ざっくり雑記

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映画『ボス・ベイビー』

 

 


 

どんな映画?

大人の知性を持つ不思議な赤ちゃんボス・ベイビーと、彼を弟として迎えた少年ティムの、愛を巡るドタバタ冒険活劇。

 

感想

 キッズムービーでありながら、いい歳こいた大人でも身につまされる、世の中をくまなく支配する世知辛い真理を赤裸々に突き付けてくるどぎつい映画。

 

ボス・ベイビーをはじめとするキャラクター達の、とことん愛らしさを追求した造形や所作が、緩衝材兼鎮痛剤になっていなければ、突き付けられるグロテスクな現実の衝撃と破壊力を耐え忍び、エンドロールまで到達できたか疑わしい。

 

限られた資源(パイ)を奪い合う、いわゆる「ゼロサムゲーム」の厳しい世界観を下敷きにした逸話や物語は数あれど、本作では奪い合う対象が、地位や名誉や金銭といった、世俗的なものではない。

 

なんと本作では、赤ちゃんに注がれる家族や人々の「愛」をゼロサムゲームの対象として奪い合うのだから、その世知辛さは並大抵ではない。

 

愛の総量には限界があるという、身もふたもない価値観にのっとり、最初はボス・ベイビーとティムが両親の愛を巡って骨肉の争いを演じ、のちには利害が一致した兄弟が、赤ちゃんに注がれる愛を掠め取りかねない、画期的に可愛い子犬を売り出す巨大ペット企業に立ち向かう。

 

本来、赤ちゃん(ベイビー)は、愛に象徴されるあらゆる資源を獲得するための競争を免除されてしかるべき存在だ(「べき」であって、現実にはそうでないケースが存在するのも事実だが)。

 

その赤ちゃんが、黒づくめのスーツに身を包み、ニヒルで冷徹なやり手の企業戦士の様相で、アジェンダを立て、部下に𠮟責交じりの訓示を垂れ、金銭によるえげつない買収も辞さず、よりにもよってその「愛」を巡って闘争本能むき出しで東奔西走する冒険活劇は、ミスマッチの妙を飛び越え、現代社会の風刺の域をはみ出し、純粋な悲哀を率直に誘う。

 

ラストシーンでは、ゼロサムゲームの賞品ではない「愛」の素晴らしさを悟ったボス・ベイビーの思い切った決断が感動的に描かれるが、序盤からクライマックスにかけて繰り広げられる「愛」の争奪戦の、命を懸けた生々しい迫力を希釈するには、尺も分量も明らかに不足しており、物語全体としては、殺伐とした雰囲気に傾いてしまっている。

 

終わりに

この作品を見たキッズの未熟な精神に、世の中の最も恐ろしい一面である容赦のない競争原理を刷り込みはしないかと戦々恐々としてしまう。

 

こんな心配は的外れの杞憂に違いないが、冷酷な企業戦士のコスプレと役回りを与えられた赤ちゃんという強烈なキャラクターは、いい年こいたおっさんに杞憂を抱かせるには十分すぎるほどシンボリックだ。

 

甘い夢を見せるより、世の中の厳しさを突き付ける作品の方が、将来の成功には大きく寄与するかもしれないが、その成功には常に闘争の影と脱落の恐怖が付きまとうに違いない。

 

三つ子の魂百までという格言を信じるなら、その闘争の習性は根深く人生を支配するだろう。

 

どうでもいいが、ボス・ベイビープーチン大統領に見えてしょうがない映画。