ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 

 

どんな映画?

未曽有の大災害・セカンドインパクトによって地球の地軸が傾き、常夏に季節が固定された2015年の世界。

 

次から次に襲来する使徒と呼ばれる謎の怪物を、人類は特務機関ネルフが運用する汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンで迎え撃つ。

 

エヴァンゲリオンパイロットとして召集された14歳の少年、碇シンジは、過酷な戦いの中で多くの人々と触れ合い、傷つきながらも成長し、全人類の統合を図る人類補完計画の完遂を目論む父・碇ゲンドウとの最終決戦に臨む。

 

足掛け25年に渡るエヴァシリーズの新劇場版完結編。

 

感想

TVシリーズの第一話からリアルタイムで追いかけてきた人間としては感無量でしかない。

 

映画館で宇多田ヒカルのOne Last Kissが流れたときには、年甲斐もなく快哉を叫びたくなった。

 

TVシリーズと旧劇場版のラストは期待以上のものであったものの、どこか釈然としないものがあり、ファンとしてはともかく、庵野秀明という稀代のクリエイター自身が十全に納得しているのかどうか疑問に思っていた。

 

本作では、そういった不完全燃焼だった部分が跡形もなく燃え尽き、爽快な喪失感で胸がすいた。

 

エヴァという作品群の面白さの一つは、考察という、それまでのアニメには無かった楽しみ方を提供してくれた点にある。

 

全ての情報を開示せず、謎めいた言辞や宗教的な用語を雨あられと散りばめ、作品全体に神秘的な雰囲気を醸しだし、視聴者を物語へと強力に引き込んだ。

 

そういった点では、実のところ本作はこれまでのエヴァシリーズとは一線を画し、神秘的な部分はほとんどない。

 

エヴァお得意の謎めいた言辞や宗教的な用語は相も変わらず絶好調だが、その全てに視聴者を有無を言わさず納得させる回答が用意され、後を引く疑問は残されず、徹底した親切設計となっている。

 

意味が分からない用語や、解釈の分かれる場面も多々あったが、用語の意味は分からなくてもなんとなく勢いで万事上首尾に終わるので特に気にならず、解釈が分かれる場面については、どのように解釈が分かれてもハッピーエンドには違いないのでこれまた満足がいくものだった。

 

終わり良ければ全て良しというフレーズがこれほどしっくり当てはまる作品もない。

 

TVシリーズと旧劇場版の時点では、まさにこの真逆だったのも、今となっては対照的で面白く感じられる。

 

エヴァの後には、雨後の筍のごとく考察系の作品がわんさと湧き、その流れはいまだに引きも切らず、もはや定番の作劇手法として一般に膾炙しているが、エヴァが後発の模倣品やオマージュと一線を画すのは、考察のし甲斐がある綿密に作り込まれた設定にもかかわらず、同時に、多様な解釈を許容して矛盾を来たさない度量の広さも有しているからだ。

 

というわけで、この場では、シン・エヴァンゲリオンを鑑賞して去来した万感の数々を、とりとめもなく順不同支離滅裂につらつらと自己満足が飽和するまで羅列していく。

 

碇ゲンドウ

まず碇ゲンドウについて。

 

シリーズを通し、全ての災厄の元凶として暗躍したり、ついに本作ではラスボスとして全人類を敵に回す敵役として描かれていたが、そもそもゲンドウは何も悪事を働いておらず、むしろゲンドウがいたからこそ人類が救われた向きもある。

 

彼は徹頭徹尾、善意の人だった。

 

まず使徒が襲来するのは既定路線であり、撃退に失敗すれば人類は絶滅していた。

 

ネルフを率い、後に人類補完計画の要となるエヴァを最前線に送り出しながら壊さずに使徒を撃退するという離れ業をやり遂げるだけの統率力と管理能力を備えた逸材がゲンドウの他に居たのかは疑わしい。

 

使徒撃退にはエヴァが必要だが、エヴァはゼーレのシナリオ上、必然的に人類補完計画を発動させるトリガーとなってしまう。

 

人類補完計画をまとめ上げたのはゲンドウだが、それはあくまで具体的実行計画の策定に過ぎず、原案は秘密結社ゼーレのシナリオであり、ゼーレが原作者なら、ゲンドウは脚本家に当たる。

 

ゲンドウは人類補完計画によって、ゼーレのシナリオに便乗し、妻であるユイとの再会を画策したに過ぎない。

 

別にゲンドウが居ようが居まいが、ゼーレのシナリオは何らかの形で実行され、失敗すれば使徒に人類は滅ぼされ、成功すればサード、フォースインパクトを経て人類は統合され、一個の個体生命として神化していたのであり、そこにゲンドウの意思が介在する余地はない。

 

TVシリーズからそうだったが、ゼーレは人類補完計画の実行について、ゲンドウに全面的に依存し、ゲンドウ抜きでは立ちいかないまでになっている。

 

ゲンドウがユイに執着し、人類補完計画を私的に濫用して再会を果たそうとているのは、当然ゼーレも把握していた。

 

ゲンドウが、エヴァに取り込まれた妻のクローンを量産しているドン引き狂人ムーブをかましている時点で分からない方がどうかしている。

 

それでもゼーレがゲンドウに全権を委任し人類補完計画の実行を託したのは、他に適任者がいなかったからだ。

 

そして、ゲンドウは実のところ、ゼーレの期待に完璧に応えた。

 

雰囲気的にゲンドウがゼーレを出し抜き裏切ったみたいになっているが、ゼーレ的にはゲンドウは最初から最後まで完璧に契約を履行してくれた、忠実なしもべだったのだ。

 

それは、ゲンドウがユイと再会を果たす過程で、既に人類補完計画は完遂しているからだ。

 

ユイとの再会と、人類補完計画の完遂は両立する。

 

もしかしたらゲンドウとユイはその統合から逃れる可能性があったが、たった二名の例外を認めるだけで、人類補完計画という途方もない無理難題を最後までやり遂げる実力と執念を備えた優秀な人材をリクルートできるのなら、ゼーレとしては許容範囲だったのだ。

 

ゲンドウもそれは分かっていて、自分とユイとの再会を実現するための助力を得るために、ゼーレの無茶ぶりもいいところの要求を完璧にこなした。

 

前作『Q』で、ゼーレ構成員の意識が納められたと思しき機材の電源が落とされ、ゼーレが抹殺された描写があり、ゼーレの議長も満足を示すコメントを遺して逝った。

 

あの時点で、既に人類補完計画は後戻りできないのはもちろん、成功が確定した段階に入っており、ゼーレとしては本望が叶い、お目付け役の役割も無用となったので、強制退場させられても、不本意ではあれ、問題はなかったのだろう。

 

ゲンドウとしては、煩わしい目の上のたん瘤にはできるだけ早く退場してほしかったのだろうが、もしかすると、人類補完計画の完遂に必要不可欠な何かしらの情報やファクターを、あの最後の瞬間までゼーレが握ったままゲンドウに渡すのを渋ることで、計画の成功が確定する段階まで、生存を担保していたのかもしれない。

 

そしてなにより人類補完計画によって成し遂げられる人類の統合は、ゲンドウの思想とも一致していた。

 

本作で明確に示されるように、ゲンドウもシンジと同様、差異のある他者との交流に苦痛を感じる、共感性を欠いた内向的人種だった。

 

それゆえ、他者との差異を人の世の諸悪の元凶と看做し、差異を恒久的に解消する人類補完計画の遂行を志した。

 

以下のようにゲンドウは語る。

 

全てが等しく単一な人類の心の世界

他人との差異がなく

貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない

浄化された魂だけの世界

(作中より抜粋)

 

人類補完計画は、ゲンドウが感じてきた個人的な苦痛が解消されると同時に、人類を苦しめてきた宿痾も一挙に完治させる、一石二鳥の手段だった。

 

そして何より、ユイとの再会を実現するゴルゴダオブジェクトにアクセスできる方法でもあるという点で、一石三鳥にすらなりうる。

 

ユイとの再会がゲンドウのメインの目的であるが、行きがけの駄賃で人類救済が成し遂げられる人類補完計画は、ゲンドウの願いと思想を一挙に満たせる千載一遇のチャンスだったのだ。

 

この一連の考えの中に、人類に対する悪意は一切ない。

 

計画の過程で多少の死者が出るが、それは使徒の迎撃失敗に伴う人類絶滅の破局に比べれば些細な犠牲である。

 

使徒撃退に伴うニアサードで多くの人々がエヴァインフィニティに成ってしまったが、それも本質的には死ではなく、人類統合への過程であり、ゲンドウの認識では犠牲者には勘定されず、後に約束された救済の恩恵の享受者と見なされる。

 

多感でナイーブなゲンドウは幼少期より他者との関係性の中で傷つき消耗してきたが、だからといって他者の排除や攻撃に傾倒しなかった。

 

ひたすら耐え、理解不能に苦しみ、「知識と本とピアノ」に逃げこんだだけだ。

 

彼の中に憎悪や悪意は存在せず、全ては善意に基づいて実行されたのだ。

 

ただ、彼が考える幸福は、「苦しみや悲しみが無いこと」であり、「喜びや楽しみがあること」ではなかった。

 

確かに他者との差異は「貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみも」生み出す元凶であるが、同時に喜びと楽しみの源泉でもある。

 

哀しいことに、ゲンドウは差異から湧きいずる喜びと楽しみを、ユイとの交流からしか得られず、過小評価するに至った。

 

それゆえ、その他の人々にも、自身が長年苦しめられてきた差異から生じる苦痛を投影し、その解消を実現する人類補完計画の重要度を過大に評価し、固執してしまった。

 

ゲンドウは並外れて理性的で合理的で優秀な人間であり、この世の不幸の元凶を的確に捉え、普遍的な方法での恒久的解決を選択する。

 

だが、理性的で合理的で優秀であるがゆえに、その解決方法はどうしても抽象的になってしまい、更には不幸の元凶を捉えたものの、同時に存在する幸福の源泉に気づけなかったため、その解決方法は個々の事情を斟酌しない非常に雑で一般の感覚からすると賛同を得られないものになってしまった。

 

デメリットの解消を優先するあまり、メリットまで台無しにしてしまった。

 

そのあたりがゲンドウとヴィレの確執の原因である。

 

ヴィレからすれば、ゲンドウは人類に喜びを与えるメリットの消滅を目論み、同胞を大勢殺し、あるいは真っ赤っかの首無し巨人に変貌させた怨敵であるが、ゲンドウからすれば、ヴィレは人類を苦しめるデメリットの解消を企図した一大プロジェクトを妨害する邪魔者に映る。

 

世界の捉え方の相違が対立を決定的にしたが、ゲンドウは徹頭徹尾、善意で行動していたし、ゲンドウが居なければとっくの昔に人類は使徒に殲滅されていたことを踏まえると、人類救済の最大の功労者でもあり、敵役ではあっても悪役には程遠い、作中屈指の無私にして善良な人間となる。

 

ヴィレの面々からさんざんなじられ否定され挙句お気に入りのサングラスと脳みそを問答無用でぶち抜かれ、マイナス宇宙にまで来て息子からは「やめてよ父さん」と言われながらカシウスの槍で散々つつかれる様を見るのは、ゲンドウの「良かれと思ってやってるのに」という心情を察すると、ちょっと可哀そうだった。

 

そんなゲンドウも最後の最後には最終目標だったユイとの再会を果たし、息子とも和解できたから本当にほっとした。

 

作中では、ゲンドウの智謀に感嘆する描写はあっても、その功績が称えられる描写は無かったので、僭越ながらここでは賞賛したい。

 

碇ユイ

次に碇ユイである。

 

人類救済のエースがゲンドウなら、MVPはユイである。

 

まずもって使徒に対抗し、人類補完計画の要となるエヴァの開発に成功したことが大きい。

 

そして、自らエヴァに取り込まれたのも、結果からすると意図的だったのだろう。

 

このときのために

ずっと僕の中にいたんだね

母さん

(作中より抜粋)

 

シンジのこのセリフから察するに、あのクライマックスに至る全ての成り行きをエヴァ建造の時点で予見し、最後の最後、シンジの献身の身代わりになるために何十年もエヴァの中でスタンバっていたことを考慮すると、彼女の先見性と忍耐力の凄まじさ、そしてその礎となる家族への愛の深さがうかがえる。

 

本作では、エヴァの世界がループする宇宙であることが明示された。

 

一部の登場人物は過去のループを記憶し、事の成り行きをある程度予知できていたようなので、ユイが描いた完璧な絵図面もそのループがもたらす前情報に基づいていたのかもしれない。

 

結果として、ゲンドウとシンジはユイの掌の上で踊らされ、ネルフやヴィレ、全人類はそのバックダンサーとしていいように振り回された感がある。

 

それもまた悪意があったわけではなく、限定された選択肢の中から最善手を選択した結果だった。

 

自身の喪失によって、ゲンドウを使徒撃退と人類補完計画の完遂に駆り立て、同時にエヴァの中に潜み、来るゴルゴダオブジェクトでの世界書き換えに伴う息子の自己犠牲を阻止する、これもまた一石二鳥の効果を狙って、ユイは捨て身でエヴァ初号機にダイレクトエントリーした。

 

ユイとの再会という極上のエサが無ければ、コミュ障で根暗なゲンドウがネルフという大組織の司令官となり、且つ人類補完計画という、ゼーレのような訳の分からないお偉方をはじめとする大勢の人間や部署との数多の折衝が付随し、途方もない気苦労が容易に想像できる未曽有の大規模プロジェクトに熱心に参画するはずもない。

 

ユイの喪失は、ゲンドウという優秀な人材を人類補完計画に取り込むために必要不可欠の過程だった。

 

ゲンドウからしてみれば、確信犯的に彼を最も苦手とする状況に嵌めたユイは、なんとも酷い妻であり、世が世なら立派なDVである。

 

だが、それもこれも息子のため(ついでに夫の性格矯正のため)だったとすれば、合点がいく。

 

ユイは、シンジの幸せを願っていた。

 

そのためには当然、使徒の勝利に伴う人類絶滅など絶対あってはならないし、人類補完計画の完遂や、その過程の「浄化」によって荒れ果てる地球環境も、シンジの幸せを実現する舞台としてはふさわしくない。

 

幾度もの「浄化」を経て荒廃した地球と、エヴァインフィニティと化した人類を正常化し、シンジが何のしがらみもなくのびのびと暮らせる世界を再構築するには、ゴルゴダオブジェクトで世界を書き換えるしかないのだが、皮肉にも、ゴルゴダオブジェクトに至るには、正規の人類補完計画を完遂したうえで、多くの犠牲を伴うアディショナルインパクトを起こす過程を経なければならず、一時的な事態の悪化は回避不能だった。

 

そして、エヴァ初号機を諸々の重要現象のトリガーとするには、その制御系に自身を取り込ませ、そうした以上、特別な絆で結ばれた息子であるシンジをパイロットに据えざるをえない。

 

そもそもユイほどの重要人物がエヴァ初号機にダイレクトエントリーする捨て駒になる必要があったのか?

 

他の適当な誰かを身代わりに立てて、自分は人類補完計画の指揮に専念していれば、コミュ障の夫を伏魔殿のような秘密結社傘下の秘密軍事組織に放り込まず、あまつさえ人間を捨てさせずに済み、父親似でちょっとナイーブな息子もただの音楽好きの少年として、父親を槍でつつかずに平穏無事に青春を送れていたはずだ。

 

作中の描写を見る限りユイという女性は、あの人間嫌いを極めたゲンドウすら瞬く間に虜にし、ゼミのお堅い教授を篭絡して夫のお目付け役を30年以上に渡り担わせ、飛び級の天才である乳の大きいいい女をマイナス宇宙の果てで数十年後に孤立する予定の息子を迎えに行かせる送迎役に仕立て上げるという、巨大宗教の教祖もかくやの出鱈目なカリスマと、余人の及びもつかぬ智謀と知性を兼ね備える、何でもありの才女だったようだから、他の人間がエヴァと同化する身代わりになってくれたのなら、子育ての傍ら、パートタイムでネルフ司令と人類補完計画の指揮ぐらいは難なくこなしていたに違いない。

 

それでもユイがエヴァに同化したのは、ユイ以上に人類補完計画やその最重要の要素であるエヴァについて知悉し、ダイレクトエントリー後に十全に役目を果たせる人材が他に居なかったからか、それとも、エヴァを用いた人類補完計画の発案者の一人として、死に等しい役目を赤の他人に押し付けるのが忍びなかったからなのかは分からない。

 

いずれにしろ、使徒の襲来や人類補完計画など一連の出来事はユイの喪失を招き、要を失いコミュ障だけが残された碇家をめちゃくちゃにしたのである。

 

だが、ユイはただの被害者や、人類救済の人柱では終わらなかった。

 

この過酷極まりない状況を逆手にとって、世界の救済はもちろん、自分の不在と人類補完計画によってこじれた夫と息子の仲を取り持ち、二人の精神的成長を助け、家族関係の修復に利用したのである。

 

ゲンドウが一石三鳥で人類補完計画を利用したように、ユイもまた一石三鳥で人類補完計画を利用したのだ。

 

全人類の命運を手玉に取り、家族関係の修復に流用する、尋常ならざる抜け目なさはさすがに似たもの夫婦である。

 

マイナス宇宙の深奥に鎮座する世界改変装置ゴルゴダオブジェクトは、ユイのお膳立てもあって、父子喧嘩のリング兼家族会議の場となり、体当たりの対話を経て、ついにゲンドウとシンジは和解する。

 

口下手な上に寡黙で内向的な二人が、互いの入り組みこじれた心情を十分に曝しあい、正面から向き合える場など、想いが現象化するマイナス宇宙のゴルゴダオブジェクトを措いて他にない。

 

ユイの底知れなさを考慮に入れると、夫と息子が和解するために最適な会場となるゴルゴダオブジェクトへ至るために、人類補完計画をはじめとする一連の騒動を先導し、人類の救済の方が行きがけの駄賃だった可能性すらありうる。

 

ミクロとマクロの重要性が転倒しているあたりも、ユイとゲンドウは似たもの夫婦といえよう。

 

人類救済のMVPは間違いなくユイで決定だが、それは彼女からすれば副賞に過ぎず、夫と息子の和解、そして息子のループからの解放が何よりの成果だったに違いない。

 

ループ

というわけで、次に取り上げるのはループである。

 

ループという設定は、過去のTVシリーズや旧劇場版、そしてその他、数多作られたメディアミックス作品の全てを見事に統合する秀逸な離れ業だ。

 

四分五裂し散逸し整合性を失って収拾がつかなくなっていた関連作品すべての質量が一点に結集し、エヴァンゲリオンという作品全体に含まれるの総力の統率が取れたことで、作品の重みが特異点を突破し、何段階も次元を高める効果を発揮している。

 

そうしたストーリー上の利点もさることながら、エヴァンゲリオンという作品に込められたたテーマの核心を象徴する設定としても、重要な機能を果たしている。

 

 エヴァという作品が、総監督である庵野秀明氏の心情を反映した非常に私的な作品であることはつとに知られている。

 

庵野氏は、人間関係に対する煩悶をエヴァに投影する。

 

各キャラクターは、庵野氏の激しく移り変わる心情や人格の多様な側面を分割し、誇張し、肉付けして、一個の人格として独立させた存在であり、更にそれぞれのキャラクター自身も単純とは程遠いジレンマや他者との関係性に悩み苦しむという、錯綜した入れ子構造からなる群像劇を構成する。

 

自身の精神を自らの手で解剖し分類し標本化し、綺麗に飾り立てて公衆の面前に曝すという一連の行程が、一人の人間である庵野氏にとってどのような意味を持つのか、鈍感で暢気な私のような人間の想像には余りある。

 

とはいえ、TVシリーズに加え旧劇場版、そして新劇場版と、何度もエヴァという作品を作り直し、それぞれに新しい筋書きと結末を与えた理由としては、単純な不満、不完全燃焼感、納得のいかない感覚があったと推察しても、あながち的外れではないだろう。

 

既に結末を迎えた作品を、最初に戻って新たに何度も焼き直す、これはまさに繰り返しのループだ。

 

本作のテーマの一つであり、結果としてシリーズ全体を貫く真髄ともなったループ構造だが、それは単なる繰り返しや焼き直しの謂いではない。

 

概念としては、仏教における輪廻転生の方がしっくりくるだろう。

 

ループが単なる繰り返しであるのに対し、輪廻転生は、繰り返しからの脱出(解脱)を前提とした試行錯誤である。

 

死んだ人間は生前の所業に応じて、六つの道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のいずれかに転生し、そこでまた修業を積み、いつか解脱の境地へ至るという考え方だ。

 

大事なことは、この輪廻の輪の中にいる限り、人間は真の幸福には到達できない点にある。

 

六道のうち、天上界は幸福に満ちた世界であり、一見極楽に等しい喜ばしい境遇のように思えるが、喜びは失われる可能性があり、そうなれば一転して不幸になってしまうので、これもまた人間が脱出すべき境遇の一つに数えられる。

 

一時的な喜びを含めた苦しみの輪廻からの解放への志向が、輪廻転生という考え方だ。

 

エヴァシリーズでは、使徒の襲来と人類補完計画の実行のセットが、同じようなメンバーで繰り返される。

 

使徒は撃退され(あるいは計画に利用され)、人類補完計画は毎回発動しているにも関わらず、生命の書に名を連ねる渚カヲルは記憶を引き継いだままセカンドインパクト後の世界に転生し、毎度毎度シンジの幸せを願いつつ首チョンパされて魂だけいいように弄ばされる。

 

中には使徒撃退に失敗し、あえなく人類が絶滅したループもあったのだろう。

 

つまり、苦しみからの恒久的な解脱を企図した人類補完計画は、『シン・エヴァンゲリオン』に至るまで全て失敗に終わり、振出しからやり直す羽目になっていたのだ。

 

TVシリーズの25・26話で発動した人類補完計画では、シンジは心象世界に引きこもり、内省を経て、自己完結したが、そこでの他者は単なる記憶の反芻、あるいはシミュレートに終始し、実在しておらず、究極的には単なる自己満足、自己暗示で終わる。

 

要するに人間関係の否定と現実逃避である。

 

旧劇場版の人類補完計画では、そこから一歩進み、他者が介在し、シンジは人類の統合を拒否して他者が存在する世界を選ぶ。

 

しかしそれは、他者が存在する世界を選んだだけで、他者の受容とはイコールではない。

 

事実、旧劇場版のラストで、シンジはアスカの首を絞めるという、明らかな攻撃に及び、「気持ち悪い」というありがたいお言葉を頂戴して終劇している。

 

そこには愛憎入り混じる複雑な想いがあったのだろうが、少なくとも前向きで肯定的な感情に起因する行動ではない。

 

TVシリーズのラストが現実逃避ならば、旧劇場版のラストは現実に向き合ったものの、それは現実の厳しさ・ままならなさを受け入れたということであって、穏やかではあっても、その穏やかさは失望に端を発する無力感に近しく、満足や幸福とは程遠い、ある種の諦観であった。

 

結局、旧劇場版も庵野氏の満足のいく結末とはならず、新劇場版の制作へと彼を駆り立てる。

 

新劇場版『序』『破』『Q』はほぼ一定の間隔で製作されたが、『シン・エヴァンゲリオン』は前作から9年もの時を隔てて公開に至る。

 

コロナ蔓延の影響を差し引いても、この遅延は群を抜いて長い。

 

制作の内情は窺い知れないが、そこには『シン・エヴァンゲリオン』の完成を遅らせる決定的な理由があったのだろう。

 

もしかすると、庵野氏は『Q』の時点で、このままでは旧劇場版の二の舞になると予感したのではないだろうか。

 

いや、二の舞どころか三の舞、四の舞、いやさ幾つの舞になっても満足できないと気付いたのかもしれない。

 

エヴァの世界が陥っているループという益体のない繰り返しと、自身の苦悩の解消を託したエヴァが、いくら作り直しても満足する作品にならない堂々巡りに陥った現実の状況が、そこでシンクロした。

 

ループを匂わせる描写が当初から新劇場版には仕込まれていたのだから、このシンクロした堂々巡り・苦悩の輪廻転生については既に気づいていたのかもしれないが、そこから解脱する肝心の方途を見出しあぐね、そのソリューションに至るまでにかかった時間が9年という長い年月だったのかもしれない。

 

『シン・エヴァンゲリオン』ラストの、シンジとマリが電車に乗らずに駅から飛び出し、現実の世界へ駆け出すシーンは、輪廻転生からの解脱をあまりに分かりやすく象徴するシーンだ。

 

旧劇場版でも、アニメと実写が交錯するシーンがあり、ファンへイマジネーション(アニメ・創作)からリアリティ(現実)への脱却を促す演出が衝撃的だったが、旧劇場版の衝撃がどこか拒絶的で、敵意や侮蔑を含んだショックを与えファンを追い出したのに対し、『シン・エヴァンゲリオン』のそれは前向きで明るく、素直な祝福を添えて送り出す形式をとっており、イマジネーションとリアリティが相反し排他する不倶戴天の仇同士ではなく、互いに不可欠な相補し合う世界であることを明示する。

 

ここに至り、ループも一概に悪いものではないという意味が与えられる。

 

解脱した状態に至るためには苦悩に満ちた輪廻転生のループの中で試行錯誤を繰り返し、苦悩について理解を深める行程が必要不可欠だった。

 

ここでも相補性の関係が当てはまる。

 

仮にTVシリーズも旧劇場版も、その他のメディアミックス作品も全くない状態で、新劇場版だけが唯一のエヴァ作品として提示されても、ここまで感慨深いものにはならなかっただろう。

 

うまくいかなかった過去を無かったことにして、心機一転、設定だけ流用して新劇場版を製作する道もあっただろうが、どんなにうまくいかず不満足な過去でも、満足する未来に到達する下準備や礎として不可欠な存在であったと認知し、より大きな文脈に組み込むことで、25年の労力を細大漏らさず全て結集した壮大な物語を成立させたのだ。

 

『シン・エヴァンゲリオン』というタイトルの最後に添えられた楽譜の反覆記号は更に意味深く、壮大な物語を無限に拡張する楽しみ方を提案する。

 

ループがただの繰り返しであり、輪廻転生が解脱を前提とした試行錯誤の繰り返しであるなら、リピートは繰り返しは繰り返しでも、音楽に込められた情感を効果的に高める演出としての繰り返しである。

 

この場合、繰り返しは否定的な苦行ではなく、作品の興趣を高め存分に味わう肯定的な反芻となる。

 

シンジとマリは駅から飛び出したが、駅というのは本来出入り自由な施設であり、望むなら何度でも入場し、周回や往復に戻るのも自由なのだ。

 

駅や電車の中に閉じ込められ、同じところをグルグルと回る堂々巡りを強制されるのなら、これは無間地獄以外の何物でもないが、随意に利用できるのなら、非常に有用な交通機関になる。

 

エヴァシリーズもまた、『シン・エヴァンゲリオン』という作品世界からの出入り自由を可能とした「駅」が設立されたことで、気兼ねなく何度も「リピート」して楽しめる作品群に昇華された。

 

どんなつらい過去でも、現在や未来が幸せなら、笑って話せる思い出になる。

 

エヴァシリーズは『シン・エヴァンゲリオン』のおかげで無間地獄の権化から、笑って話せる思い出になった。

 

それはファンにとっても、庵野氏にとっても、僥倖と言える。

 

生きることはつらいことと楽しいことの繰り返し

毎日が今日と同じでいいの

そういうもんでしょ?

(作中より抜粋)

 

劇中のヒカリの発言には、ループを肯定的に捉えられるようになった庵野氏の実感がこもっているのではないか。

 

あるいは、『シン・エヴァンゲリオン』もまた、解脱ではなく輪廻の途上にある、比較的苦痛の少ない段階に過ぎず、再び煩悶のループへ再突入する可能性を予期し、庵野氏は油断を戒める意味も込めて反覆記号を題名につけたのかもしれない。

 

いずれにしろ、ループや輪廻やリピートといった繰り返しに対する本質的な恐怖や拒否感の解消が、本作がもたらすカタルシスの一部を担っている。

 

エヴァンゲリオン

次にエヴァンゲリオンについてである。

 

ここでいうエヴァンゲリオンは、作品としてのエヴァではなく、具体的な機体として、あるいは舞台装置としてのエヴァである。

 

そもそもエヴァとは何だったのだろうか?

 

使徒を撃退する汎用人型決戦兵器であり、人類補完計画のトリガーでもある。

 

しかしてその実態は、なんだかよく分からない、正体不明の代物である。

 

開発の経緯は作中で分かっているが、それは単に作り方と素材が判明しているだけで、完成品がいったい何物なのかということを明らかにはしない。

 

劇中でも、稀代の科学者赤城リツ子をして、何度も「ありえない」と驚愕させる挙動を示し、最後の最後まで登場人物たちの想定を裏切る機能を発揮し続けた。

 

一歩間違えば何でもありの荒唐無稽なデウス・エクス・マキナ的存在に成り果て、視聴者を興醒めさせる存在になりかねなかった。

 

作品の題名に掲げられる象徴的存在であり、常に物語の中心にあり続けたエヴァンゲリオンだが、最後の最後に「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」という別れの言葉とともに、ガイウスの槍に貫かれ、全宇宙から存在を抹消されてしまう。

 

正体が分からないまま、存在を無かったことにされてしまう、エヴァンゲリオンとは何だったのか。

 

恐らく、何物でもなかった。

 

使徒と戦うため、そして人類補完計画のために、エヴァは不可欠な存在として、作品の中心に君臨してきた。

 

エヴァが無ければ、人類は使徒に打ち克てなかったし、人類補完計画を発動して統合に至ることもできなかった。

 

だが結局、エヴァによってもたらされた使徒との闘争の勝利も、エヴァによって成し遂げられた人類補完計画も、ループを終焉させられなかった。

 

一方、エヴァが抹消された『シン・エヴァンゲリオン』では、ついにループが解消されることになる。

 

こう書くと、エヴァこそがループの元凶のように思える。

 

事実そうだったのだろう。

 

エヴァシリーズという作品の魅力の一つに、エヴァの正体を探る楽しみがある。

 

エヴァとは何なのか」というのは最後まで明らかにされなかった。

 

謎めいた作品の謎の中心に位置するのがエヴァンゲリオンであり、数ある謎も、元をたどれば何かしらエヴァと紐づけられており、エヴァが何物かが判明すれば芋づる式に全て氷解するのではという気さえする。

 

だが、結局エヴァは曖昧模糊な存在のまま、抹消される。

 

だが、その曖昧模糊というアイデンティティこそが、エヴァの正体なのだ。

 

エヴァが何物かというと、「何物でもない物」、つまりそもそも存在しない物だったのだ。

 

シンジは(そして庵野氏は)、最後の最後にそれに気づいた。

 

それゆえに、エヴァを全て抹消した。

 

エヴァは、対使徒の最終兵器として、そして人類補完計画のトリガーとして、人類がすがる希望の象徴である。

 

エヴァさえあれば、全ての問題が解決するというのが、作品世界内の共通認識となっている(あるいは、裏を返せばエヴァが無ければ何も解決しない)。

 

エヴァというのは、希望の謂いである。

 

だがそれは具体性のない希望である。

 

銀の弾丸や魔法の杖で例えられる、「これさえあれば何もかも解決する」という「これ」に当たるのがエヴァなのだ。

 

それは庵野氏自身が求めていたものだ。

 

彼が抱える様々な煩悶に答えを与え、苦痛を解消する特効薬的な「何か」を、作品内で象徴するのがエヴァンゲリオンという存在だった。

 

作品としてのエヴァシリーズは、エヴァとは何か、つまり希望の正体を明らかにする探求の道程とも読み替えられる。

 

だが結局、そんなものは無かった。

 

現実世界には、全ての問題、特に人間関係の悩みを一挙に解決して丸く収めるデウス・エクス・マキナのような都合のいい存在は無い。

 

そんなものを探し求めたり、創り出そうといくら努力したところで、ありもしない物である以上、いかなる営為も徒労に過ぎない。

 

何度試行錯誤を繰り返したところで、そもそも存在しないゴールを目指していては、全て無駄なのだ。

 

ありもしない希望の実現を目指す、果てのない試行錯誤こそ、作中世界におけるループの原因であり、現実世界においては、庵野氏が何度もエヴァを作り直さざるを得なかった堂々巡りの原因でもある。

 

エヴァの正体は、単に調べが足らなくて分からないのではなく、そもそもこの世に存在しないものの化身だから分からないのだ。

 

人には常に”希望”という光が与えられている

だが希望という病にすがり溺れるのも人の常だ

私も碇も希望という病にしがみつき過ぎているな

(作中より抜粋)

 

冬月副指令のこの言葉が、作中世界の人間や、庵野氏が25年間迷い込んだ、エヴァという「希望」の陥穽に対する訓戒となっている。

 

「希望」は使徒を撃退する力をもたらし、人類補完計画を発動するカギとなった。

 

だが、元来存在しない物であるがゆえに、望む結末は決して訪れない。

 

ありもしない完璧な解決策を求め続ける怠惰な心根が、リアリティとの真摯な交流を忌避し、何度も何度も繰り返しに逃げ込む原動力となってしまう。

 

人を腐らせ停滞させる「希望=エヴァ」の抹消が、シンジたちを、そして庵野氏を苦悶の堂々巡りから解脱させる、唯一の道となった。

 

人が人を受け入れるために、エヴァという触媒で発動する人類補完計画など必要ない。

 

ゲンドウがゴルゴダオブジェクトの中でついにユイを見出したのは、妻の喪失という辛い現実の受容や、人間関係を構築するための地道な努力や忍耐をハナから拒絶し、エヴァ人類補完計画というとんでもプロジェクトに救いを求めて楽な道に逃げ込んだ、自分の弱さを認めた瞬間だった。

 

ここで見つけたユイというのは、エヴァに溶け込んだユイの実体そのものではなく、ユイがもたらした心の平穏を指す。

 

自分と同質の欠点を抱えながら、他者を愛し優しさを示せる、ユイのような度量の広さと強い精神を獲得したシンジを目の当たりにし、ゲンドウは自分がしてきたことが的外れだったことに気づいた。

 

「逃げちゃだめだ」ったのは、実はシンジではなく、ゲンドウの方だったのである。

 

親子関係から逃げ出したのは、ゲンドウの方が先だった。

 

そういった意味で、「逃げちゃだめだ」というセリフを、シンジは自分にではなく父親にこそぶつけるべきだったのだ。

 

ゲンドウが目を背けてきたもの、避けてきたもの、拒絶したものの中にこそ、ユイが遺した大切なものが全て揃っていたのだ。

 

エヴァは最初から不要だったのである。

 

エヴァの抹消により、エヴァインフィニティと化していた人々は、画一のCGの首無し女体を経て、それぞれの個性を持つ一個の人間のアイデンティティと頭を取り戻し、地上へと帰っていく。

 

抽象的な希望=エヴァから解放され、煩瑣な個々の事情に即した地道な問題解決の努力へ取り組む一個の人間として、地に足のついた日常生活へと回帰したのだ。

 

本作の鑑賞後に、妙にすっきりした爽快感に満たされるのは、エヴァの抹消によるところが大きい。

 

本文の冒頭で、エヴァの楽しみの一つに、考察があると書いたが、これは同時に苦しみでもある。

 

考察しなければという衝動は、裏を返せば気掛かりでしょうがない疑問を解消したいというストレス反応に他ならない。

 

だが、本作でエヴァが不要な存在として抹消されたことで、考察の衝動は雲散霧消した。

 

もちろん、エヴァの正体についてはいくらでも考察可能な作り込まれた設定があるのだが、本編が「エヴァなんて要らなかった」と宣言した以上、エヴァの本質は無意味な存在だったというのが結論になる。

 

いくら奥深く緻密な設定が込められているものであっても、その本質が無意味な存在について考えるのは、結局無意味な徒労だ。

 

せいぜいが、暇つぶしの役に立つくらいが関の山だ。

 

でも、それでいい。

 

良くも悪くも、ファンも庵野氏も、エヴァに対し真剣になり過ぎた。

 

本来娯楽であったり、自己表現の手段であった作品が、人生観を大きく左右するだけならまだしも、多大な時間と労力を搾取し、人心を搔き乱す悪徳宗教のドグマみたいになってしまった。

 

娯楽で苦しむなんて、どう考えても理不尽だ。

 

エヴァの本質が無意味だったと判明したことで、考察を駆り立てる衝動は消え去り、ファンたちも庵野氏も自由になった。

 

考察をする自由もあるし、別にしなくても何の問題もなく『エヴァンゲリオン』を楽しめる。

 

『シン・エヴァンゲリオン』を見て、エヴァが無意味な代物だと知った後であれば、シリーズのどこかを見て、「このシーンの意味は何だ?」と気になっても、それで思い悩むほどの苦しみを味わわなくて済む。

 

だって、エヴァというものは、どうせ無意味で不要な代物として跡形もなく棄却される存在なのだから。

 

もう、「何物でもない物」に振り回される25年は、笑って話せる過去になった。

 

エヴァ自体が無意味に帰したことで、「エヴァの呪縛」から、作中の登場人物だけでなく、現実のファンたちも、そして庵野氏も解放された。

 

それぞれがそれぞれの人生を心置きなく歩めるようになった。

 

もちろん、「あの駅」からループを再訪し、エヴァの世界を気ままに覗き見て英気を養うのも自由だ。

 

長年多くの人々を縛り付けてきたエヴァというものが、無用の長物だったと証明されただけでも、本作は100点満点以上の出来と言える。

 

今となっては、「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」というPVのキャッチコピーが、まさに本作の本質を過不足なく表明していたとわかる。

 

鑑賞後、自分もまた、「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」という気持ちになった。

 

この「さようなら」も感慨深い。

 

本作では「おまじない」とか「言霊」といった、呪術的な意味合いを匂わせる用語がちょくちょく顔を出すが、そういった呪術的な要素のせいで、本作は、エヴァを無用の代物と断じ、決別する「供養」の儀式じみた雰囲気を醸し出している。

 

アヤナミレイ(仮称)とヒカリとのあどけないやり取りを通じ、視聴者は本作における「さようなら」という言葉の定義や込められた意味を予習し、アヤナミレイ(仮称)の消滅によってその重みを実感し、いよいよラストのエヴァとの決別で、折り目を正して、ちゃんと「さようなら」を告げることができる。

 

一連の物語に織り込まれた丁寧なレクチャーが無かったら、シンジがエヴァに告げた「さようなら」という言葉に、これほどシンクロできなかったかもしれない。

 

この辺りも本作が親切設計と言える所以である。

 

なんにしても、エヴァと後腐れなく決別し、いい友達のような間柄になれたのは本当に良かった。

 

一番の懸念材料であったエヴァの本質が明らかになったので、感無量である。

 

終わりに

大きなトピックについては粗方吐き出したいことは吐き出したので、だいぶすっきりした。

 

エヴァシリーズについては、ファンの数だけ解釈が分かれ、同好の士を相手にすると、相手にも必ず一家言あるので、自分の好き勝手な解釈を気が済むまで一方的にまくしたてるというのはなかなかできない。

 

かといって頭の中で解釈の渦潮を好きにさせておくのも騒がしくて落ち着かない。

 

言葉や文字にして吐き出せば、考えや気持ちの整理もついていくらか気も晴れようが、独り言や日記にしたためるだけでは不毛で物寂しい。

 

こういう時に、ブログという公に開かれた表現媒体があるのは本当に助かる。

 

たとえ結果として他人の目に触れずとも、その可能性があるというだけで、わざわざ時間を使ってだらしない長文を書き綴った甲斐がある。

 

まさか生きているうちに完結編を拝めると思っていなかった作品に、このような大団円が用意されようとは、長生きはしてみるものである。

 

「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」と言いつつ、Amazon Prime Videoで何度も繰り返し飽きもせず観直している。

 

だが今度のループには、切迫感や焦燥感は無く、ただただ無垢な喜びだけがある。

 

本当にいい作品に出遭えたと、心の底から思える名作。

 

余談

消滅を覚悟したアヤナミレイ(仮称)が、別れの書置きとともに丁寧に畳んで置いて行った制服の上に鎮座する下着にドキドキしたのは内緒。

 

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俺たちの(社会的な)戦いはこれからだ!

 

本『ロボット兵士の戦争』

どんな本?

近年進歩の著しいロボット兵士の実態と、ロボット兵士が戦争の形式のみならず、人類社会全体にもたらす広範な影響を網羅的に概説する。

 

感想

武器は人類史とともに倦まず弛まず改良(あるいは犠牲者の拡大を考慮すると改悪)されてきた。

 

より安全に、より一方的に敵や獲物を殺せるよう凝らされた工夫の数々は枚挙にいとまがなく、開発されたテクノロジーは日常生活へも溢流し、科学の発展を強力に推進する重要な原動力の一部を担ってすらいる。

 

人類は長年、自分の命は一切危険にさらさず、敵の命を確実に奪う武器を夢に見て、その具現化に心血を注ぎ、そしてそれ以上に血を流した。

 

ロボット兵士は人類が夢見た武器の完成形ではないが、「自分の命は一切危険にさらさず」という理想の半分に当たる部分を満たしており、これまでに人類が実用化した武器とは一線を画する水準に達し、既に世界中の戦場で、地を這い空を舞い海を渡り電子回路網を縦横無尽に疾駆している。

 

ロボット兵士というと、ターミネーターみたいな自律行動可能な高度なAI(人工知能)を備えた人型ロボットを想像するが、実際は形状も機能も役割も多種多彩で、ガンタンクの子供みたいなラジコン戦車から、戦術策定を支援するネットワークシステムまで、その概念が包含する領域は幅広く、カンブリア爆発もかくやの百花繚乱の様相を呈す。

 

本書が本文だけでも600ページを優に越す大著である理由の一つには、ロボット兵士という一見シンプルな概念が包含する膨大な種類の製品の概要を、基本的なスペックのみならず、使用の実態まで入念にリサーチしてリポートしているからだ。

 

本書の解説を参照すると、これでもロボット兵士の全容からすれば、「ほとんど分からない」と評さざるを得ないほど、皮相の説明に留まっているらしいが、製造企業の担当者のみならず、顧客である将校や、現地で運用する末端の兵士にまでインタビューを敢行し、マニュアルだけでは分からない、戦場におけるロボット兵士のリアルな在り様を浮き彫りにしたリサーチ方針は、単純な情報量の多寡では表現しえない、生々しい迫力を文面に与えている。

 

本書は二部構成で、ロボット兵士の概説が前置きとなる一部を成し、いよいよ二部が本領となる。

 

二部では、およそ考えつくあらゆる領域について、ロボット兵士の戦争への導入が具体的にどのような影響を及ぼすのか、安全保障の専門家たる著者一流の視点で調査と考察を推し進める。

 

とはいえ、正直なところ読んでみて内容が頭に入ってこなかった。

 

情報量が圧倒的に多く、私のロースペックな脳みそではまともに処理できなかったというのが最大の理由だ。

 

文体は平明で章立ては秩序立ち、文献やインタビューからの引用を効果的に差し挟み、ともすれば複雑かつ凄惨になりがちな題材の触感を和らげ、理解を助ける工夫が随所に盛り込まれており、部分部分に注目する分には、決してとっつきにくいわけでも難解なわけでもない。

 

にも関わらず読後の内容想起を阻むのは、あまりに議論が多方面に展開し、まとまりを欠くからだ。

 

これは著者の文章力や構成力の問題ではなく、ロボット兵士という、あまりに広範囲に影響を及ぼす超巨大なムーブメントの性質によるところが大きい。

 

軍事的な側面はもちろん、社会、政治、経済、産業、医療、心理、地政、歴史、文芸、科学、宗教、法律、倫理、哲学……挙げていけばキリがない領域に、ロボット兵士は深刻な影響を及ぼし、避けがたい変革を強制する。

 

「軍事における革命(RMA=revolution in military)」という言葉が、ロボット兵士がもたらす影響の大きさを象徴する言葉として頻繁に引き合いに出され、本書の主題を成すが、実際の革命は、「軍事における」という限定に収まらず、広範な領域に及び、むしろ革命されずに済む分野など皆無といってもいいくらいだ。

 

戦争が忌避されるのは、膨大な可能性に満ちた人命や貴重な資源があたら無闇に消費され、生存者にも多大な苦痛を強いるからだ。

 

人類はいまだに問題解決の手段として手っ取り早い暴力行使や戦争の魅力に打ち克てないでいるが、それでも戦争を回避しようと努力し、曲がりなりにもそのうちのいくつかが成功し、決定的な破局に至っていないのは、上記のようなデメリットに対する恐怖がブレーキになっているからだ。

 

ロボット兵士は、このデメリットを戦争から完全に除去する夢のテクノロジーとして大いに期待され、実際に巨大な費用と人材の投資を受けている。

 

だが、夢は夢でも悪夢になりうるかもしれないと、著者は懸念する。

 

人を殺そうとすれば、反撃を受けて殺される可能性があるから、人は争いを躊躇する。

 

だが、ロボット兵士が殺人を代行し、反撃で殺される可能性が無いなら、争いを躊躇する理由は消失する。

 

ロボット兵士の進化は、戦争から恐怖のブレーキを外し、一層の拡大を招くのだ。

 

自分が傷つく可能性が小さければ、人がどれだけ好戦的で残虐になれるのか、小は児童虐待から大は歴史上の大虐殺まで、証拠には事欠かない。

 

映画『ターミネーター』シリーズでは、自我を持つに至った軍用AIのスカイネットが暴走し、ターミネーターの大群を従え、人類を絶滅寸前にまで追い込むが、そこまで高度なAIの登場を待つまでもなく、ラジコンに毛が生えた程度のロボット兵士でも、際限のない軍拡の当然の末路として、人類は破滅の危機に直面するだろう。

 

また、自己改造が可能となったAIの無限進化ループ突入の可能性、いわゆるシンギュラリティが人工知能の研究分野で取り沙汰され、予測不能となる危険性を問題視する向きがあるが、そこに戦争が便乗するのなら、その危険性はいよいよ現実味を帯びる。

 

これらは本書が取り上げた、ロボット兵士がもたらす数多くの危険性の中でも、最も単純で予想も簡単なものの一つに過ぎない。

 

著者は膨大な資料を駆使し、深い考察を添え、来りうる数多のRMAの輪郭を明瞭にして読者に提示してくれるが、RMAの本質は米政府が著明な科学者の助けを借りて結論付けたように不確実性にあり、どれだけ想像力を逞しくしても不測の事態は避けようがない。

 

本書が取り上げた様々な懸念が単なる杞憂で、現在盛んに研究・生産されているロボット兵士が数年後には埋め立て地のゴミの山と化すか、それとも無数のロボット兵士だけが地上を徘徊する人類が絶滅した地球で終わるか、それは誰にも分らない。

 

終わりに

本書の初版は2009年に刊行された。

 

つまり、本書の内容は少なくとも10年以上前の話となる。

 

半導体チップの処理速度が年々倍増していくムーアの法則を考慮すると、当時よりロボット兵士の性能は格段に向上しているのだろう。

 

そして、ロボット兵士を取り巻く環境もまた、その進化の影響を受けて激変しているに違いなく、その変化の度合いは今後も激化の一途を辿りこそすれ、緩みはしなさそうだ。

 

ロボットのAIにはムーアの法則が適用されるかもしれないが、人間の脳みそにはムーアの法則は適用されず、数百万年前にアフリカの平原で実用化されたモデルがいまだに現役であり、今後もAIの進化の速度には追い付けそうもない。

 

アーバンカモ柄のドラえもんにM16で蜂の巣にされる未来が訪れないことを祈りたくなる一冊。

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来りうる未来

 

鎌北湖に来たこ


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You Tubeがオススメする近所の心霊スポットに懲りずに出掛ける。

 

今度は鎌北湖。

 

何やらいわくが色々あるようだが、怖いので詳細は確認せず、更に訪問を日中にする盤石の二段構えで臨む。

 

一時間も掛からずに着いてみれば、ちらほら人出があり、のどかな雰囲気。

 

とは言うものの、湖には水が無く、湖畔には威容を誇る廃墟がそびえ、駐車場にはやたらリアルな銅像が並ぶ猟犬を弔う碑があり、それなりに心霊スポットらしき面目は保っている。

 

だが何より怖いのは、湖を囲むガードレールのガードがユルユルな点。

 

ガードレールの間が大人でもゆうに通り抜けられる程の幅で開いており、その先は大抵切り立った崖になり、露わになっている湖底まで急転直下の危険地形になっている。

 

そんな場所が何箇所もあり、別の意味で暗くなる時間帯には近づきたくない場所だった。

 

帰り道、山間から望む空に、縁起が良さげな白蛇だか龍の姿をした雲を見かけ、得した気分。

 

今回は準備運動をしてから鎌北湖へ至る坂道を登ったので脚が重くならずに済んだ。

You Tubeオススメ心霊スポット


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You Tubeがオススメしてくる動画の中に、有名な心霊スポットを各都道府県別にまとめたシリーズがあり、その埼玉県版を見たら、その中の一つが思いのほか近所にあったのでサイクリングしてきた。

 

場所は笛吹峠。

 

折しも台風が関東に接近し風雲急を告げる空模様が雰囲気を醸し出す。

 

雲間からそそぐ日差しでも肌を焦がす尋常ならざる熱暑ながら、笛吹峠に差し掛かると何やら涼しい。

 

すわ心霊現象か……あるいはいい感じの樹林が日差しを遮ってくれたせいか定かではないが、気持ちいいのは確か。

 

峠を登ると脚が重い。

 

すわ心霊現象か……あるいは準備運動無しでペース配分も考えず重めのギアで坂道を駆け上ったせいか定かではないが、それなりに疲れたのは確か。

 

霊感が無いのではっきりとした心霊現象は確認できなかったが、すぐに行ける避暑地としては手頃。

 

むしろインパクトが強かったのは、峠を越えて下った麓にある寺院。

 

撮影禁止だったので写真はないが、数百はくだらない数の大小様々な観音様や地蔵、そして見目良く飾り立てられたいくつもの伽藍が所狭しと密集する境内は、そこらのテーマパークより見応えがあり、ともすれば敬虔な気分を通り越して圧倒される。

 

雨の予報を警戒してざっと眺めて鐘撞きをしただけで引き上げたが、一度行ったくらいでは全然満喫できず、再訪を心に誓う。

なんとなく胸を打つ風景


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仕事帰りに通りかかった河原沿いの遊歩道で出遭った夕日。

 

なんとなく胸を打たれる風景。

 

思い返せばなんとなく胸を打たれてばかりの半生だった。

 

映画『JOKER』

 

 

どんな映画?

DCコミックスの看板作品であるバットマンシリーズで敵役を務める人気ヴィラン、JOKERの誕生までの経緯を、多くの人々を苛む種々の社会問題を背景にして描くサイコスリラー。

 

感想

映画自体がJOKER一流の非常に悪質なジョークになっている。

 

現代社会で生きる誰もが無視できない深刻な社会問題をメインテーマとして背骨に据え、JOKERという屈指の人気ヴィランをシンボリックな主役に配し、多様な解釈を許容する秀逸なシナリオと構成で肉付けした本作は、一分の隙も無い出色の出来で、多くの人々を魅了し、あるいは挑発し心をかき乱す話題作である。

 

無制限に暴走する資本主義の庇護の下、ごく少数の強者が価値あるものを独占し囲い込み、大多数の弱者がわずかな残り物を奪い合う弱肉強食の摂理が地球の果てまで行き渡った残酷な世界では、貧困や障害や人種や性別や宗教や階級や教育や居住地やetc……といったハンディキャップを抱え社会の援助も十分に得られない人々が、苦界から脱する方策は皆無に等しく、不安に苛まれ、鬱憤を溜め込み、声なき怨嗟を募らせる一途をたどる。

 

本作のJOKERは単なる悪役ではなく、そんな大多数の弱者たちの声なき声の代弁者としてアイコニックに描かれ、弱者を虐げ恬として綺麗ごとを嘯く社会の強者たちに一矢を報い、弱者たちが反逆の狼煙を上げ蜂起する嚆矢となる。

 

JOKERの前身であるうだつの上がらないピエロ、アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)のみじめで報われない境遇に身をつまされる、似たり寄ったりの苦境で呻吟する同士なら、調子に乗った大手証券会社の若手証券マンや、友人面する一方でいざとなればアーサーを裏切り平気で陥れる小狡い同僚や、アーサーをTVの全国放送で見世物にするショービジネスの成功者、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)や、将来バットマンとなるブルースの父親の大富豪、トーマス・ウェインが、なすすべなく惨殺されるシーンに、不謹慎ながら胸がすく想いを抱いたはずだ(私がそうだった)。

 

嘲笑の的となるひ弱なピエロが、羨望の的となる盤石の強者を滅ぼすという誇張された逆襲の構図は、現実世界では到底あり得ない強きを挫く展開であるがゆえに、弱きを強烈に惹きつける。

 

JOKERの暴挙を皮切りに噴出する社会的弱者の鬱憤が、強者優位の秩序体系をずたずたにしていく一連の暴動が、精神病院に入院した一患者の妄想に過ぎないとしても、その妄想に、様々なハンディキャップにがんじがらめになり、にっちもさっちもいかなくなっている弱者を惹きつける抗いがたい魅力があるのは否定できない。

 

本作に感化され改めて理不尽な社会構造に問題意識を抱き義憤を募らせる人もいれば、刺激的な本作のメッセージに喚起された激情に衝き動かされていてもたってもいられなくなり、具体的な行動に移す人もいるだろう。

 

とるに足りない小虫の五分の魂が発する苔の一念が蟻の一穴を穿ち、不公平と理不尽で緊結した強固極まりない社会構造を決壊させる可能性が示唆されれば、誰もが苦境から抜け出し平等にチャンスが与えられる理想郷の実現に一縷の希望を抱かずにはいられない。

 

だがその一縷の希望こそ、本作が「JOKER一流の非常に悪質なジョーク」である所以である。

 

当たり前すぎてわざわざ言及するに値しない事実だが、『JOKER』は映画であり、映画は商品だ。

 

どれだけ秀逸で奥深い意義を含み、リアリティと芸術性に富み、人心を強烈に揺り動かすとしても、あくまで『JOKER』は映画という商品であり、本作を鑑賞するには、映画館に足を運ぶにしろ、DVDやBlu-rayなどの映像メディアを購入するにしろ、サブスクの配信サービスに加入するにしろ、必ず一定の金銭の支払いが要求される(海賊版や違法配信などは考慮しない)。

 

R指定の作品として過去最高の売り上げを記録したというから、本作は商業映画としては押しも押されぬ成功作に位置づけられる。

 

当然、売り上げに比例した利益も出ているだろう。

 

ではその利益を獲得するのは誰なのか?

 

皮肉なことに、本作でJOKERとその追随者たちが叛旗を掲げ立ち向かった、資本主義の申し子、社会的強者たちなのだ。

 

JOKERはバットマンシリーズの登場人物であり、バットマンシリーズはDCコミックスが出版するコミックの一つであり、DCコミックスはコミックブック業界で成功した押しも押されぬ大企業であり、つまり資本主義における社会的強者である。

 

『JOKER』の制作に携わり、その利益の相伴にあずかる企業や関係者はDCコミックスだけではないが、少なくとも『JOKER』から発生する様々な利益の一部を、社会的強者である大企業が享受するのは確かだ。

 

『JOKER』が批判し憎み目の敵にし破壊の対象とした社会的強者こそが、他でもない『JOKER』の産みの親であり、莫大な売り上げをたたき出した『JOKER』は、表向きにはドラ息子でありながら、実のところは親の懐を十二分に太らせる稀にみる孝行息子である。

 

『JOKER』の内容に共感し感化され触発される人の大多数は、社会的弱者に属するか、社会的弱者に同情的な人だろう。

 

栄達と零落が二極化する格差社会において、圧倒的多数を占める社会的弱者側の人気を博したことが、本作が図抜けた売り上げを達成した一因と考えても差し支えないだろう。

 

大抵の社会的弱者は十分に安定した経済的基盤に恵まれていないが、その吹けば飛ぶ脆弱な経済的基盤から搾り出したなけなしの金銭で『JOKER』を観るという行為こそ、哀しいことに、社会的弱者を虐げる資本主義社会を積極的に強化し、格差の拡大を応援する草の根レベルの自虐行為となるのだ。

 

本作でJOKERとなるアーサー・フレックなる人物は、およそ社会的弱者を弱者たらしめる主だったハンディキャップをあらかた網羅して煮詰めたキャラクターとして描かれる。

 

精神と身体に障害を負った独身の中年男性であり、里親にネグレクトと家庭内暴力を受けた児童虐待被害者の過去を持ち、親の介護に追われ、特別なスキルも職歴もなく、不安定なショービズ業界に属し、その末席からすら追放され無職となり貧窮し、頼る知己もなく、頼みの綱の社会福祉は打ち切られ、殺人の容疑者として警察にマークされ、途方に暮れている。

 

さらにそこへきて、黒人のシングルマザーを添えて補完する隙の無い構えである。

 

露骨なバーナム効果により、これだけの特徴を詰め込めばどれかがフックとなり、誰もがアーサー(と彼を取り巻く周辺の人間)に自分の境遇の一部か全部を重ね合わせ、共感や同情を覚えずにはいられない。

 

だが、実のところこんな人間は滅多にいない。

 

これらのハンディキャップのいずれか一部を有する人は大勢いるだろうが、アーサーほど多く持つ人間の数は当然ながら絞られる。

 

みじめな敗残者として描かれるのでそうとは認識しにくいが、アーサーはマイナス象限におけるありとあらゆる特徴を兼ね備えた、逆ベクトルに突き抜けた完璧超人なのだ。

 

創作物の人物造形には現実世界の制限は一切無いので、いくらでも恣意的な特徴を詰め込んだ「出来過ぎた人物」も簡単に作れる。

 

アーサーもまた、創作物の中でしかお目にかかれそうもない「出来過ぎた人物」である。

 

ホアキン・フェニックスの鬼気迫る怪演がリアリティを与えているが、アーサーは、特徴だけ羅列すれば、まさにコミックの登場人物に相応しい現実離れした質量の不幸の詰め合わせであり、人の皮をかぶった不幸の記号の塊といった方がふさわしい、非人間的存在といえる。

 

そこには明確な意図を持った制作者の作為がある。

 

『JOKER』とは、餌なのだ。

 

過剰なまでに記号化された不幸を詰め込んだ、社会的弱者に関心がある者に素通りを許さないフェロモンを放つ極上の寄せ餌が、本作で描かれたJOKERであり、映画作品である『JOKER』なのである。

 

映画『JOKER』の中に、社会問題に対する悲哀や、一縷の希望を見出したところで、それはあくまで作り物でしかない。

 

一方で、『JOKER』から発生する莫大な利益は、『JOKER』が槍玉に挙げた巨大資本へと確実に吸収され、現実の格差として社会へ還元される。

 

弱者への共感や同情を標榜し、非情な強者や社会システムを批判しながら、実のところ正反対の結果を社会にもたらす『JOKER』は、あまりにも大掛かりで悪質なジョークとしか言いようがない。

 

だが、ここでいう「悪質なジョーク」とは誉め言葉だ。

 

人の心を弄び、自業自得の苦境へ巧みに誘導し、やり場のない憤りで自責へ追い込む、一連の悪辣な手練手管こそ、トリックスター的悪意の権化たる『JOKER』の面目躍如である。

 

作品の内容というよりも、作品そのものとそれを取り巻く強者に好都合な経済システム、そしてそのシステムが仕掛けるマーケティングにいいように翻弄され、苛斂誅求な搾取の苦痛に身悶え阿鼻叫喚する弱者の空騒ぎまでを含む、皮肉なマクロの総体が、『JOKER』という作品の本質だ。

 

『JOKER』を観て楽しむということは、自分の首を絞めて酸欠の幻覚を楽しむような倒錯した快楽に無自覚に耽溺することと同義である。

 

結局JOKERとは、どこまでいっても先導者ではなく扇動者であり、強者も弱者もひっくるめて平等に愚弄し嘲笑する愉快犯なのである。

 

JOKERが現実に存在していたら、『JOKER』の成功を見て心の底から高笑いしているに違いない。

 

終わりに

こんな愚にもつかない長文を書き連ねてしまっている時点で、映画『JOKER』が仕掛ける術中に頭の先までずっぽりはまり込んでいる。

 

周到に張られた伏線が次々に回収され、JOKERの人物像がストーリーと連動して克明になっていく秀逸な構成が見ものだが、JOKERの人となりを物語るうえで重要な「コメディアンになりたい」という夢の起源は、最後まで杳として知れない(もしかして見落としたり、読みが浅いせいかもしれない)。

 

アーサーがJOKERへ至る心理の変容を偏執的に丁寧に描いた作品でありながら、コメディアンへ執着する明確な動機は述べられず、どこかとってつけた感がある。

 

一分の隙も無く作り込まれた人物造形にしてはありえない大きなプロフィールの欠損にも何か重大な意図があるのかと勘繰りたくなるが、それもまた『JOKER』の仕掛けたトリッキーな罠の一つに違いなく、そんな些細な違和感の解消に拘泥し、日々の時間と労力を浪費する人々の右往左往こそが、JOKERの本望なのだろう。

 

大山鳴動して鼠ゼロ匹な気分にしてくれる傑作。

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妄想(?)のクライマックス