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映画『グリーンブック』感想

 

どんな映画?

黒人差別真っ盛りの60年代のアメリカを舞台とする、実話を元にした伝記ロードムービー

 

勤めていたナイトクラブの改装で用心棒の職を失った、腕っぷし自慢のイタリア系アメリカ人、トニー・”リップ”・ヴァレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)は、アフリカ系アメリカ人のクラシック系ピアニスト、ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)に運転手として雇われ、黒人差別が苛烈を極めるアメリカ南部へのコンサートツアーに同行する。

 

コンサートツアーの旅路で起こる様々なアクシデントを通じ、当初は反目していた二人は、徐々に相互を理解し、親交を深めていく。

 

感想

黒人差別について考えさせられる映画、というよりは、差別そのものについて考えさせられる映画。

 

この手の黒人差別を題材にした映画では、差別に苦しむ黒人を、寛容な白人が救済するという、あくまで白人優位を前提とした結末を以て大団円とする形式があるが、本作もその形式に則った、本質的には人種差別を許容する作品だとする批判があるらしい。(Wikipedia参照)

 

そのような紋切り型の批判とは少々趣を異にし、個人的には、もう少し深く差別の本質に踏み込んだ作品という印象を受けた。

 

白人であるトニーは、シャーリーを含む黒人全般に対し差別感情を抱いているが、イタリア系白人であるトニー自身も、白人内では被差別階級に属する。

 

そしてややこしいのだが、卓越したピアニストであり、一流の文化人に相応しい知性と教養と品格を備えた博士であるシャーリーは、無学で粗野なトニーの品性を侮蔑しており、事あるごとに彼のあか抜けない立ち居振る舞いや荒っぽい言動に難癖をつける。

 

差別が向かう矢印が一方通行ではなく、双方向に開かれ、更に多方面に放射し、複雑に入り組むという、一筋縄ではないアメリカの差別の様相が明瞭に描かれる。

 

黒人差別がメインテーマだが、一口に黒人差別といっても様々な形態があり、一様ではない。

 

特に、シャーリーのコンサートの客層は上流階級であり、ジム・クロウ法により差別が公認されているアメリカ南部とはいえ、礼節をわきまえたコンサート客はシャーリーを賓客として歓待し、敬意をもって接しており、スラム街で白人からいわれなき罵声を浴び理不尽な暴行を受ける、といったありきたりの黒人差別描写は比較的少ない。

 

だが、それでも差別は厳然として存在する。

 

例えばVIPとしてコンサートに招かれているというのに、会場となる豪勢な屋敷の裏庭の隅に設置された粗末な黒人専用のトイレ小屋の使用を強要されたり、コンサートを開くレストランでの飲食を拒否されたりといった、支離滅裂な差別待遇が、行く先々でシャーリーを待ち受ける。

 

慇懃な態度を装う隠然としたこれらの待遇が、むしろ差別の根深さ、陰険さを強調する。

 

シャーリーは、たとえアフリカ系アメリカ人という、アメリカにおける生まれながらの圧倒的ハンディキャップを背負っていても、卓越した教養と品格と才能で差別を覆せるという信念を持ち、危険を承知で、あえて差別の苛烈なアメリカ南部のコンサートツアーを敢行する。

 

だが、シャーリーの断固とした覚悟は、白人社会にはびこる、杳として全体像を掴みかねる巨大で不気味な社会通念の泥濘に搦めとられてしまう。

 

奴隷が教養と品格と才能を習得しても、主人からすれば、教養と品格と才能を習得した「有能な奴隷」に過ぎず、同格に引き上げ対等に付き合うなど、天地がひっくり返っても有り得ないのだ。

 

一方で、シャーリーが差別に対抗する武器として身に着けた高尚な素養の数々は、アフリカ系アメリカ人のコミュニティにおいては鼻持ちならない高飛車な態度として拒絶される。

 

結果、シャーリーは白人からも黒人からも疎外される、天涯孤独な立場に追い込まれてしまう。

 

シャーリーの失敗は、社会的・能力的優位が差別の解決策にならないことを如実に示す。

 

なんとなれば差別が芽吹きすくすく育つ肥沃な土壌は、侮蔑に限らず、嫉妬や反目、利害関係など、多種多様だからだ。

 

むしろ、客観的で合理的な優劣に対抗する最後の武器こそが、客観性や合理性をはねのけ踏みにじる、理不尽を本質とする差別感情なのだ。

 

シャーリーの対抗策は、火炎放射器で消火を試みるような、不毛な徒労に終わる。

 

行く先々で失意に打ちのめされるシャーリーの憔悴する姿から、傍らで何くれとなくフォローするトニーも何かを感じ取り、己の振る舞いや境遇を顧みて徐々に感化されていく。

 

彼もまた、イタリア系白人として差別される立場にあるが、彼はその立場に甘んじることなく、優れた機転と並外れた暴力で対抗する。

 

だが、それもまたシャーリーと同じ失策であった。

 

その場その場の勝利は得られるが、敗者の反感は更に強まり、反感を糧にした差別はより強硬になるという、逆効果をきたす。

 

立場は違えど、二人は差別に対する敗北者という点では同志だ。

 

同じ境遇にあるからこそ、南進する惨めな敗走の途上で彼らの心情は合流を果たした。

 

そして、差別に対抗する真の解決策に連れだって到達する。

 

それは、差別からの脱却だ。

 

二人もまた、差別主義者の見下げ果てた人間性を差別し、拒絶し、否定した。

 

あまつさえ、他のコミュニティを差別し、差別の連鎖に加担した。

 

火で火を消そうと躍起になり、己の心を含むあたり一面を焼け野原にした。

 

逆説的に、シャーリーもトニーも、彼らを差別する差別主義者たちと同じ悪意に冒されていたのだ。

 

悪意で悪意を消すことはできない。

 

それは悪意を増幅するか、あるいは取って代わるだけだ。

 

二人は、共感を入り口に、これまで拒絶していた人種や文化を受け入れ、閉鎖した悪意の食物連鎖から脱却し、晴れ晴れとした気持ちで故郷への帰路に着く。

 

彼らは、自らが打ち鍛えた差別の鉄鎖を断ち切り、解放されたのだ。

 

それは差別に甘んじるということではなく、差別に囚われない自由自在の心境を意味する。

 

ダイエットのストレスを解消するために、更に過食して太ってしまうような、本末転倒の行動に走る不合理な性質が人間にはある。

 

差別に対して差別で対抗するというのも、その不合理な性質の成せる誤謬なのだろう。

 

根拠なき理不尽な優位性への執着を差別の本質とするなら、そんな邪悪な性向を身に着けて真っ向からぶつけ合うことが、不和の解決策になるはずがない。

 

差別意識を自覚するのは非常に難しい。

 

人の振り見て我が振り直せ、の格言の示す通り、シャーリーとトニーは、差別の顕著な南部で、差別主義者たちが露呈する醜い態度を目の当たりにすることで、自分たちも同じ瘴気に汚染され、魂の髄にまで達しようとする腐敗の兆候に気づけた。

 

図らずもこの旅は、南部の差別を正す正義の旅ではなく、自覚なき自らの差別意識を反省し浄化する、懺悔の巡礼となったのだ。

 

優位にある白人が、劣位にある黒人に慈悲と寛容を示し救済するという、差別主義を美化した都合のいい予定調和を本作から読み取ることもできるだろう。

 

確かに、救いはある。

 

だが、救済者は白人ではなく、救われるのも黒人ではない。

 

本作で差別からシャーリーとトニーを救済するのは、彼ら自身なのだ。

 

それは、アメリカ特有の黒人差別主義という狭い領域の差別ではなく、人類全体を広範に冒す、難治性の遺伝病である差別意識そのものからの救済であり、より根本的で意義深い。

 

終わりに

タイトルのグリーンブックとは、宿泊場所が法的に制限されていた黒人のための旅行ガイドブックの通称だ。

 

シャーリーとトニーが乗るターコイズグリーンのキャデラックや、作中でキーアイテムとなるヒスイや、道中を彩る雄大な農園や森林の緑など、何かとグリーンが印象的な本作だが、肝心のグリーンブックのグリーンとは、執筆者の黒人郵便配達夫、ヴィクター・H・グリーンの名前だそうだ。

 

だが、白人と黒人の歴史的対立を描く社会派の作品の絵面が、概して白と黒を意識したモノトーンな色彩に陥りがちなのに対し、鮮やかなグリーンをメインカラーに据えた本作は目に新しく、ともすれば陰鬱になりがちな社会問題を扱った作品に爽快な雰囲気をもたらしている。

 

白黒つけるのではなく、どちらでもない緑へと解放される、色彩の象徴的な力を感じさせてくれる、小気味いい後味の映画。