158参る 神社読書
天気が良かったのでいつものようにサイクリングへ繰り出す。
いつも気にかかっていた、スーパーマーケットの敷地内の片隅で異彩を放つ謎の石碑の写真を撮る。
こういう、スーパーマーケットみたいな合理主義・資本主義の所産に呑み込まれても、消化されずに確固として存在し続ける過去の遺物みたいなものに魅力を感じる。
摩天楼に四方を囲まれた小さな神社とか、街中の真新しい信号機の傍らに忽然と現れる馬頭観音とか。
人間社会が科学を推し進め、いくら理性を追求しても、決して消去しきれない超常への畏怖が息づいているということに、なんだかよく分からない感慨を覚える。
大抵自宅の自室で趣味の読書を楽しむのだが、時に気分が乗らない時がある。
読みたい本は沢山溜まっており、読みたい気持ちもあるのだが、「ここ」では読みたくないという気持ちが障壁となって立ちはだかる。
人と時と場が整ったときの清々しい読書の時間は、せせこましい鬱屈した生活に縛られている小人物にとっては数少ない、何物にも代えがたい至福の時間だ。
選択肢は多くは無いが、その分、些細なところにこだわりたい気持ちは強い。
カフェも良いが、費用が掛かるのと、ちょっと気取り過ぎなのが、わがことながら鼻について気分が良くない。
というわけで、以前から検討していた、神社読書を実践してみる。
神社読書とは、読んで字のごとく神社に行って読書する、それだけだ。
神社の雰囲気が好きで、特に切実な願い事も無いのにお百度参りを百度を越してもやり続けている。
この雰囲気の中で読書をしたら気持ちいいのでは、と前々から思っていたのだが、なぜだか実行に移したことは無い。
なんだか今日はそんな気分になったので、暇にあかせて、適当に行きがかりの神社に立ち寄って、158度目のお百度参りのついでに読書してみた。
思った通り気分がいい。
思ったより、といった方が的確な気分だ。
人と時と場が三位一体となった心地よさに満たされる。
乾燥してほどほどに暖かく、かといって汗ばむほどでもない快適な天候も相俟って、これ以上ないほど読書に適した環境に浸れる。
同じ内容の本でも、周りの状況が変われば、理解度や印象が大きく異なる。
異なるというとちょっと語弊があるか。
より精彩になる、といった方がいい。
文章の文言が呼び起こすイメージがいつもよりぐっと細密になり、同時に色彩が鮮やかに色めく。
今日に限っては、神社読書という選択肢は大正解だった。
読書のお供に途中で買ったブラックサンダーパンケーキ。
チョコレート風味のパンケーキに、ブラックサンダーを挟んだ、シンプルながら豪快な逸品。
柔らかいパンケーキと、ざくざくとしたブラックサンダーの食感のコントラストが互いを引き立てる。
ちなみの読んだ本はこちら。
人生がうまくいっていない私のような人間にはうってつけの本。
人生もブラックサンダーも、シンプルイズベスト。