ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

若い読者のための文学史

優に2000年を越える、広大にして深遠な文学の歴史を、気鋭の文学者が簡にして要を得た魅力的な筆致で概説する。

 

およそ「学」と名の付くアカデミックなもの全般に激烈なアレルギー反応を発症する根っからの勉強嫌いながら、本書に限っては頭のてっぺんからしっぽの先まで、どこを切ってとっても退屈せずに楽しめた。

 

創世の神話から始まり、詩や小説といった表現形式の発展、各時代のエポックメイキングとなる代表的な作家や作品の解説、はやりすたり、印刷技術や電子書籍など技術の発達過程、演劇や映画・テレビといった派生メディアとの関係性、政治の腐敗や戦争・人種問題・文化の衝突といった社会の諸相を写し取り積極的に変容をもたらす公器としての影響力、部外者には杳として知れない文学賞の舞台裏、著作権やベストセラーにまつわる商業的側面など、一口に文学史といっても題材は多岐にわたり、文学が人類の文化や文明全体に占めるプレゼンスの大きさが良くわかる。

 

文学史の専門書の体をなしているが、より一般的な意味を含む人類史と読み換えても違和感はない。

 

文学は人類の精神を溶かし込む万能の溶液の大河だ。

 

過去から未来へと連綿と流れゆき、誰もが流れを汲み心を潤し、同時に筆(あるいはタイプライターやキーボード)を通じて心を流し込む。

 

本書はその溶液の大河に船を浮かべ、口達者な熟練の船頭の案内付きで源泉から下流まで、時に激しく船を翻弄し、時に繊細に揺動する表情豊かな流域を遊覧し、所々で潜行して深みも覗く、贅沢な精神の河下りだ。

 

本書が「学」とか「史」を冠した素っ気ない題名でありながら堅苦しくないのは、文学自体が本来的に有する、面白おかしいという性質によるところが大きい。

 

乱暴にくくると創作の物語の総称である文学は、単なる情報伝達の手段である文章を、読者をひきつけ感情を揺り動かすように技巧を凝らして脚色し配列した最古にして不易のエンターテイメント手法であり、情報そのものの魅力や重要性に面白おかしさを添加しなければそもそも文学ではない。

 

面白おかしい文学を扱う専門家、その中でも権威ある文学賞の選考委員まで務めた極め付きの文学者が、文学史上定評のある面白おかしい作品の粋とその周辺を取り巻く森羅万象を総集した本が面白おかしくならないはずがない。

 

一方で、題名や著者といった最低限の情報だけを印字した真っ白な装丁はこれ以上なくシンプルで、いっそ味気なく、豊潤で濃厚な内容にそぐわない感もある。

 

印字も一般的な黒ではなく淡いブロンズで、ともすれば表紙の白に紛れてしまいそうで、意図的に白に寄せているのではと思いたくなる。

 

白という色は意味深長だ。

 

人々は何かを書き付ける紙に、たいていの場合、白を求めてきた。

 

白は、光の三原色すべてを反射した色である。

 

光のすべてを反射するという意味では鏡に近い。

 

良い鏡とは、被写体を遜色なくそのまま映す鏡である。

 

もしかすると、人々が自分の精神の発露を書き付ける媒体の色に白を求めがちなのは、視覚的な見栄えという実用上の利点もあるだろうが、白が自分の精神を遜色なく映し出す鏡に近似した色だと、小難しい光学理論は抜きにして直観しているからではないか。

 

そう勘ぐると文学史は、人々の精神の所産を包括して映し出した鏡ともいえる。

 

文学史にまつわる本の顔を、陳列時の見栄えを度外視して白一色にしたのは象徴的である。

 

日常頻繁に接しながら内容があいまいだった文学用語の意味や背景、歴史上重要な文学作品の名前や著者など、実用的な教養を培い補強する史料的有用性もさることながら、単純な面白さにおいても出色の著述として、座右にして何度も読み返したくなる希少な本である。

 

その一言が歴史を変えた

 

印象深く含蓄のある優れた表現の言説を取りまとめて便利に一覧できる書物は星の数ほど出版されているが、本書は歴史への影響力という観点からそれらをピックアップし、背景と解説を添え、時系列順に整列し紹介する。

 

こうして整理してみると、数多の人間の無節操な相互作用の結果、無秩序に展開し制御不能に陥った歴史の混乱しきった最先端だと思っていた現在が、様々な人物の思想や感想の外力を加えられて、都度軌道修正を受けた、想像よりもずっと明確な意図に基づきデザインされた人工物であるように感じられる。

 

作者不詳の慣用句だと思っていた言説の出所が実ははっきりしていたり、逆に発言者の功績や悪業、キャラクターと紐づけて覚えていた言説が、後世の人間の創作や勘違いだったりと、目からうろこの記述も数多い。

 

歴史上の出来事と、対応する言葉を照らし合わせることで、口先の弁舌やペンの一筆に備わった、歴史をも動かす言霊の神秘の力を垣間見る。

 

本書がピックアップした言説は、筆者が厳選した、歴史へ特に大きな影響を及ぼした50個であるが、人類の歴史と文化の全体が保有し、また影響を受けた言説全体からすればごくごく一部に過ぎない。

 

歴史を動かした言説という分類でくくるなら、日々世間でやり取りされる無数の日常会話や、紙片の片隅に書き殴られ、スマートフォンに入力される些細な章句も、大なり小なり現在進行形で歴史の行く末を左右する「一言」と看做せる。

 

質量もエネルギーも持たない情報媒体である言葉が、世界の在り様を強力に左右する不可思議に、改めて心を打たれる。

ハロルドが笑うその日まで

 

ハロルドが笑う その日まで(字幕版)

ハロルドが笑う その日まで(字幕版)

  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: Prime Video
 

 近所にイケアの大型店舗が出店してきた煽りを食って売り上げが低迷し、閉店を余儀なくされた個人経営の高級家具店の家具職人が、腹いせにイケアの社長を誘拐する物語。

 

泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目で何もうまくいかないハロルドが、最後の最後に憑き物が落ちたように失笑するシーンでは、北欧の白けた寒空と雪原を背景も相まって、ただただ空虚でひんやりとしたカタルシスの爽快感だけが空間を支配する。

 

誠心誠意を尽くして積み重ね築き上げてきた人生を全否定し奪い去った非業の不遇は、同時にハロルドを自縄自縛し心配や葛藤や不満の種となっていたあらゆるしがらみから彼を解放する解呪の荒療治ともなる。

 

倒産と妻の死という度重なる不運に打ちのめされ生きる気力を失い、自分の店に放火し焼身自殺を図るハロルドと、燃え上がる店内からショーウィンドウ越しに見えるイケアの、世はこともなしといった風情で夜闇を燦燦と照らす電飾看板の対比がシュールで滑稽で美しく、思わず息を吞む。

 

普段慣れ親しんだ日本映画やハリウッド映画とは趣を異にする独特の間や色彩の乏しさ、そして静寂がある。

 

北欧という土地や文化様式に由来する北欧映画特有の雰囲気なのだろうが、感情を激しく揺さぶる刺激に満ちたコンテンツばかりに接して摩耗した神経にはその寂寞が深く染み入り、疲弊と傷を癒す貴重で心地よいひと時をもたらしてくれる。

 

イケアに人生を狂わされた人間が主人公なので、イケアのビジネスモデルや商品の品質をこき下ろし非難する言説が作中にたびたび出て来るが、不思議とイケアに行きたくなる。

 

ステルスマーケティング手法の理想形の一つといっても過言ではないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

逆ソクラテス

小学生が主役の短編集。

 

本書でも、伊坂幸太郎作品に通底する「持たざる善意」と「持てる悪意」の相克をテーマとする物語が展開する。

 

本書の後書きにて、小説家として「デビューしてから二十年、この仕事を続けてきた一つの成果のように感じて」いると作者が本作を評しており、伊坂幸太郎が本作を、現時点での小説家キャリアにおける集大成に位置づけていることが伺える。

 

子供というのは、世の中の「持たざる者」の中でも、特に「持たざる」存在である。

 

大人になれば、いくら「持たざる」者でも、時間を経て蓄積してきた経験や財産、育んできた肉体や技能、築き上げてきた人間関係や地位などをある程度保有しているが、若年である子供達には、時間の経過やそれに伴う成長が与えてくれるそれらの恩恵が圧倒的に少ない。

 

だが子供たちも大人たちと同様に、日々の生活で悪意と対峙しなければならないのが世知辛い現実である。

 

むしろ、微力な存在であるからこそ、大人たちよりも子供たちを脅かす悪意の総量は多く、さらに逃げ場のない学校や家庭を中心とした狭いコミュニティが戦場となる悪条件まで重なるとなれば、子供たちはなまじっかな大人より深刻で救いようのない状況に置かれているといえよう。

 

「持たざる善意」と「持てる悪意」との相克の物語を、子供を主役に据え、善意の勝利、ないしは不屈の結末に説得力と面白さをもって導くのは、伊坂幸太郎というヒットメーカーをして、作家としての力量を問われる難行であり、その難行を成し遂げたからこその「成果」なのだろう。

 

本書の子供たちが巻き込まれる事件の数々は、表層だけ見ればさほど目新しくも珍しくもなく、大半は日常的に発生するトラブルや理不尽に対する葛藤で、既視感を覚えたり、似たような経験をした人も少なくないようなものばかりだ。

 

勧善懲悪という物語の形式上、主人公サイドと対立する敵役が登場するが、敵役も根っからの邪悪な悪党ではなく、ちょっと意地悪だったりひねくれていたり未熟だったりするだけで、主人公たちと同じ社会の荒波の渦中で少しでも幸せになろうともがいている同志といっても差支えがないような庶民ばかりである。

 

だが、本書に限らず、伊坂作品に共通する、褪せない寒気を催す底なしの悪意の存在が、しっかりとそこには描かれている。

 

地球上にありふれ、生成消滅を繰り返すおびただしい生命の限りなく無に等しい断片に過ぎない一個人が産み出す悪意の質と量などたかが知れている。

 

だが、それらの小さな悪意が無数に集合し、接続され、巨大なネットワークを形成すると、特異点を超えて、明らかに個人の悪意とは次元を異にする、強靭で破壊的で邪悪極まりない巨悪が顕在化する。

 

人間を導管に世の中に漏れ出すその巨悪の悪意は、個人的な悪意とは別格の、あたかも放射能のごとき毒性で人々の平穏を蝕み腐らせ破壊していく。

 

歴史を紐解けば、巨悪から漏れ出す悪意になすすべもなく翻弄された人類が自ら手を下し身を投じた惨劇には事欠かない。

 

人類の平和は、この巨悪という大海に浮かんだ小舟に過ぎず、しかもこの小舟のあちこちに無数の大小さまざまな穴が穿たれていて、この穴からひっきりなしに悪意が流れ込み、休みなく汲み出していないとあっという間に沈没してしまう瀬戸際に立たされているのだ。

 

伊坂作品の主人公たちが戦っているのは、この巨悪から漏れ出してくる、個人のそれとはまったく出自の違う致命的な悪意だ。

 

誰もがその悪意の導管になりうる。

 

何かがきっかけとなって導管のバルブが緩めば、悪意の侵入を許し、そのまま放置しておけば自分や周囲を侵食して多大な災厄をもたらしかねない。

 

一見、些細なトラブルや理不尽を題材にしているにもかかわらず、本作を読んでうすら寒い恐怖を感じ、それらがいつまでもしつこくまとわりついて離れないのは、主人公たちが対峙するのが、巨悪の大海から漏れ出した別格の悪意だからだ。

 

この悪意の導管が、すれっからしの大人だけでなく、世に産まれ出て間もない子供たちにもしかりと敷設され、いつでも開通できる準備万端の状態にあるという事実に戦慄を覚える。

 

この巨悪との戦線に安全地帯はなく、戦闘員と民間人の区別もない。

 

大人だろうが子供だろうが、平等にこの戦いの最前線にある日突然配備されるのだ。

 

本作は、その悪意との局初戦に対する子供たちの善戦ぶりを、幾分寓話的に、しかし現実にしっかりと足をつけたバランスの取れた雰囲気で描いている。

 

「持たざる者」の代表格である子供たちが戦うことで、この「持てる悪意」の本体である巨悪と戦うための「持たざる者」の武器がより明確に見えてくる。

 

知恵と勇気、そして何より意志がそれだ。

 

「僕は、そうは、思わない」

 

表題作中に登場するセリフだが、その意志表明だけでも、悪意を怯ませ、時に撃退する決定打になりうる。

 

本書は、巨悪の漏出との戦線に立たされた不憫な子供たちの、それでも逆境に負けない奮闘を描き、逃れうる者などいない悪意との永遠にして不断の戦争への警戒を呼び掛ける。

ジョジョ・ラビット

 

ジョジョ・ラビット (字幕版)

ジョジョ・ラビット (字幕版)

  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: Prime Video
 

 イマジナリーフレンドがアドルフ・ヒトラーという10歳の少年の数奇な運命を描いた、第二次世界大戦末期の敗色濃厚となったドイツを舞台とするハートフルコメディ。

 

ナチスドイツ体制下にある、戦争末期のドイツの日常を叙情豊かに再現した映画でありながら、本作にはその核心であるアドルフ・ヒトラー本人が画面に登場することは無い。

 

主人公のジョジョのイマジナリーフレンドであるヒトラーはことあるごとに現れて芝居がかった長広舌を垂れるが、これはあくまで少年のたくましい想像力が生み出した幻像であり、実像ではない。

 

ジョジョは熱心なナチスかぶれで、会ったこともないユダヤ人への憎悪を募らせ、イマジナリーフレンドのヒトラーがそれをさらに煽り立てるが、反体制運動に携わるジョジョの母親が自宅の壁裏に秘密裏に匿っていたユダヤ人少女との実態のある交流を通じ、彼の幼稚な妄想は少しずつ崩されていく。

 

少年の傍らに常に存在するイマジナリーフレンドのヒトラーは、当時のドイツを支配していたイデオロギーの象徴だ。

 

柔弱だが気の優しいジョジョにとって、残忍なまでの勇猛果敢を美徳とする戦時中のドイツは生きづらい環境だった。

 

イマジナリーフレンドのヒトラーは、そんなジョジョを激励し、自己否定に走りがちな彼の精神にナチスという強固な骨格を与え、第三帝国の礎たる立派なアーリア人というアイデンティティを確立し、過酷な状況に脅かされる繊細な心を守る防波堤の役を担う。

 

ただし、そもそもジョジョを虐げ無邪気な気質を窒息させる異常な風潮の元凶がヒトラーその人である以上、この歪な信頼関係は悪辣なマッチポンプに過ぎないのだが。

 

そしてそれは現実を否定し歪曲する色眼鏡によるごまかしであり、現実と向き合う真の強靭さを育み自立を促す幼年期特有の試練からジョジョを遠ざけ、本来ありうべき伸び伸びとした人格の成長を阻害している。

 

最終的にジョジョは、ユダヤ人少女との交流や愛する母親との悲劇的死別、上官の命がけの温情など、残酷だが同時に真正でもある現実世界との接触で培った自我で、頭ごなしに外挿されたナチスの思想の権化であるイマジナリーフレンドのヒトラーを文字通り一蹴のもとに討伐し、自立した一個の人間として辛い現実世界に対峙する勇気を獲得する。

 

本作にヒトラー本人が登場しないのは、当時のドイツを実質的に支配し抑圧していたのがヒトラーという一個の人間ではなく、ドイツ国民それぞれの頭の中に巣食ったイデオロギーだったという暗喩なのだろう。

 

ジョジョはそれが行き過ぎてヒトラーのイマジナリーフレンドを生み出すまでに至ってしまったが、この時代、程度の差はあれ、誰の頭の中にも、有形無形のイマジナリーフレンドのヒトラーが存在していたのだ。

 

そのイデオロギーヒトラーの幻像にまで結実させたジョジョは、幼さ故の素直さもあって、特にイデオロギーに強く呪縛されたが、同時に実体を捉えがたい抽象概念であるイデオロギーを具体的な人物像に想像力を使って置換したことで、彼を蹴り飛ばして家から追い出すという象徴的行動により、厄介なイデオロギーの総体からきれいさっぱり脱却することに成功している。

 

本作では、ジョジョが脱却したイデオロギーに最初から囚われず、各々の立場で全身全霊を尽くし、信念を貫いた人々の勇気ある生き様も活写されている。

 

反体制運動に身を投じる不屈の魂と優しさを併せ持った美貌の母親ロージーや、明晰に現実を認知しジョジョを妄想から解放する先導となるユダヤ人少女エルサもそうだが、ジョジョが所属するヒトラーユーゲントの指導者である傷痍軍人キャプテンKも特別な存在感を放って目を惹かれる。

 

言明はされないが、彼は当時のドイツでは迫害の対象であったゲイで、部下と恋仲にあることが劇中の様々な描写で示唆される。

 

当然、優生思想の権化たるナチス体制下で、一介の軍人である彼がゲイのアイデンティティを公にして無事に済む場などあるはずもないのだが、最後の最後に彼はそれをやってのける。

 

遂に街に攻め込んできた連合国軍を、キャプテンKは、華美で奇抜なオリジナルデザインの軍服で身を包み、恋人とともに大音響でラジオを流しながら迎え撃つ。

 

大仰な羽飾りをあしらった大時代的な帽子と、どう見ても動くには邪魔で格好の的になりかねない真っ赤で長ったらしいフリンジを袖からなびかせたどぎつい装飾の軍服は、ゲイのアイデンティティの表現様式の一つであるドラァグクイーンの、女性性を過剰に強調したメッセージ性の強いファッションスタイルを想起させ、その突撃シーンは、生まれ持った個性を抑圧する理不尽な現実に正々堂々と立ち向かう勇姿として、神話の名場面のような荘厳な雰囲気さえ漂わせていた。

 

ビートルズのヒット曲を、ヒトラーに熱狂する群衆のシーンにかぶせてくるなど、故意に時代考証を無視した演出がたびたび登場するが、人々を狂気の行為へ駆り立てるイデオロギーという悪霊の跳梁跋扈は、時代や国境や人種を超越した全人類文明の底流で息づく、根深いブームやモードの一種であるという意味だろうか。

 

10歳の少年にできたことが何よりも難しい自分がもどかしくなる、色々と考えさせられる映画。

 

ジョジョの親友ポジションにあたるヨーキーのゆるキャラ感がすごい。

 

彼が特攻させられた時が、本作で一番ハラハラした場面だった。