ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

愛車に陳謝


f:id:hyakusyou100job:20211202192417j:image

メインのロードバイクのポジションを半日かけて徹底して見直したところ、乗り味が抜群に改善する。

 

ひたすら我流でやってきて、まともなフィッティングとは無縁だったので、購入以来何年も愛車の本領を発揮させずにいたことになり、非常に申し訳ない気持ちになる。

 

心中で愛車にひたすら謝りながら早朝サイクリングを楽しみ、久しぶりに爽やかな暁光を拝む。

 

 

152参る キツネにつままれたような


f:id:hyakusyou100job:20211202024843j:image

f:id:hyakusyou100job:20211202024856j:image

天気もいいのでぷらぷらとサイクリング。

 

通勤路の途中にあって、何百回となくそばを通り過ぎていた神社を初めて参詣し、152度めのお百度参りを行う。

 

願い事を思い描いて、持ち上げたときの軽重の感触でその成否を占う重軽石があったので、賽銭を賽銭箱に放り込み挑戦。

 

結果、思ったより軽かったので願い事は成就しそう。

 

だが、持ち上げることに専念しすぎるあまり、何も願い事を思い描いていなかった事に気づく。

 

軽石を軽く持ち上げようという意識が、直近の願い事といえば願い事なので、それは成就した形になり、ご利益はあったといえるのか。

 

お稲荷様でもないのにキツネにつままれたような気分で神社を辞す。

 

 

だから私は貧乏なのか ~本『グローバル・スーパーリッチ 超格差の時代』~

 

本書の内容

プルトクラートと呼ばれる、上位1%の金持ちの、更に上位1%に属する、桁外れの超金持ちの実態と、プルトクラートを産んだ世界情勢を解説する。

 

みじめなミリオネア

上位1%とその他99%の人々の間に横たわる所得格差が社会の重要な関心事となり、暴動じみた過激な反対活動にまで発展する事態が世界各地で発生している。

 

世間のどこを向いても貧困が目につく昨今、その主要因である所得格差を扱うコンテンツは巷に溢れ、貧困バブルとでも言うべき皮肉な活況を呈している。

 

本書も数多沸き立つバブルの一つに該当するが、本書に出てくる金持ちは、格差という言葉が虚しくなるほど桁外れの金持ち、99%を超えた、99.99%の人々と次元を異にする超絶の富豪、プルトクラートである。

 

99%の庶民と1%の富裕層の間には、厳然とした所得格差の谷間が大きく口を開けて両者を隔てているが、1%の富裕層もまた、99%の下位の富裕層と、1%の超富裕層の間で、厳然とした所得の格差が両者を隔て、まったく別次元の階級を形成している。

 

庶民からすれば羨望と嫉妬の的であるミリオネアも、ビリオネアとの絶大な格差に打ちのめされ、羨望と嫉妬の虜となった、みじめな「庶民」を自認し、格差に苦しんでいるというエピソードには驚かされる。

 

貧困と格差が似て非なる問題である構造が本書から見えてくる。

 

貧困が生命を蝕む責苦なら、格差は精神を苛む拷問なのだ。

 

そういう意味では、ミリオネアのような中途半端な金持ちも、庶民と同じく精神の拷問に苦しむ同士と言えなくもない。

 

ミリオネアですら格差に苦しむ格差社会、それが本書のテーマである超格差社会だ。

 

プルトクラートの産みの親

では、その超格差社会の真の勝ち組、プルトクラートの出自とはどんなものなのか。

 

プルトクラートの産みの親は複数いる。

 

本書はそれぞれの親について詳しく解説しているが、中には倫理的に問題のある親もいる。

 

レントシーキングは中でも別格だ。

 

かつての資産家とプルトクラートの大きな違いは、その収入を不労所得として受け継いだ資産から得るか、ビジネスで得るかの違いだ。

 

ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグジェフ・ベゾスといったプルトクラートが、ビジネスで大成したプルトクラートの典型だ。

 

これらの成功者たちは、革新的な産業を創造し、世界に新たな価値を付与することで莫大な資産を形成した。

 

世界に存在する富の総量を増やした分を儲けとする形だ。

 

それに対し、レントシーキングは、言ってしまえば泥棒である。

 

レントシーキングの問題点は、世界に存在する富の総量はそのままで、その分け前の大半がレントシーカーに流れ込み、それ以外の大多数の人々の取り分が削られ、貧困を助長する構造にある。

 

レントシーキングの主な手法としては、腐敗した政府に縁故や潤沢な賄賂で取り入り、自分のビジネスに有利な制度を制定させたり、国有の天然資源や独占事業を格安で譲り受けるといった手法がある。

 

これらの泥棒行為はプルトクラートの懐を肥やすが、その富の出どころは国民の共有財産や日々の生活費であり、プルトクラートの繁栄に反比例して、社会の疲弊と衰退を招く。

 

政治的なインチキの利用はレントシーキングの分かりやすい実例だが、その手法は枚挙にいとまがない。

 

先述した「革新的な産業を創造し、世界に新たな価値を付与する」ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグジェフ・ベゾスも、ある種のレントシーキングに手を染め、プルトクラート以外の人々の富を不当に掠め取っている。

 

莫大な資本を背景とした物量頼みの圧倒的販売戦略や、ライバル企業の破格の買収などにより、自らが君臨する業界を牛耳り、健全な競合を妨げ、商品やサービスの選択権を消費者から奪い、本来業界全体に分配されるべき利益の大半を収奪している。

 

また、活動実態のほとんどない税率の低い国に企業を設置するといった、今ではすっかりおなじみとなった一連の租税回避の態度もまた、資本の公共性を軽視した悪質な泥棒行為と言える。

 

ビジネスの成功は、経営者や起業の努力によるところも大きいが、それもこれも土台となる社会の安定があってこそである。

 

現代では、社会の安定に責を負うのは国家であり、国家の運営には税収が不可欠である。

 

安定した社会で、企業や個人がビジネスで稼いだ金の一部が税金として国に納まり、国は税金を使って国の安定を強固に保ち、安定した社会は更にビジネスを促進するという資本の好循環が、理想的な社会の在り様だ。

 

いわば税金は社会の使用料だが、レントシーカーは社会がもたらす恩恵を人並み以上に享受しながら、そのくせ使用料をケチり、社会の繁栄につながる好循環をぶった切る、自己本位の悪質なフリーライダー(ただ乗り)といえる。

 

租税回避については、プルトクラート側にももっともらしい言い分がある。

 

曰く、革新的ビジネスで既に大きく世間に貢献しているのだから、更に高率の税金を課されるのは不当だという言い分。

 

あるいは、政府の非効率な税金の使い方が、優れた経営者の視点からすれば許しがたく、巨額の税金を無駄遣いされるよりは、自分が選んだ慈善事業につぎ込んだ方がよっぽど世のため人のためになるという言い分。

 

どちらも一見正しく聞こえるが、よくよく考えれば単に税金を納めるのが業腹なだけの、庶民と大差ない器量の小ささを自己弁護する、狭い料簡に過ぎないのが見え見えだ。

 

提供する商品やサービスでビジネスの大立者が世の中に貢献しているのは確かだが、それは所得税を支払っている納税者全員に言えることで、革新的であろうとなかろうと、仕事に貢献度の差は無い。

 

収入に応じた税率の不公平については議論の余地があるとしても、活動拠点とする国家への納税を完全に拒否するタックスヘイブンの利用といった大規模な租税回避の方策は、莫大な利益の源泉として依拠する当該の社会を安定させるために不可欠な経済的協力の拒否であり、明らかに公平性を欠く。

 

また、政府の非効率を理由に拒んだ納税分を、効率的な慈善団体に寄付したり、あるいは自ら立ち上げた慈善団体で効率的に運用することで、政府に預けるよりも資本を有効活用して社会に還元しているという言い分については、慈善事業そのものは手放しで賞賛されるべき活動であるものの、資金の投入先についてはあくまで資本家の興味関心が向くごく一部の分野だけに限定されており、本来社会全体に満遍なく分配されるはずだった税金を偏った分野に恣意的に集中投下するという、これもまた公平性を欠いた資本の私的流用にあたる。

 

そもそも民主主義社会の法治国家においては、政府の無能に不満があるならば、支持する政治家に票を投じるなりデモを張るなりハンガーストライキをするなり、正規の手順に則って改善を要求すればいいだけの話で、納税を回避するという、私財を惜しみ、尚且つ社会への公平な還元を拒否する、私利私欲を正当化する理由に政府の無能を引き合いに出すのはお門違いもいいところだ。

 

グローバル化の異常な発展により、国際企業やそのエグゼクティブにあっては、国家という枠組みを軽視する傾向が強まっているが、いくら自家用ジェット旅客機を乗り回そうとも、その燃料代の源泉は、様々な国家と、その構成員である国民であるのは否定しがたい事実だ。

 

一部のプルトクラートが莫大な資本の力とテクノロジーの恩恵で国境を無視した活動を可能にしても、その他の99.99%の人々には国家という共同体の単位は重要不可欠な枠組みだ。

 

99.99%の人々から利益を貪るだけ貪っておきながら、99.99%の人々が依拠する国家を維持する相互協力の義務からはぬけぬけと逃れ、私腹を際限なく肥やす利己主義は、社会動物である人類において、到底容認されるものではない。

 

ゆえに、租税回避もまた、合法ではあっても悪質なレントシーキングの手法なのだ。

 

だから私は貧乏なのか

レントシーキングの結果、99.99%の人々の資本はプルトクラートの銀行口座にどんどん流れ込む一方となる。

 

この宇宙では、質量がある一定の量を超えると重力崩壊を起こし、光をも呑み込むブラックホールになるが、資本にも似た性質がある。

 

ブラックホールが発見される2000年前に、既にこの性質に気づき、現代にまで通じる印象的な箴言として残した人物がいた。

 

ガラリヤの収税人で、後にキリストの弟子となるマタイである。

 

彼は今日のプルトクラートの隆盛と庶民の貧困を予見する単純明快な真理を次のように端的に表現した。

 

「持てる者は与えられ、いっそう豊かになる。だが持たざる者は、なけなしも持ちものまで奪われる」

本編より抜粋

 

有名人が有名であるがゆえにさらに名声を高める現象を指すマタイ効果の原典である。

 

この真理は名声だけでなく資本にも適用される。

 

プルトクラートはこの真理のことのほか強力な生ける証拠だ。

 

一方向性の富の寡占が加速すれば、その行き着くところは、ごく少数のプルトクラートと、その他大勢の無一文の群れとなる。

 

真綿で首を絞めるように、貧困はゆっくりと度合いを強めていき、プルトクラートが私欲を捨てでもしない限り、真綿の食い込みは深まっていく一方だ。

 

だから私は貧乏なのかと気づいても、「持たざる者」には打つ手などない。

 

貧困の自己責任論が常に一定の存在感を持つ世の中だが、本書に取り上げられた数々のプルトクラートの実例や所業を見るにつけ、自己責任だけでは到底説明がつかない貧困の一因が明らかになってくる。

 

人間の欲望に限りがないのは、いちいち科学的証明を俟つまでもない自明の理だ。

 

だが、いくら欲望に限りがなくとも、かつての世界では、技術的、制度的、社会的制約がどうしようもなく欲望の前に立ちふさがり、過度の暴走など起こるべくも無かった。

 

だが、グローバル化とテクノロジー革命が種々の制約を打ち倒し、欲望はついに檻から解き放たれたのである。

 

後はもう、次の限界に突き当たるまで、欲望は驀進するだけだ。

 

とはいえ、際限なく膨れ上がるプルトクラートたちの資産の額面を見ていると、果たして「次の限界」などというものがあるのだろうかと疑わしくなる。

 

もし仮にあったとしても、その限界に突き当たるよりも先に、私の乏しい貯蓄が早く尽きるのは想像に難くない。

 

愚痴

結局、本書を読んだ感想は、愚痴そのものとなった。

 

金持ちが悪いわけではないが、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し、度を越した欲望の解放は非難され、制限されるべき悪徳となる。

 

本書にはプルトクラートのインタビューも豊富に収録され、プルトクラートたちの世界の捉え方の一端が垣間見える。

 

もはや買えない物など何もないプルトクラートの世界に唯一欠乏しているのは、満足だ。

 

皮肉なことに、稼げば稼ぐほど不満や不安が大きくなる。

 

仏教が説く餓鬼道の地獄にプルトクラートは生きている。

 

プルトクラートが幸福でなく、そしてプルトクラートの台頭により貧困を強いられるその他99.99%も幸福でないとしたら、一体お金とは何なのかと、素朴な疑問で頭が痛くなる。

 

中庸を弁えたプルトクラートと、総中流化したそこそこに豊かな庶民が、仲良く手を取り合う平和な社会の実現までの道のりは果てしなく遠い。

NORTH FACE『スーパークライムジャケット』


f:id:hyakusyou100job:20211125054319j:image

リサイクルショップの期間限定セールで30%オフになっていたスーパークライムジャケットを衝動買い。

 

新品同然のコンディションでありながら、破格の安値に惹かれて、手持ちもないのにクレカで決済。

 

大満足の逸品なのだが、バキバキのアウトドアウェアなのに、汚れるのが怖くて外に着て出かけられないのがジレンマ。

本『騎士道』読書感想文

 

本書の内容

中世盛期の騎士道について著された二冊の書、レオン・ゴーティエの騎士道研究書『騎士道 La Chevalerie』と、ラモン・リュイの騎士道教本『騎士道の書 Llibre de L'Orde de Cavalleria』の邦訳を合本した一冊。

 

感想

本書が紹介する騎士道に既視感を覚える日本人は私だけだろうか。

 

日本人には馴染み深く、字面も内実も似通った武士道、ではない。

 

私の脳裏で中世の騎士にオーバーラップしたのは自衛隊だ。

 

博愛を標榜し闘争の否定を教義の核心とするキリスト教が擁する武人集団である騎士は、平和を愛し憲法第九条で戦争放棄を謳う日本が擁する戦争要員である自衛隊と、そのあからさまに矛盾した有り様において双子と見紛う相似を呈する。

 

闘争が根絶した永久平和の実現が、キリスト教や日本国、ひいては人類がすべからく目指すべき究極目標であることは論を俟たない。

 

だが現実問題として、闘争は人類の抜きがたい悪習と化している。

 

節操のない人類の加速度的繁栄が、限られた資源の奪い合いへ発展するのは必定だ。

 

資源の平和的分配には、日々の窮乏を堪えつつ、粛々と公正な調停を進行する並外れた自制と理性を要するが、残念ながら、それらはいまだかつて人類が持ちえたためしのない素養である。

 

畢竟、自制と理性を欠いた利害の衝突は、銃刀が際限なく産み出す血肉のインクがしたためる、膨大な戦争の履歴で人類史を塗り潰してきた。

 

平和や安全が、闘争の戦利品として得る他にすべがない賞味期限の短い希少品である現実にあっては、平和を愛する敬虔な信仰や、安全を求める真摯な努力は、飽くなき軍拡競争の入り口にしかならない。

 

高潔な理念の足下を濡らす、おびただしい犠牲者の血肉の汚濁と腐臭を覆い隠し封じ込める、清潔で頑丈な隠れ蓑こそが、騎士道の本質である。

 

きらびやかで見目麗しい鎧装束や、品格漂う厳粛な典礼や、武勇や忠節を称える武勲詩や、高貴な血統を尊ぶ伝統や、慈悲と愛を掲げる厳格な規範といった、騎士道を構成する数々の要素は、騎士の剣が続々と築く屍山血河の惨景から目を逸らすために、丹精込めてしつらえた目くらましなのだ。

 

当たり前の人情だが、誰でも自分や自分のやっていることが悪だとは思いたくない。

 

ゆえに、人の行動理由には自己正当化や自己弁護の傾向が働く。

 

時にその理由は、自己正当化や自己弁護の傾向が先に立つあまり、通らない筋を通そうとする長々とした屁理屈になる。

 

本書が取り上げる騎士の十戒や、対外的に発表される自衛隊の運用に関する法的根拠の文言は、まさにこの典型に該当する。

 

古来より、暴力の不当性は誰もが実体験を通して骨身に沁みて理解していながら、さりとて、自らも不当な暴力に手を染めねば生き残れない現実との齟齬が、古今東西を問わず、多くの人々の良心や道徳を悩ませていることが、本書が克明に語る騎士道の窮屈な規範と、憲法第九条を盾に批判にさらされる自衛隊の難しい立場から見て取れる。

 

人間の本性に深く根付く、闘争に惹かれる忌むべき醜悪な生態を怯まず直視し、暴力が持つ魔性の魅力に打ち克つ、真なる平和への愛と自制の気概を人類が獲得するまで、騎士道とその係累は、姿形を変えながら、時代も国境も文化の隔たりも越えて、暴力の弁護人として多忙な日々を送るのだろう。

 

終わりに

本書の編訳者解説を読んで驚いたのは、数百年前、十字軍の時代に設立された騎士団のいくつかが、今なお存続し、実社会で活動し続けている事実だった。

 

本書の謝辞には、サヴォイア王家諸騎士団なる、たいそう立派な名称が挙がる。

 

どうやら日本にも支部があるらしく、自己啓発の大家である苫米地英人氏が代表を務めているようだ。

 

現代の騎士団は、武人の様相はなりを潜め、キリスト教の理念を順守する慈善団体としての面が強まっており、蛮族や異教徒を敵に回した防衛・侵略戦争からは遠くかけ離れた活動に精を出している。

 

積み重ねた伝統や練り上げた規範の自縄自縛に陥った騎士団は、時代が進むにつれて合理化の一途を辿る闘争の潮流に乗り損ね、時代遅れとなった武力を捨てざるを得なくなった。

 

無線誘導のスマート爆弾と、機関銃を積んだドローンが飛び交う戦場に、気品と名誉を重んじる教会の尖兵が名乗りを上げて剣を振るう光景は場違いが過ぎる。

 

だがそれは悪いことではなかった。

 

皮肉なことに騎士団は、時代から取り残されたおかげで、平和と愛を標榜するキリスト教の理念と矛盾することのない慈善団体へと転身を遂げ、1000年の命脈を永らえた。

 

建前であった騎士道という屁理屈が、武器を捨て存在意義を失った騎士団の、空席となった核心を代替し、遂に建前と本質が一致を果たしたのだ。

 

自衛隊もまた、災害派遣など、サバイバルのスペシャリストとして活躍することで、軍事組織とは異なる存在意義を内外に示し、曖昧な立場を少しでも安定させるべく、暴力以外で社会から承認されるアイデンティティの確立に努めている。

 

いずれ自衛隊にも、騎士団と同様に、無用の長物となった兵器を捨て、空虚となった存在意義を崇高な建前で代替し、屈託なく本領を発揮できる日がやってくるのだろうか。

 

ひいては、世のあらゆる軍事組織が、それぞれが掲げる崇高な「騎士道」だけを残して武器を捨てる日を願ってやまない。

 

 

 

 

映画『グリーンブック』感想

 

どんな映画?

黒人差別真っ盛りの60年代のアメリカを舞台とする、実話を元にした伝記ロードムービー

 

勤めていたナイトクラブの改装で用心棒の職を失った、腕っぷし自慢のイタリア系アメリカ人、トニー・”リップ”・ヴァレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)は、アフリカ系アメリカ人のクラシック系ピアニスト、ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)に運転手として雇われ、黒人差別が苛烈を極めるアメリカ南部へのコンサートツアーに同行する。

 

コンサートツアーの旅路で起こる様々なアクシデントを通じ、当初は反目していた二人は、徐々に相互を理解し、親交を深めていく。

 

感想

黒人差別について考えさせられる映画、というよりは、差別そのものについて考えさせられる映画。

 

この手の黒人差別を題材にした映画では、差別に苦しむ黒人を、寛容な白人が救済するという、あくまで白人優位を前提とした結末を以て大団円とする形式があるが、本作もその形式に則った、本質的には人種差別を許容する作品だとする批判があるらしい。(Wikipedia参照)

 

そのような紋切り型の批判とは少々趣を異にし、個人的には、もう少し深く差別の本質に踏み込んだ作品という印象を受けた。

 

白人であるトニーは、シャーリーを含む黒人全般に対し差別感情を抱いているが、イタリア系白人であるトニー自身も、白人内では被差別階級に属する。

 

そしてややこしいのだが、卓越したピアニストであり、一流の文化人に相応しい知性と教養と品格を備えた博士であるシャーリーは、無学で粗野なトニーの品性を侮蔑しており、事あるごとに彼のあか抜けない立ち居振る舞いや荒っぽい言動に難癖をつける。

 

差別が向かう矢印が一方通行ではなく、双方向に開かれ、更に多方面に放射し、複雑に入り組むという、一筋縄ではないアメリカの差別の様相が明瞭に描かれる。

 

黒人差別がメインテーマだが、一口に黒人差別といっても様々な形態があり、一様ではない。

 

特に、シャーリーのコンサートの客層は上流階級であり、ジム・クロウ法により差別が公認されているアメリカ南部とはいえ、礼節をわきまえたコンサート客はシャーリーを賓客として歓待し、敬意をもって接しており、スラム街で白人からいわれなき罵声を浴び理不尽な暴行を受ける、といったありきたりの黒人差別描写は比較的少ない。

 

だが、それでも差別は厳然として存在する。

 

例えばVIPとしてコンサートに招かれているというのに、会場となる豪勢な屋敷の裏庭の隅に設置された粗末な黒人専用のトイレ小屋の使用を強要されたり、コンサートを開くレストランでの飲食を拒否されたりといった、支離滅裂な差別待遇が、行く先々でシャーリーを待ち受ける。

 

慇懃な態度を装う隠然としたこれらの待遇が、むしろ差別の根深さ、陰険さを強調する。

 

シャーリーは、たとえアフリカ系アメリカ人という、アメリカにおける生まれながらの圧倒的ハンディキャップを背負っていても、卓越した教養と品格と才能で差別を覆せるという信念を持ち、危険を承知で、あえて差別の苛烈なアメリカ南部のコンサートツアーを敢行する。

 

だが、シャーリーの断固とした覚悟は、白人社会にはびこる、杳として全体像を掴みかねる巨大で不気味な社会通念の泥濘に搦めとられてしまう。

 

奴隷が教養と品格と才能を習得しても、主人からすれば、教養と品格と才能を習得した「有能な奴隷」に過ぎず、同格に引き上げ対等に付き合うなど、天地がひっくり返っても有り得ないのだ。

 

一方で、シャーリーが差別に対抗する武器として身に着けた高尚な素養の数々は、アフリカ系アメリカ人のコミュニティにおいては鼻持ちならない高飛車な態度として拒絶される。

 

結果、シャーリーは白人からも黒人からも疎外される、天涯孤独な立場に追い込まれてしまう。

 

シャーリーの失敗は、社会的・能力的優位が差別の解決策にならないことを如実に示す。

 

なんとなれば差別が芽吹きすくすく育つ肥沃な土壌は、侮蔑に限らず、嫉妬や反目、利害関係など、多種多様だからだ。

 

むしろ、客観的で合理的な優劣に対抗する最後の武器こそが、客観性や合理性をはねのけ踏みにじる、理不尽を本質とする差別感情なのだ。

 

シャーリーの対抗策は、火炎放射器で消火を試みるような、不毛な徒労に終わる。

 

行く先々で失意に打ちのめされるシャーリーの憔悴する姿から、傍らで何くれとなくフォローするトニーも何かを感じ取り、己の振る舞いや境遇を顧みて徐々に感化されていく。

 

彼もまた、イタリア系白人として差別される立場にあるが、彼はその立場に甘んじることなく、優れた機転と並外れた暴力で対抗する。

 

だが、それもまたシャーリーと同じ失策であった。

 

その場その場の勝利は得られるが、敗者の反感は更に強まり、反感を糧にした差別はより強硬になるという、逆効果をきたす。

 

立場は違えど、二人は差別に対する敗北者という点では同志だ。

 

同じ境遇にあるからこそ、南進する惨めな敗走の途上で彼らの心情は合流を果たした。

 

そして、差別に対抗する真の解決策に連れだって到達する。

 

それは、差別からの脱却だ。

 

二人もまた、差別主義者の見下げ果てた人間性を差別し、拒絶し、否定した。

 

あまつさえ、他のコミュニティを差別し、差別の連鎖に加担した。

 

火で火を消そうと躍起になり、己の心を含むあたり一面を焼け野原にした。

 

逆説的に、シャーリーもトニーも、彼らを差別する差別主義者たちと同じ悪意に冒されていたのだ。

 

悪意で悪意を消すことはできない。

 

それは悪意を増幅するか、あるいは取って代わるだけだ。

 

二人は、共感を入り口に、これまで拒絶していた人種や文化を受け入れ、閉鎖した悪意の食物連鎖から脱却し、晴れ晴れとした気持ちで故郷への帰路に着く。

 

彼らは、自らが打ち鍛えた差別の鉄鎖を断ち切り、解放されたのだ。

 

それは差別に甘んじるということではなく、差別に囚われない自由自在の心境を意味する。

 

ダイエットのストレスを解消するために、更に過食して太ってしまうような、本末転倒の行動に走る不合理な性質が人間にはある。

 

差別に対して差別で対抗するというのも、その不合理な性質の成せる誤謬なのだろう。

 

根拠なき理不尽な優位性への執着を差別の本質とするなら、そんな邪悪な性向を身に着けて真っ向からぶつけ合うことが、不和の解決策になるはずがない。

 

差別意識を自覚するのは非常に難しい。

 

人の振り見て我が振り直せ、の格言の示す通り、シャーリーとトニーは、差別の顕著な南部で、差別主義者たちが露呈する醜い態度を目の当たりにすることで、自分たちも同じ瘴気に汚染され、魂の髄にまで達しようとする腐敗の兆候に気づけた。

 

図らずもこの旅は、南部の差別を正す正義の旅ではなく、自覚なき自らの差別意識を反省し浄化する、懺悔の巡礼となったのだ。

 

優位にある白人が、劣位にある黒人に慈悲と寛容を示し救済するという、差別主義を美化した都合のいい予定調和を本作から読み取ることもできるだろう。

 

確かに、救いはある。

 

だが、救済者は白人ではなく、救われるのも黒人ではない。

 

本作で差別からシャーリーとトニーを救済するのは、彼ら自身なのだ。

 

それは、アメリカ特有の黒人差別主義という狭い領域の差別ではなく、人類全体を広範に冒す、難治性の遺伝病である差別意識そのものからの救済であり、より根本的で意義深い。

 

終わりに

タイトルのグリーンブックとは、宿泊場所が法的に制限されていた黒人のための旅行ガイドブックの通称だ。

 

シャーリーとトニーが乗るターコイズグリーンのキャデラックや、作中でキーアイテムとなるヒスイや、道中を彩る雄大な農園や森林の緑など、何かとグリーンが印象的な本作だが、肝心のグリーンブックのグリーンとは、執筆者の黒人郵便配達夫、ヴィクター・H・グリーンの名前だそうだ。

 

だが、白人と黒人の歴史的対立を描く社会派の作品の絵面が、概して白と黒を意識したモノトーンな色彩に陥りがちなのに対し、鮮やかなグリーンをメインカラーに据えた本作は目に新しく、ともすれば陰鬱になりがちな社会問題を扱った作品に爽快な雰囲気をもたらしている。

 

白黒つけるのではなく、どちらでもない緑へと解放される、色彩の象徴的な力を感じさせてくれる、小気味いい後味の映画。