本『真夜中の子供たち』
どんな本?
イギリスの植民地支配からインドが独立した1947年8月15日0時0分、その直後に誕生した多種多様な超常の能力を持つ千と一人の〈真夜中の子供たち〉、その筆頭たるサリーム・シナイ。
身体に現れだした「割れ目」や「ひび」から死期を悟ったサリームが、波乱万丈にして奇妙奇天烈な半生を振り返り問わず語る、自叙伝形式の小説。
感想
通り一遍の理解を拒む、インドの多義性を言語化した物語。
サリームの半生の回想が、上下巻合わせて1000ページを超える膨大なボリュームを要した理由は、彼が自分の身に起こった出来事の因果関係と意味合いを、ことごとく詳細に解説しようと試みたからだ。
サリームの自分語りの基本方針は以下に引用した彼の言葉に集約される。
私を理解するためには、一つの世界を飲み込まなければならない。
(「真夜中の子供たち(下)」 岩波文庫 335ページ)
自分の半生を解説するために、祖父母の馴れ初めから順を追って話し始めるという、聞き手(読者)の都合を一切無視した冗長極まりない導入が、「一つの世界を飲み込まなければならない」という、不遜な基本方針を殊更に象徴している。
だが、この試みはその始まりから既に失敗が確定している。
サリームが、自身の半生を構成する森羅万象の因果関係をことごとく詳述するならば、祖父母の馴れ初めから始めるというのは中途半端もいいところで、横着といってもいい。
「一つの世界」と大見得を切るなら、物語の導入は祖父母の馴れ初めどころか、宇宙の開闢に始まる森羅万象の動向を粛々と記述しなければ、因果関係を余さず解説し尽くしたとは到底言えない。
だが、そんなことは物理的に不可能だ。
ゆえに、1000ページを費やしたとて、彼の試みは「シーツに開けた小さな穴」から、世界のごく一部を覗き見るような不完全な観察に留まり、全体を網羅し、的確に総括するには程遠く、偏見と抜粋の域を出ない。
しかしある意味で、彼の不遜な試みは成功している。
全てを解説しようと多大な労力を費やし、知れ切った失敗に至ることで、自分の半生を形成した世界の因果関係の途方もない大きさと複雑さを対照的に描写し、消去法による世界すべての記述に、擬似的ながら成功している。
挫折を覚悟した不遜は、一周回って謙虚となる。
偉大な存在の偉大さを表現する方法として、反逆者の傲慢を圧倒的な力で粉砕する、神話によく見られるパターンを、サリームは自らを道化役に割り当て踏襲し、「一つの世界」の大きさを表現する。
だが同時にサリームの半生は、矮小な一個人の行動によって壮大な世界が大きく揺れ動く、力関係の逆転も物語る。
全体が部分を翻弄しつつ、部分も全体を翻弄している。
全体が部分の総和であり、部分が全体の総和でもありうるのだ。
順当と逆転が相反せず同時並行して成り立つ、論理では理解も認識も困難な多義的な世界観が、サリームとインド社会を遍く満たしている。
本作では、その多義性を強調する重要な仕掛けとして、インドの代表的な宗教であるヒンドゥー教の様々な神の名前が登場する。
破壊と創造という相反する性質を司るシヴァ神や、四つの顔を持つブラフマー、そして象頭と人身のキメラであるガネーシャなど、性質や身体的特徴を複数持つ神々が少なくない。
頻々に引き合いに出され、時にその名を冠する登場人物の一筋縄ではいかない性格や役回りを暗示する神々の存在は、インドとそこに生きる人々の、ありとあらゆる概念を飲み込み消化し自家薬籠とする、渾然を良しとする貪婪で懐の深い精神性を象徴する。
本作全体を隅々まで満たすインド的な多義性を踏まえると、サリームに半生の回想を促した、彼を死に導くという身体の「割れ目」「ひび」の意味するところにも、再考の余地が現れてくる。
事故や病気といったありふれた死ではなく、なぜ「割れ目」「ひび」なのか?
サリームは変革を志し、しかし夢破れて消え去るだけの敗残者として自身を規定しているが、彼もまた悠久のインドの歴史の広大な因果関係における、紛れもない織目の一つであり、その経糸は未来へと否応なくつながっている。
サリームの偏狭な視点、つまり「シーツの穴」から覗き見る「割れ目」「ひび」は、身体の崩壊がもたらす死の予兆かもしれないが、見方を変えれば、何かが生まれる前に卵に生じる「割れ目」「ひび」とも解釈できる。
新生インドの可能性の象徴的存在として超能力を持って生まれてきた〈真夜中の子供たち〉の一人なのだから、その超常の死に様にも、未来のインドを占う象徴的意味が含まれていても不思議ではない。
サリームが自身の半生を総括し、原稿用紙にしたためる作業は、生殖細胞が減数分裂して自身の半身をこしらえる行程を想起させ、ますます卵のメタファーに実感がこもり、サリームに含まれる未来への可能性が垣間見えた気がする。
そう捉えると、物語のラストも、彼が散々否定した「楽観病」的な雰囲気がいくらか混じり、悲観一辺倒ではない、インドらしい悲喜こもごもとした混沌の雰囲気を取り戻す。
終わりに
ボリュームを差し引いても、非常に示唆に富む小説だが、その示唆は、文章化された部分だけでなく、されなかった部分全体にもある。
所定の規律に従い羅列された文字から意味が生まれ、秩序だった因果関係の叙述により物語が成立するが、その精製の過程で、物語からは現実世界の基本性質である「混沌」が排斥されてしまう。
本作では、多義的なモチーフや言い回しを湯水のごとく並べ立て、過去と現在と未来を混交する、気の遠くなるような構成の妙と労力の果てに、物語から排斥されてしまう膨大な混沌の輪郭が行間紙背に朧げに形を成し、読者の脳裏に像を描いていく。
また、論理を優先し、混沌の排斥に躍起になる西洋文明に対し、混沌をそのまま受け入れ、活力としているインド文化という背景も、混沌をより鮮やかに発色させる下地になっている。
インドに行かずとも世界観が変容しかねない、個人の人生と世界が呼応する劇的な様相を緻密に描き出した、歯ごたえ・ボリュームともに満点以上の作品。