ざっくり雑記

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だから私は貧乏なのか ~本『グローバル・スーパーリッチ 超格差の時代』~

 

本書の内容

プルトクラートと呼ばれる、上位1%の金持ちの、更に上位1%に属する、桁外れの超金持ちの実態と、プルトクラートを産んだ世界情勢を解説する。

 

みじめなミリオネア

上位1%とその他99%の人々の間に横たわる所得格差が社会の重要な関心事となり、暴動じみた過激な反対活動にまで発展する事態が世界各地で発生している。

 

世間のどこを向いても貧困が目につく昨今、その主要因である所得格差を扱うコンテンツは巷に溢れ、貧困バブルとでも言うべき皮肉な活況を呈している。

 

本書も数多沸き立つバブルの一つに該当するが、本書に出てくる金持ちは、格差という言葉が虚しくなるほど桁外れの金持ち、99%を超えた、99.99%の人々と次元を異にする超絶の富豪、プルトクラートである。

 

99%の庶民と1%の富裕層の間には、厳然とした所得格差の谷間が大きく口を開けて両者を隔てているが、1%の富裕層もまた、99%の下位の富裕層と、1%の超富裕層の間で、厳然とした所得の格差が両者を隔て、まったく別次元の階級を形成している。

 

庶民からすれば羨望と嫉妬の的であるミリオネアも、ビリオネアとの絶大な格差に打ちのめされ、羨望と嫉妬の虜となった、みじめな「庶民」を自認し、格差に苦しんでいるというエピソードには驚かされる。

 

貧困と格差が似て非なる問題である構造が本書から見えてくる。

 

貧困が生命を蝕む責苦なら、格差は精神を苛む拷問なのだ。

 

そういう意味では、ミリオネアのような中途半端な金持ちも、庶民と同じく精神の拷問に苦しむ同士と言えなくもない。

 

ミリオネアですら格差に苦しむ格差社会、それが本書のテーマである超格差社会だ。

 

プルトクラートの産みの親

では、その超格差社会の真の勝ち組、プルトクラートの出自とはどんなものなのか。

 

プルトクラートの産みの親は複数いる。

 

本書はそれぞれの親について詳しく解説しているが、中には倫理的に問題のある親もいる。

 

レントシーキングは中でも別格だ。

 

かつての資産家とプルトクラートの大きな違いは、その収入を不労所得として受け継いだ資産から得るか、ビジネスで得るかの違いだ。

 

ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグジェフ・ベゾスといったプルトクラートが、ビジネスで大成したプルトクラートの典型だ。

 

これらの成功者たちは、革新的な産業を創造し、世界に新たな価値を付与することで莫大な資産を形成した。

 

世界に存在する富の総量を増やした分を儲けとする形だ。

 

それに対し、レントシーキングは、言ってしまえば泥棒である。

 

レントシーキングの問題点は、世界に存在する富の総量はそのままで、その分け前の大半がレントシーカーに流れ込み、それ以外の大多数の人々の取り分が削られ、貧困を助長する構造にある。

 

レントシーキングの主な手法としては、腐敗した政府に縁故や潤沢な賄賂で取り入り、自分のビジネスに有利な制度を制定させたり、国有の天然資源や独占事業を格安で譲り受けるといった手法がある。

 

これらの泥棒行為はプルトクラートの懐を肥やすが、その富の出どころは国民の共有財産や日々の生活費であり、プルトクラートの繁栄に反比例して、社会の疲弊と衰退を招く。

 

政治的なインチキの利用はレントシーキングの分かりやすい実例だが、その手法は枚挙にいとまがない。

 

先述した「革新的な産業を創造し、世界に新たな価値を付与する」ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグジェフ・ベゾスも、ある種のレントシーキングに手を染め、プルトクラート以外の人々の富を不当に掠め取っている。

 

莫大な資本を背景とした物量頼みの圧倒的販売戦略や、ライバル企業の破格の買収などにより、自らが君臨する業界を牛耳り、健全な競合を妨げ、商品やサービスの選択権を消費者から奪い、本来業界全体に分配されるべき利益の大半を収奪している。

 

また、活動実態のほとんどない税率の低い国に企業を設置するといった、今ではすっかりおなじみとなった一連の租税回避の態度もまた、資本の公共性を軽視した悪質な泥棒行為と言える。

 

ビジネスの成功は、経営者や起業の努力によるところも大きいが、それもこれも土台となる社会の安定があってこそである。

 

現代では、社会の安定に責を負うのは国家であり、国家の運営には税収が不可欠である。

 

安定した社会で、企業や個人がビジネスで稼いだ金の一部が税金として国に納まり、国は税金を使って国の安定を強固に保ち、安定した社会は更にビジネスを促進するという資本の好循環が、理想的な社会の在り様だ。

 

いわば税金は社会の使用料だが、レントシーカーは社会がもたらす恩恵を人並み以上に享受しながら、そのくせ使用料をケチり、社会の繁栄につながる好循環をぶった切る、自己本位の悪質なフリーライダー(ただ乗り)といえる。

 

租税回避については、プルトクラート側にももっともらしい言い分がある。

 

曰く、革新的ビジネスで既に大きく世間に貢献しているのだから、更に高率の税金を課されるのは不当だという言い分。

 

あるいは、政府の非効率な税金の使い方が、優れた経営者の視点からすれば許しがたく、巨額の税金を無駄遣いされるよりは、自分が選んだ慈善事業につぎ込んだ方がよっぽど世のため人のためになるという言い分。

 

どちらも一見正しく聞こえるが、よくよく考えれば単に税金を納めるのが業腹なだけの、庶民と大差ない器量の小ささを自己弁護する、狭い料簡に過ぎないのが見え見えだ。

 

提供する商品やサービスでビジネスの大立者が世の中に貢献しているのは確かだが、それは所得税を支払っている納税者全員に言えることで、革新的であろうとなかろうと、仕事に貢献度の差は無い。

 

収入に応じた税率の不公平については議論の余地があるとしても、活動拠点とする国家への納税を完全に拒否するタックスヘイブンの利用といった大規模な租税回避の方策は、莫大な利益の源泉として依拠する当該の社会を安定させるために不可欠な経済的協力の拒否であり、明らかに公平性を欠く。

 

また、政府の非効率を理由に拒んだ納税分を、効率的な慈善団体に寄付したり、あるいは自ら立ち上げた慈善団体で効率的に運用することで、政府に預けるよりも資本を有効活用して社会に還元しているという言い分については、慈善事業そのものは手放しで賞賛されるべき活動であるものの、資金の投入先についてはあくまで資本家の興味関心が向くごく一部の分野だけに限定されており、本来社会全体に満遍なく分配されるはずだった税金を偏った分野に恣意的に集中投下するという、これもまた公平性を欠いた資本の私的流用にあたる。

 

そもそも民主主義社会の法治国家においては、政府の無能に不満があるならば、支持する政治家に票を投じるなりデモを張るなりハンガーストライキをするなり、正規の手順に則って改善を要求すればいいだけの話で、納税を回避するという、私財を惜しみ、尚且つ社会への公平な還元を拒否する、私利私欲を正当化する理由に政府の無能を引き合いに出すのはお門違いもいいところだ。

 

グローバル化の異常な発展により、国際企業やそのエグゼクティブにあっては、国家という枠組みを軽視する傾向が強まっているが、いくら自家用ジェット旅客機を乗り回そうとも、その燃料代の源泉は、様々な国家と、その構成員である国民であるのは否定しがたい事実だ。

 

一部のプルトクラートが莫大な資本の力とテクノロジーの恩恵で国境を無視した活動を可能にしても、その他の99.99%の人々には国家という共同体の単位は重要不可欠な枠組みだ。

 

99.99%の人々から利益を貪るだけ貪っておきながら、99.99%の人々が依拠する国家を維持する相互協力の義務からはぬけぬけと逃れ、私腹を際限なく肥やす利己主義は、社会動物である人類において、到底容認されるものではない。

 

ゆえに、租税回避もまた、合法ではあっても悪質なレントシーキングの手法なのだ。

 

だから私は貧乏なのか

レントシーキングの結果、99.99%の人々の資本はプルトクラートの銀行口座にどんどん流れ込む一方となる。

 

この宇宙では、質量がある一定の量を超えると重力崩壊を起こし、光をも呑み込むブラックホールになるが、資本にも似た性質がある。

 

ブラックホールが発見される2000年前に、既にこの性質に気づき、現代にまで通じる印象的な箴言として残した人物がいた。

 

ガラリヤの収税人で、後にキリストの弟子となるマタイである。

 

彼は今日のプルトクラートの隆盛と庶民の貧困を予見する単純明快な真理を次のように端的に表現した。

 

「持てる者は与えられ、いっそう豊かになる。だが持たざる者は、なけなしも持ちものまで奪われる」

本編より抜粋

 

有名人が有名であるがゆえにさらに名声を高める現象を指すマタイ効果の原典である。

 

この真理は名声だけでなく資本にも適用される。

 

プルトクラートはこの真理のことのほか強力な生ける証拠だ。

 

一方向性の富の寡占が加速すれば、その行き着くところは、ごく少数のプルトクラートと、その他大勢の無一文の群れとなる。

 

真綿で首を絞めるように、貧困はゆっくりと度合いを強めていき、プルトクラートが私欲を捨てでもしない限り、真綿の食い込みは深まっていく一方だ。

 

だから私は貧乏なのかと気づいても、「持たざる者」には打つ手などない。

 

貧困の自己責任論が常に一定の存在感を持つ世の中だが、本書に取り上げられた数々のプルトクラートの実例や所業を見るにつけ、自己責任だけでは到底説明がつかない貧困の一因が明らかになってくる。

 

人間の欲望に限りがないのは、いちいち科学的証明を俟つまでもない自明の理だ。

 

だが、いくら欲望に限りがなくとも、かつての世界では、技術的、制度的、社会的制約がどうしようもなく欲望の前に立ちふさがり、過度の暴走など起こるべくも無かった。

 

だが、グローバル化とテクノロジー革命が種々の制約を打ち倒し、欲望はついに檻から解き放たれたのである。

 

後はもう、次の限界に突き当たるまで、欲望は驀進するだけだ。

 

とはいえ、際限なく膨れ上がるプルトクラートたちの資産の額面を見ていると、果たして「次の限界」などというものがあるのだろうかと疑わしくなる。

 

もし仮にあったとしても、その限界に突き当たるよりも先に、私の乏しい貯蓄が早く尽きるのは想像に難くない。

 

愚痴

結局、本書を読んだ感想は、愚痴そのものとなった。

 

金持ちが悪いわけではないが、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し、度を越した欲望の解放は非難され、制限されるべき悪徳となる。

 

本書にはプルトクラートのインタビューも豊富に収録され、プルトクラートたちの世界の捉え方の一端が垣間見える。

 

もはや買えない物など何もないプルトクラートの世界に唯一欠乏しているのは、満足だ。

 

皮肉なことに、稼げば稼ぐほど不満や不安が大きくなる。

 

仏教が説く餓鬼道の地獄にプルトクラートは生きている。

 

プルトクラートが幸福でなく、そしてプルトクラートの台頭により貧困を強いられるその他99.99%も幸福でないとしたら、一体お金とは何なのかと、素朴な疑問で頭が痛くなる。

 

中庸を弁えたプルトクラートと、総中流化したそこそこに豊かな庶民が、仲良く手を取り合う平和な社会の実現までの道のりは果てしなく遠い。