脳を鍛えるには運動しかない!』に言及する場面も多く、こちらも併せて読みたいが、なぜか縁が無く、いまだ読めていない。

 

 

名著への数千円の出費もはばかられる貧窮でも、自分の体で遊ぶには十分だ。

 

とはいえ、どんな遊び道具も、長く安全に遊ぶには適切なケアが欠かせない。

 

本書のおかげで、今少し長くこのおもちゃで楽しめそうだ。

ミマチガエル


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暗くなってから近所のスーパーまで買い物に行く途中で、進路上の落葉の一枚が、風量や風向きとは無関係の方向に動きまわっていた。

 

よくよく目を凝らすと、それなりの大きさをした、枯葉色のカエルだった。

 

危うく踏み潰すところだった。

 

秀逸な擬態も、時と場合による。

 

近くに水場も田んぼもない住宅街のど真ん中に、一体どこから迷い込んだのか。

 

 

映画『007 NO TIME TO DIE』


どんな映画?

大人気英国スパイ映画007シリーズ節目となる25作目にして、6代目ジェームズ・ボンドダニエル・クレイグの卒業作。

 

恩讐を越えて結ばれた恋人マドレーヌ・スワン(レア・セドゥ―)との決別を経てリタイア生活を満喫していたボンドは、CIAの旧友フィリックス・ライター(ジェフリー・ライト)の依頼で、誘拐されたナノマシン兵器開発者オブルチェフの行方を追う。

 

捜索はやがて、古巣である英国諜報機関MI6の秘密計画、義兄にして悪の組織スペクターの首魁ブロフェルドとの因縁、そして暗躍する謎の人物サフィンラミ・マレック)、そして運命の恋人マドレーヌを結ぶ、世界の危機へと繋がっていく。

 

感想

コロナ蔓延による延期に次ぐ延期で、いよいよ劇場公開を危ぶんでいた007最新作が、2年越しに満を持して劇場公開された。

 

3時間近い長尺にもかかわらず、徹頭徹尾、微塵の弛みなく一気呵成に鑑賞を終えた。

 

ラミ・マレック演じる本作のラスボス、サフィンの国籍不明瞭な不気味さは趣深い。

 

ラミ・マレックだけでなく、日本の能面をかぶり機関銃を携えた雪原迷彩服の襲撃者とか、ミサイルの発射口の上に設けられた毒草の生い茂る枯山水の日本庭園とか、斬新な和洋折衷シーンが目白押しで、心地よい混乱に酔いしれる。

 

畳に正座のラミ・マレックとか、多分二度とお目に掛かれないお宝映像だ。

 

序盤でボンドのパートナーを務めるCIAの新米エージェント、パロマ(アナ・デ・アルマス)の胸元が大きく開いた、というか四捨五入したら丸出し同然の際どいドレスで繰り広げる豪快なアクションは、色々な意味でハラハラドキドキした。

 

Q(ベン・ウィショー)が開発したMI6製ビックリドッキリマシンにも胸が躍ったが、パロマの奔放な胸元を最後まで守り通したドレスのテクノロジーも興味深い。

 

15年007シリーズを盛り上げたダニエル・クレイグに相応しい、壮大で切ないラストシーンには、しばらく忘我の境地から戻ってこれなかった。

 

終わりに

これでクレイグボンドが見納めかと思うと、大ファンだっただけに寂しさもひとしおだが、肉体的な全盛期で役を離れるというのは、アクション映画俳優としては100点満点の英断だ。

 

5代目までの英国紳士らしい軽妙な、ともすれば軽薄と紙一重だったボンド像に、地に足のついた重厚な存在感をもたらし、シリアスな魅力を拡張したダニエルとスタッフの功績は掛け値なしに大きい。

 

これ以上のボンド像というものはどうにもイメージしづらいが、次代のボンドへの期待は膨らむばかりだ。

 

次回作から主役を交代して作風一新を図る下準備なのか、クレイグボンドと因縁深い重要人物たちが、手際よく整理されていく勢いが打ち切り作品の巻きの入った急展開じみていて、ちょっと笑いをこらえきれなかった。

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人里離れた悪の根城にはミサイルが良く似合う

映画『アイアン・スカイ』

 

 

どんな映画?

アメリカ大統領が選挙キャンペーンの人気取りのために月面探査に派遣した黒人モデル・ワシントンが、第二次世界大戦で敗れ、月の裏側で再起を図っていたナチスの残党と遭遇したことがきっかけとなり、ナチスVS世界の宇宙戦争が勃発する。

 

感想

ナチスほどディテールが凝っていながら、何でもありの荒唐無稽な悪役として、シリアスからコメディまで、ありとあらゆる形式の創作で重宝される実在の組織は空前にして絶後だろう。

 

本作でのナチスの扱いは、その中でもスタンダードな、偏狭な政治思想と世界征服の誇大妄想に取りつかれたトンデモ科学で武装する狂信者の軍勢というものだ。

 

人道的な国際協調に逆行する諸国の利己主義と分断の傾向を束ねて煮詰めたカリカチュアという立ち位置は、創作物におけるナチスの指定席としてすっかり定着した感がある。

 

帰ってきたヒトラー』でもそうだったが、ナチスが犯した慄くべき所業を別にすれば、その政治信条の中核を成すドグマには、ある種の人々を強烈に惹きつける普遍的な引力があり、本作において、アメリカが時を越えて逆輸入したその普遍性の毒牙に酔いしれ熱に浮かされるお祭り騒ぎは、非常に滑稽でありながら、同時に肝胆を芯から寒からしめる。

 

ナチスがブラックジョークのタネとして重宝される背景には、日本の国政において重要な国防、その要たる自衛隊の広報ポスターに、アニメ調の可愛いキャラクターが起用される事情と同じ力が働いている。

 

真面目で深刻な問題を正面から突き付けられ、緊急の対応を迫られることほど、人間にとってストレスフルなことはない。

 

できることなら、真面目で深刻な問題を避けて通り、気ままに太平楽にストレスフリーな日々を過ごしたいのが人情だ。

 

だが、真面目で深刻な問題は、避けて通れないから真面目で深刻なのだ。

 

国防には十分な人員を充当しなければならないが、ひとたび争乱が巻き起これば、泥濘に塗れ、銃火に身を晒し、命を懸けて国を守る肉の盾となる自衛隊の実態を、露骨に赤裸々に正直に宣伝広告したら、果たして十分な人数が集まるだろうか。

 

もちろん高い志を持って困難な業務へ進んで志願する人間も一定数いるが、いつの時代のどこの地域でも、そんな理想的な人材は希少種で、常に不足しているのだから物の数ではない。

 

となれば、露骨で正直な宣伝広告は避けるに如かず、可愛いアニメキャラクターのつぶらな瞳と鮮やかな彩色で過酷な国防業務の実態を塗りつぶし、ハードルを下げる広報戦略は、人材補充の方策として理に適う。

 

飲まねばならぬ苦い良薬を飲むために、シロップをぶち込む融通が、現実世界には欠かせない。

 

ナチスの台頭は、人類が許してしまった人為的惨禍の中でも最悪の部類に入る。

 

二度目は決して許されない。

 

だが、惨禍の経緯を把握し、正面から対峙するには、相応の知性と覚悟を備えなければならない。

 

これが個人の成したことであれば、単なる例外、ベルカーブの両端に位置する逸脱者の凶行として片づけても差し支えないが、事は国家規模の組織的凶行である。

 

パニックに陥った集団が、集団心理の巨大な慣性に流されるままに発動した無軌道で散発的な暴力ではなく、明確な信条と冷静な合意に基づく政策として、数百万人が一致団結した相乗効果無くしては成し得ない一大事業を、一時の惑乱や狂気の産物などという浅墓で大雑把なイメージの向こうに追い遣り、隔離の完了を期して安心するのは早計である。

 

アイヒマン裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントの『悪の陳腐さについての報告』を引き合いに出すまでもなく、ナチスが明日の我々、あるいは既にして今の我々の姿である可能性は否定できない。

 

ナチスは特別な存在ではなく、人類の本質に組み込まれた残虐性が、何らかの条件を満たしたときに結晶化して噴出する一つの表現形式なのだ。

 

「何らかの条件」などと曖昧な表現を用いたが、いまだ人類はその正体を完全には掌握しておらず、理解すら程遠い。

 

その証拠に、ナチスの台頭以前にも以後にも、ナチスと似たり寄ったりの迫害や虐殺は後先を絶たず発生し、事例には事欠かないというのに、我々はいまだに有効な予防策を打てず、事後処理と益体のない反省に追われている。

 

誰しも、自分の中に、そして家族や友人や愛する人や尊敬する人やその他あらゆる人々の中に、人類史に黒々とした汚点を記す、ナチスと並び立って遜色のない凶行の因子が眠っているとは考えたくはない。

 

だがそれは事実なのだ。

 

真面目で深刻な事実なのだ。

 

複雑で醜悪な人類の一面に真摯に向き合い、対抗する覚悟を定めなければ、未だ明らかならざる条件が揃った時に、ナチスの同工異曲は我々を土壌として何度でも芽吹くのだ。

 

だが、真面目で深刻な問題を避けて通りたいのが人情であるのは先述したとおりだ。

 

苦より楽を好むのもまた、人間の本質なのである。

 

たとえより恐ろしい苦を招く愚かな選択であったとしても、目の前の楽の魅力には抗しがたい。

 

では我々はどうすれば真面目で深刻な苦に取り組み、将来の憂慮に対抗できるのか。

 

幾つか方法があるが、苦と楽をセットにするのが古典的な方法の一つである。

 

苦い良薬にシロップを混ぜる、くだんの手法だ。

 

本作においては、痛烈な政治批判に、荒唐無稽なナチス残党の都市伝説を絡めて、口当たりのいいブラックジョークに仕立て上げている。

 

人々がブラックジョークに惹かれるのは、見たくないが直視しなくてはいずれ立ちいかなくなる自らの汚点に曲がりなりにも向き合うまたとない形式だからだろう。

 

アニメ調の自衛隊の広報ポスターと、月から飛来するiPhoneで動くナチス謹製の超巨大UFOは、過酷な国防の実態や、ナチスの犯した酸鼻を極める陰惨な凶行を糊塗する激甘の糖衣として機能する。

 

笑えない事実に、笑える創作のシロップを振りかけて喉の奥に押し込み、何とか滋養にする、古来からの人類の英知(というか苦肉の策)の最新版の具体例として本作を見直すと、人類がいかにして自らに潜む残虐性と向き合い、自滅の危機を乗り越えて命脈を長らえて来たのか、その工夫と苦労の跡が仄見えて、笑いつつも感慨深くもなる。

 

終わりに

美女に軍服を着せると魅力が3割増しになるのはなぜなのだろうか。

 

特にナチスドイツの軍服は甚だしく扇情的で、まったくけしからん意匠だ。

 

月面ナチスの地球学者、レナーテ・リヒターの軍服姿だけでザワークラウトどんぶり三杯は軽く、ビールが進むこと進むこと。

 

人心を惑わすナチスはやはり恐ろしい。

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けしからん

 

本『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』

どんな本?

全ての人間に等しく訪れる老化という現象に、最新の知見と著者独自の理論で新たな光を当て、古色蒼然とした従来の老化観を大きく刷新する啓蒙の一冊。

 

感想

老化は傷病と同じく、生命体が是が非でも克服すべき不倶戴天の仇敵として、蛇蝎のごとく忌み嫌われている。

 

世界中の医療関係者や科学者が老化という不治の病を克服すべく、日々有効な対抗策を模索し、一分一秒でも余命を延長すべく、知恵の限りと粉骨砕身の努力を尽くしている。

 

だが本書は、それらの老化悪役説に真っ向から異を唱え、あまつさえ強力に擁護する。

 

そもそも老化現象は、死を免れ得ぬ生命体の晩年に付き物の普遍的な衰弱現象だという思い込みが古今東西を問わず行き渡っているが、実はそうではないというのが本書の主張だ。

 

本書でいう老化とは、しわくちゃになることでも、関節があちこち痛みろくに走れなくなることでも、冷静な判断力を喪失してオレオレ詐欺に引っかかりやすくなることでもない。

 

本書が扱う老化の定義は主に二つ、「死亡率の上昇」と、「生殖能力の低下」だ。

 

死亡率の上昇とは、年を経るごとに死ぬ確率が高くなることを指す。

 

例えば、統計上、20歳の人間1000人のうち、1年後の21歳まで生き残るのは999人、つまり死亡率0.1%であるのに対し、60歳の人間1000人のうち61歳まで生き残るのは990人、つまり死亡率1%となっている。

 

この場合、60歳の人間は20歳の人間に対して、「老化」していると看做す。(アメリ社会保障保険数理表2010年度版に基づく数値)

 

これが80歳になると1000人のうち生き残るのは940人となり、死亡率が6%にまで上昇する。

 

つまり60歳よりも80歳の方が老化が進行していることになる。

 

死亡率が横ばいなら老化は進行しておらず、仮に低下したなら若返ったというわけだ。

 

一方生殖能力はそのまま、どれだけの子供が産めるかという能力を指す。

 

人間の女性に当てはめると、閉経が分かりやすい生殖能力の低下、つまり老化の指標となる。

 

この二つは、人間視点では非常に慣れ親しんだ老化の特徴であり、直感的・体感的に理解しやすい。

 

だが、この二つの定義に照らすと、老化しない、あるいは年を経るごとに若返っていく、人間視点ではにわかに信じがたい生物が自然界には確かに存在しており、老化が生命体に付き物の普遍的な現象ではない証左となっている。

 

例えばロブスターやハマグリには上記二つの定義では老化現象が見られず、死ぬまで成長が継続し、幼く小さい個体より年経て成長した大型の個体の方が死ににくく、更に生殖能力も向上していく。

 

つまり、老化しないどころか、若返っているのだ。

 

分かっている範囲で、ロブスターは100歳以上でも成長し続け、ハマグリ(正確にはホンビノスガイ)のうち、記録にある最高齢の個体は507歳となっている。

 

こう見ると意外な気もするが、しかし私たちは不老、あるいは若返っていく生物と常日頃から身近に接している。

 

それは植物だ。

 

特に樹木は老化と無縁な生き物の好例だ。

 

何百年、何千年と生き、屋久杉のようにどこまでも巨大に成長するものも少なくなく、大きさに比例した大量の種子をばらまき、旺盛に繁殖する。

 

樹木の生態を人間に置き換えれば、20歳のうら若い女性が一回の出産で一人の子供を産むところ、100歳の女性が20歳の女性より意気軒昂で、尚且つ1回の出産で10人の子供を産むようなものである。

 

一方で、老化が人間のように徐々に進行するのではなく、まったく別のタイミングで発生する生物もいる。

 

例えばセミが好例だ。

 

セミは一生のほとんどを地中で幼虫として過ごし、地上に出てきて羽化した後は、生殖を含め、数週間という短い期間で一生を終える。

 

人間の女性に置き換えれば、100歳まで性的に成熟しない子供のままで育ち、100歳を迎えた途端、急激に性的に成熟して子供を大勢産んだかと思うと、瞬く間に老化して死んでしまうという、ホラー映画のワンシーンを彷彿とさせる異様な成長過程になる。

 

本書にはほかにも様々な生物の老化(あるいは不老、若返り)の事例が引用され、人類に流布する老化観がどれほど偏狭かをこれでもかと思い知らせる。

 

生物界の多種多様な老化現象の様相から導き出されるのは、老化現象があまねく生物に義務付けられた晩年の災厄ではなく、進化の末に獲得した多様な長所の一種という、逆説的な解釈だ。

 

つまり、人類にとっての老化とは、ライオンにとっての牙と爪、鳥にとっての翼、スズメバチにとっての毒針、カメレオンにとっての保護色と同じく、生存に有利をもたらす長所なのである。

 

名前とは裏腹に、古典的な進化論と化したネオダーウィニズムの観点からすれば、老化、つまり命を縮める現象は、適者生存の法則に従って真っ先に淘汰されるべき、明らかに生存に不利な弱点である。

 

人生の早期に心身機能が衰退し短命に終わる個体より、より長く壮健に活動できる長命の個体の方が、集団の中で優位に立ち、遺伝子を後世に広め、時を経るほどに集団全体が長命な個体に置き換わり、その傾向はどんどん進行していくというのが、ネオダーウィニズムが想定する適者生存の展開だ。

 

だが現実世界はネオダーウィニズムの想定とは大きく食い違う。

 

栄養状態や衛生環境の進歩によって平均寿命は延伸したが、それは単に早期に死ぬ個体の減少によるもので、老化しにくい個体の増加によるものだけではない。

 

そもそも、人間よりはるかに短命な種族――虫やバクテリアや雑草――が、人間のスケールからすると一瞬にも満たない寿命にもかかわらず、地球上で人間より繁栄している理由は、ネオダーウィニズムでは説明できない。

 

虫やバクテリアや雑草の旺盛な繁殖力が、短命を補って余りあるという理屈ももちろんあるが、長命は繁殖力と両立できる性質であり、両方を兼ね備えた個体の方がそうでない個体より遺伝子プールを独占する競争では明らかに優位なのは間違いない。

 

だが、この直感的に正しそうな論理は、こと自然界では大間違いなのだ。

 

つまり、度を越した長命は、種の存続を脅かす短所となりえる。

 

仮に、人間に老化が無く、つまり事故や病気以外で死ななくなった場合を想定してみよう。

 

寿命がある状態ですら既に人口が70億を超え、更に増加している現状を見れば、人口爆発待ったなしなのは明白である。

 

その結果起こるのは、深刻な資源の不足だ。

 

エネルギーや鉱物資源はともかく、特に飲食物の不足が喫緊の課題となるだろう。

 

イナゴのごとく飢えの赴くまま種もみまで食い尽くせば、人類総餓死が唯一の末路となる。

 

つまり、資源が限られた環境に対し、人口を調節して資源の消耗を抑え、種を存続させる機能として、個体の老化は非常に有効な生存戦略の一種なのだ。

 

もちろん、人口の調節機能は老化だけではない。

 

かつては人間を捕食する動物や感染症や栄養不良がその役を十全に果たし、人類を生かさず殺さず、存続させてきた。

 

だが現代では、サーベルタイガーが人間のはらわたをむさぼることも、コレラ赤痢で糞便を垂れ流して干からびることも、ましてや餓死することも非常にまれになり、死因ランキングの上位は、栄養過多と運動不足を原因とする生活習慣病が埋め尽くしている。

 

そんな現状にあって、人類が躍起になって克服しようとしている老化は、人類を自滅に導く際限なき増殖を食い止める最後の砦となっている。

 

ここで本書は矛盾に突き当たる。

 

本書も老化を主題に据えたコンテンツの例にもれず、老化の仕組みを解き明かし、アンチエイジングの方策を取り上げる。

 

老化を肯定するだけで、対策を提示しない本など誰も買わないと、著者もシニカルに自虐する。

 

老化を肯定しつつ、一方で個体の寿命を延ばす方法を読者に授けるというのは、ダブルスタンダードも甚だしい。

 

この矛盾について、本書では最後の一章をまるまる割いて論じている。

 

結論として、資源の有効利用と、積極的な少子化という、ありきたりの案が提示される。

 

老化の科学が進歩すれば、寿命は延長し、人口は増加して資源の消耗が加速するのだから、これは当然至極の結論だ。

 

種としては過度の長命と人口の増加は望ましくないが、個体の欲求は種の要求に反する。

 

かつては過酷な自然環境に拮抗するパートナーとして力強かった不屈の生存本能が、科学によって自然環境を屈服させた今となっては、自らの首を絞める最悪の敵となってしまった。

 

かつて、種の個体数と自然環境が受け入れ可能な容量のバランスを欠いた種はことごとく絶滅した。

 

今生き残っているのは、生態系の中で与えられたニッチに謙虚に甘んじる中庸の要訣を遺伝子に刻み込んだ、分をわきまえた種だけだ。

 

近年、SDGs(持続可能な開発目標)が国際的な主潮となっているが、声高に唱えるまでもなく、生物はその始祖からSDGsの履行を余儀なくされ、違反者は漏れなく容赦なく自然の摂理の断頭台の露と消えた。

 

その絶対条項はすべての生き物の遺伝子にデオキシリボ核酸のインクではっきりと書き込まれているが、人類はいまだ条文の理解はおろか、解読にすら手を付け始めた段階で留まっている。

 

数百万年を生き延びてきたホモ・サピエンスだが、地球上の他の種の同輩と比べればひよっこもいいところの若輩だ。

 

だというのに、この数百年で、貪欲に資源を食い漁り、環境を痛めつけ、手で触れられるほどの距離にまで破滅に接近し、このままでは人類は短い生涯に自ら幕を下ろす羽目になりかねない。

 

がむしゃらに繁栄を追求した刻苦勉励の果てが、不養生ゆえの夭逝とは、本末転倒そのものである。

 

科学が遺伝子に刻まれた存続の要綱を解読し、粛々と履行する従順な態度を人類が体得するのが先か、それともこのまま枯渇の破局へまっしぐらに突入して絶滅するのが先か、文字通りのデッドヒートは予断を許さない。

 

老化という個人的な現象を入り口として、種の寿命、ひいては生態系の寿命にまで視野が広がり、真の繁栄について、認識の一新が読むほどに促される。

 

終わりに

自分は、本書が取り上げた老化の、種の生存戦略における重要な役割に注目したが、それは本書が語る老化の一側面に過ぎない。

 

アポトーシステロメア、集団選択やコミュニティ進化、シンビオジェネシスホルミシス等々、話題はミクロからマクロに至る様々なスケール、生理学から社会学にまで至る様々な分野を縦横に駆け巡り、老化というテーマが包含する領域の広大さの一端がうかがえる。

 

心身を若々しく保つアンチエイジングの秘訣を網羅した指南書としても優れているが、それよりも、老化が種の存続に重要な貢献を果たしているという、かつてない認識をもたらすことで、老化に対する闇雲な嫌悪感を払拭し、加齢に対するネガティブな印象を薄める効能の方を、本書の本領と看做したい。

 

恐怖の対象を遠ざけようと腐心しても、恐怖そのものを克服しない限り、いつかは恐怖に呑み込まれるというのは、古今東西、異口同音に語られる不易の真理である。

 

アンチエイジングに躍起になるほど、小じわや些細な関節痛といった、微かな老化の兆候にすら怯えて暮らさざるをえなくなる。

 

そんな恐慌と隣り合わせの生活など、いくら長く生きられても、単に拷問の時間が長引いたのと同じで、喜ばしくもなんともない。

 

加齢に伴う心身の衰えと、その先に待つ死が、子々孫々の繁栄に益する科学的根拠があるというのは、現代版の極楽浄土や天国の思想として、心を慰めてくれる。

 

読後に少し気になったことがある。

 

本書では、結論として積極的な産児制限を推奨しているが、制度を整え教育を普及させるまでもない気がする。

 

先進国を苦しめる少子高齢化の波は、見方を変えれば人口の抑制に他ならない。

 

高齢者が増え人口が減少しにくくなった分、新生児が減ることで、個体数が一定のラインを越えないように保たれているのだ。

 

人類には、人口の過剰な増加を察知して、自発的に産児抑制する、何らかの自己保存機能が元来備わっているのかもしれない。

 

そう考えると、少子高齢化も、局所的には憂慮すべき問題だが、長期的には種の存続に寄与する多彩な生存戦略の一つに思えてきて、悲観が薄らいだ。

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これも一つの生存戦略……?