ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

雲を羽織る


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急な物欲に駆られて三井アウトレットパーク入間までサイクリング。

 

天気は雲一つない快晴で最高。

 

前日にスプロケットとチェーンを徹底的に分解整備した愛車は絶好調で、控えめに言って言うことなし。

 

アウトレットパーク入間に着くや否や、お目当てのNORTHFACEのアウトレット店へ真っ先に向かう。

 

が、いきなりの行列。

 

世はまさに日曜日真っ盛りなのを失念していた。

 

シフト勤務と夜勤で曜日の感覚が死んでいた。

 

しばらくワイズロードやら他の店舗を巡ってから出直すと、行列が解消している良いタイミングで入店できた。

 

そこからたっぷり二時間、店内を隅から隅まで物色し、堪能し尽くす。

 

寒い時期のサイクリングの体温調節のために、一枚羽織る薄手でかさばらないアウターが目当てで、理想はゴアテックスの軽量アウター、クライムライトジャケット。

 

数着在庫があり、アウトレットということもあってかなり割安だったが、それでもそれなりの価格で財布のひもを緩めるには抵抗がある。

 

しかし諦めきれず、更に店内を丹念に物色する。

 

ラックにかかったジャケットの山を漁り、頭を棚に突っ込んで、奥の突き当りまで分け入る。

 

そして見つけたのが冒頭に載せた写真のクラウドジャケット。

 

ゴアテックスでありながら、クライムライトジャケットより安価な値段設定。

 

更に、型落ちのラスト一着ということもあり、同型の他品より3割ぐらい余計に安い。

 

更に更に、2品以上買うと10%割引のキャンペーンを利用して、実質半額以下で購入できた。

 

この○○品以上購入で○○%割引というのはくせ者で、欲しくもないものを無理に買って、結果トータルで支払い額が膨らむという、かえって損をするパターンに陥りやすい。

 

割引特典の利点だけ享受して、一着だけ買うより支払いを抑えるためには、購入物品の10%以下の価格の2品目を買えばいい。

 

だが、さすがNORTHFACE、そんな低価格の品物はなかなかない。

 

だがついに発見。

 

550円の赤ちゃん用靴下。

 

全く必要ではないが、これを2品目として購入し、無事トータルの支払金額を圧縮できた。

 

ちなみに靴下は帰宅途中のリサイクルショップに200円で売り、流通へ還元した。

 

さて、このクラウドジャケット。

 

購入後にネットで評判を検索したら、全体的に批判的なレビューが目につきちょっと落ち込む。

 

その原因は、品物自体の出来不出来というよりは、似たような用途のクライムライトジャケットが比較対象となってしまい、クライムライトジャケットの廉価版、極言すれば下位互換として評価されてしまっているから。

 

クライムライトジャケットはクラウドジャケットより一割強高額だが、より軽量で生地が高品質でシルエットも良いということで、差額以上の価値があるともっぱらの評判。

 

厳密には使用目的が違うので、単純な比較はできないのだが、本格的な山登りでもしない限り、普段の生活で機能の違いを意識する場面は少なく、街着として着るなら、デザインやシルエット、生地の質感など着こなしや着心地の方が重視される。

 

その点では、クライムライトジャケットの方に軍配が上がる。

 

似たような品物で、一割強余計に出費すれば、それ以上の価値を得られるなら、そちらに傾くのが人情だ。

 

とはいえ、100円の一割と10000円の一割では、文字通り桁が違う。

 

低賃金のワープアにとって、1000円の支出の増減は生死に関わる。

 

割安であっても、生活に支障をきたす許容されざる支出であるかどうか、考慮せざるを得ない。

 

その点、今回購入したクラウドジャケットのセール品は、クライムライトジャケットのアウトレット品より4割弱安かった。

 

金額にして8000円近い。

 

機能を考えると、今度は逆にクラウドジャケットの方にお得感が出て来る。

 

270グラムのクライムライトジャケットより重いとはいえ、クラウドジャケットは320グラムで、世に出回る有象無象のアウターの中ではトップクラスに軽量の部類に入り、十分に軽い。

 

というか軽すぎる。

 

まさに雲を羽織るといった着心地だ。

 

ちなみにクラウドジャケットのクラウドは、雲ではなく曇り用という意味らしいのだが、ここは勝手に雲と解釈しておいた方が気分がいい。

 

着心地についても、さすがゴアテックス、さすがNORTHFACEといったところで、クライムライトジャケットという目の上のたん瘤が無ければ、価格を考慮すると十分に許容範囲だ。

 

と、あれこれこじつけのような利点を無理くり列挙して、クライムライトジャケットになにかと見劣りするクラウドジャケットを衝動買いしてしまった軽挙妄動に何とか正当性を与えようと苦慮している。

 

やっぱり少し位無理してでもクライムライトジャケットを買った方が良かったかな、とことあるごとに後悔に襲われる。

 

相対主義は厄介な宿痾だ。

 

だが、実際にクラウドジャケットを着てみると、やっぱり着心地は優れており、買ってよかったという思いで後悔が和らぐ。

 

牽強付会を承知でクラウドジャケットの美点を挙げるなら、その名称がある。

 

クライムライトジャケットという率直だが味気ない名前より、クラウドジャケットという、大空に浮かぶ雲を想起させる命名は、軽くてゆったりとした着心地の本作の特徴を非常によく表している。

 

雲を羽織っていると思えば、山登り用のクライムライトジャケットよりいい買い物をしたと、思えなくもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

本『クモのアナンシ ジャマイカのむかしばなし』感想

 

どんな本?

ジャマイカに伝わる人頭クモ体のトリックスター、アナンシの民話集。

 

感想

AMAZON ORIGINALの海外ドラマ、アメリカン・ゴッズに登場する神々は、総じて芝居がかった大仰な語り口なのだが、中でも頭一つ抜けたエンターティナー風の長広舌を振るうアナンシ(オーランド・ジョーンズ、日本語吹替:伊丸岡篤)という神が登場するシーンは格別で、胸が踊る。

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アフリカのおしゃれ紳士・サプール風のカラフルな衣装も相まって、アメリカナイズされたくせ者ぞろいの神々の中にあってもひときわ異彩を放ち、ひとたび演説が始まれば視聴者の耳目を捉えて離さない。

 

その強烈なキャラクターは、神々の群像劇であるアメリカン・ゴッズの一登場神仏にとどまらず、その後、アナンシを主軸に据えた小説が同じ原作者・ニール・ゲイマンによって書かれている。

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ビジュアルも性格もとりわけお気に入りの神なのだが、私が知るアナンシは、ニール・ゲイマンが脚色したアナンシ、いわば二次創作だけであり、原典のアナンシに触れたことはなかった。

 

本書は、その原典に当たるアナンシの民話集。

 

とはいえ、厳密に区分するならば、本書の内容も二次創作となる。

 

アナンシの起源はアフリカだが、本書の民話は、ジャマイカに移住した人々によって語り継がれた、ジャマイカ風にローカライズされたアナンシだ。

 

そういう意味では、アメリカン・ゴッズに登場するアメリカ風にローカライズされたアナンシと、確立の経緯はさほど変わらない。

 

物語の舞台装置が南国風に置き換えられ、更には近現代の小道具も登場するあたり、原形を忠実にとどめているとは言い難い。

 

だがそれでも、アメリカン・ゴッズやアナンシの血脈に登場するアナンシの神仏像と大きな違和感はない。

 

表層はどうあれ、トリックスターの本質を共有している。

 

本書の冒頭から、アナンシはトリックスターの本領を十二分に発揮する。

 

最初の話は、トラの権威を横取りする話だ。

 

トラの権威というのは、要するに、世の中に流布するトラが登場するむかし話全般である。

 

こともあろうにアナンシは、トラが登場するむかし話の「トラ」という記述を、「アナンシ」に置き換えるようトラに持ち掛ける。

 

弱っちく小賢しいアナンシをバカにしきっているトラは、アナンシの無茶な要求を呑む代わりに、意地の悪い無理難題を吹っかけ、アナンシが四苦八苦する醜態を冷やかして楽しもうとする。

 

だが知恵者のアナンシは、機転を利かせて無理難題を見事クリアし、以降、「トラ」が主役のむかし話は、その主役が「アナンシ」に置き換わり、

 

こうして、むかし話でいつもさいごに勝つようになったのは、トラではなくクモのアナンシになりました。

(本文より抜粋)

 

アナンシにまつわる民話の起源を解説するプロローグだが、物語のメタ構造に介入して世界観を根底からひっくり返す話をトップバッターに持ってくるとは、おきて破りを本領とするトリックスターにしても大胆不敵な暴挙だ。

 

世界や物語の基盤を構成するお約束の条理を鼻にも引っかけない、極め付きのトリックスターである。

 

では、トラの権威を簒奪したアナンシが、約束された最終勝者として、トラに成り代わり世界の王者として君臨したかというと、そんなわけでもない。

 

相も変わらず貧農じみた困窮生活に喘ぎ、時に知恵を利かせてうまい話にありついても、策に溺れて痛い目に遭い、かといって反省して勤労に励むでもなく、日がなのほほんと自由気ままに生きている。

 

アナンシの支離滅裂で有耶無耶な生き様に、マーシャ・ブラウンの手に成る素朴なビジュアルはしっくりと馴染む。

 

頭のてっぺんが禿げ上がり、未練がましく残った髪は清潔感のない蓬髪、伸び放題のげじげじ眉毛に胸に掛かる髭づら、かてて加えて見るも毛深いクモの体という、胡散臭いことこの上ない風体には、王者の貫禄が宿るいかなる余地もない。

 

代わりに、トリックスターの愛嬌は満点だ。

 

恐れられるより愛されるを良しとする、反マキャベリズムの体現者には、王冠ではなくもじゃもじゃの体毛が正装として似つかわしい。

 

世界をひっくり返し、常に新鮮を保つトリックスターが、安定とは名ばかりの世界の停滞を良しとする権威を笠に着るなど以ての外だ。

 

トラの威を奪った端から放り捨て、貧しくもにぎやかな日常生活に呑気にたゆたう、そんな屈託のないしなやかな潔さが、アナンシがアナンシとして、ジャマイカに行ってもアメリカに行っても、市井の人々を惹きつけ、なぜか勇気づける所以なのだろう。

 

終わりに

クモというのは曖昧な存在だ。

 

虫のように扱われるが、厳密には昆虫ではない。

 

アナンシはその曖昧な存在であるクモの体に人間の頭をのっけて、更に曖昧さを上乗せしている。

 

デジタル化が進む一方の社会では、曖昧は駆除の対象となる。

 

だが、全てが言語化・数値化され、厳密なカテゴライズが窮まった社会に、人間が息を吐く余地はあるのだろうか。

 

クモの巣は煩わしいが、クモの巣が張る余裕も無い場所に、人が住めようはずもない。

 

アナンシはスパイダーマンのような人を救うヒーローではないが、息詰まる世界で人心に巣食う清涼剤となりうる。

 

アナンシを心の片隅に招待する余裕ぐらいは残せる生活を心がけたい。

150参る 高麗神社

秋のサイクリングに匹敵する爽快なレジャーは滅多にない。

 

気候に誘われてふらふらと目的地も決めずにサイクリングへ繰り出す。

 

分かれ道に行き当たるたびに、フィーリングで道を選ぶ。

 

行き着いたのは高麗神社。

 

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立派な鳥居。


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手水場の涎ミニドラゴン。


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疫病退散とボーナスアップとハンター×ハンター連載再開を祈願。


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ちょうど菊花展が開催中。

 

花だけの鉢より、無骨ながら可愛らしいサイズの石に根を這わせた盆栽の方が、見た目に面白みがあって好み。


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歴代の神職の住宅。

 

神社と比べて質朴な意匠。


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高麗神社公式マスコットキャラ・トライ君。

 

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駐車場で参拝客の車両を見守る謎のトーテムポール。

 

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折角だからと、近所のお寺、聖天院まで足を延ばす。

 

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ここにも謎のトーテムポール。

 

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名物の風神雷神門。

 

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仁王様かと思ったら、風神雷神だった。

 

どことなく韓流?の顔立ち。

 

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無課金勢はここまで(´;ω;`)

 

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有料コンテンツ一覧。

 

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帰り道すがら見かけたベーカリーでマスカルポーネとクロワッサンを購入。

 

サクサクがサクサクでサクサク。

 

本『大名倒産』

 

どんな本?

歳入をはるかに上回る莫大な借金を抱えた越後丹生山松平家三万石の藩財政を立て直し、大名倒産の危機から救うべく、奇遇にも藩主を継いだ庶子・小四郎の、神仏を巻き込んだ金策奮闘記。

 

感想

歳入1万両そこそこに対し、借金25万両に加え、年一割二分の利息で借金が毎年3万両増え続ける、返済の目途の全く立たない架空の藩を舞台としている。

 

江戸時代の地方財政が逼迫、あるいは実質の破綻に陥っていたという史実を元にした作品は、近年とみに見られるようになった。

 

武芸一辺倒で銭金を不浄なものとして忌避する侍に財政を委ねれば、他人任せの放漫経営になるのは当然であり、天の機嫌に出来高が左右される作物、中でも米のみに依存したハイリスクな経済構造がそこに拍車をかければ、破綻は必定、むしろ260年もの間、曲がりなりにも体裁を保ち続けたのが不思議なくらいである。

 

治安面は非常に安定した260年余りの江戸時代も、ふたを開けて財政面に注目すれば、いつ焼け落ちてもおかしくない、火勢を強める一方の火の車だった。

 

黒船来航を待つまでもなく、江戸時代の幕藩体制は、経済破綻を機に、いつ内部崩壊してもおかしくない末期状態だった。

 

この物語を、縁もゆかりもない100年以上も前の他人事として、手放しで楽しむのは難しい。

 

なんとなれば、日本の財政運営の手腕は、江戸時代の困窮という手痛い教訓があるにも関わらず、21世紀になっても全く成長することなく、江戸が260年かけて刻んだ過ちの轍を丹念になぞり、更には拡張しているからだ。

 

このブログを書いている時点で、日本の借金は約1180兆円、これに対し前年度の税収は約60兆円、GDPに対する比率も200%をはるかに超えている。

 

江戸時代と現代の貨幣価値を単純には引き比べられないが、それでも1180兆円が25万両を凌駕するのは火を見るより明らかだ。

 

事実は小説より奇なり。

 

物語の設定としてもショッキングで背筋が冷える、越後丹生山松平家の死に体の台所事情も、今の日本の窮状に照らせば、吹けば飛ぶ些事に思えてしまうから恐ろしい。

 

本作では、藩の財政を立て直すために多くの人々が死力を尽くす。

 

のみならず、神仏までもが奇縁に導かれ、人事を尽くす人々に天祐を授ける。

 

だがそれでも、大団円には苦みが混じる。

 

人事と天命が一致団結しても、借金の完済には遠く及ばない。

 

命からがら、肉を捧げて骨を守ったというのが精々である。

 

その精々のために、義理人情に篤い人々と、愛する人々に入れ込む神々が献じた粉骨砕身の努力の描写には、涙腺が冷める暇がなかった。

 

翻って我が身と現代日本を顧みれば、架空の一地方都市とは比べ物にならない深刻な危機の渦中に沈み込んでいるというのに、この呑気はどうしたものか。

 

物語を我がことのようにハラハラドキドキしながら読めるというのに、物語より過酷な現実はまるきり他人事のように平然とやり過ごしている。

 

麻痺なのか諦観なのか、この不感症の病原は定かではないが、直視を避けているのは確かだ。

 

銭金を遠ざけた侍も、同じような心境だったのかもしれない。

 

それでも侍には少なくとも徳川の世を命懸けで守る軍人という建前があり、その建前にしがみつくことで逃げ道を確保できていたが、何一つ世の中に胸を張って誇れる建前のない自分には、いよいよ立場どころか立つ瀬もなく、ただただ肩身が狭い。

 

終わりに

本作は、想像逞しくした突拍子もない物語かと思わせて、その実態は、日本が直面する途方もない財政の危機を、読者が実感できるレベルにまで翻訳した、精巧極まる現実のミニチュアだ。

 

一地方都市である越後丹生山松平家の窮状を救うだけでも、領民の捨て身の一致団結を要し、神仏の天祐を恃みにしなければならなかった。

 

果たして今の日本の窮状を救うには、いかほどの人事と天祐が必要なのか、想像もつかないし、想像しようとするだけでも怖気を催すが、いずれ来たる小説よりも奇なる現実は避けられようもなく、ただただ怯えて待つだけの小心な自分が情けない。

 

 

本『神道はなぜ教えがないのか』

 

どんな本?

宗教にして宗教らしからぬ神道の特異な性質を、他の宗教との比較を通じて解説する。

 

感想

昔から神秘的なものに惹かれるたちで、特に神社は手軽に神聖な雰囲気を味わえる施設として、お百度参りと称して何くれとなく気が向けば訪ねている。

 

お寺も教会もモスクも、その他諸々の神域にも惹かれるが、神聖な場所なのに意外と人の気配が濃厚なのが苦手で、人見知りにはハードルが高い。

 

神社には人の気配がほとんどない。

 

小さな神社や祠は言うに及ばず、常時神職が詰めている大きな神社でも、あくまで主役は祀られている神であり、神職は裏方として鳴りを潜めている。

 

余計な気配に煩わされることなく、思う存分、世俗から切り離された神秘の空間に浸る贅沢は、神社以外の神域で味わうのは難しい。

 

人里離れた深山幽谷まで踏み込めば、いかなる神域も同様に堪能できるだろうが、そこまでの労苦を忍んでまで神秘に執着するほどの思い入れも無い。

 

なぜ神社には人がいないのか、あるいは人がいてもその存在が希薄なのか、本書を読んでその謎の一部が氷解した。

 

神道以外の大抵の主要宗教には、開祖・宗祖と教義がある。

 

苦悩する衆生を救うべく、開祖・宗祖が取りまとめた神仏の真理を教え諭す教義が宗教の根幹だが、神道にはそれらが欠如している。

 

困ったときの神頼みとは言うものの、神道の神は人を救わない。

 

他の宗教の神仏や教義が救いを確約するのに対し、神道では神頼みしてもご利益があるかどうかは一か八かの賭けであり、それならそもそも神頼みならぬ運頼みと同じである。

 

神道の神は人に関心がないようで、人が道を踏み外すと雷を落としたり洪水を起こしたり、情け容赦なく虐殺に踏み切る感情豊かな他宗教の神々と比べると、明らかに淡白で素っ気ない。

 

人に無関心なので、当然あれこれ指図するわけでも人生の指針を示すわけでもない。

 

つまり学ぶべき教義が無い。

 

お参りの作法はあっても、教えは無いのだ。

 

寺や教会やモスクは、神仏を祀る祭壇としての機能に加え、教義を学ぶ場として信徒が集会したり生活したりする教団の居場所の役割を持つ。

 

ゆえに神仏の領域でありながら、実質は人のための施設であり、引きも切らさぬ人の気配に占領されている。

 

一方、神道の神社は神を祀る祭壇としての役割がメインだ。

 

それも、必要に応じてその都度儀式を催し目的の神を招くので、普段は偶像も何もない、ただのがらんどうに過ぎない。

 

以上のように、宗教というくくりで一からげにするには、神道と他宗教には根底のレベルや成り立ちの段階で越えがたい一線がある。

 

神社のがらんどうは、意図して作られたがらんどうである。

 

意図どころか、空っぽにするために積極的に多大な努力が払われる。

 

いわゆる精進潔斎や禊と言われる一連の浄化の儀式は、とことん世俗の塵埃を落とし、空白状態に場や人の在り様を整えるために、潔癖症の手洗いのごとく徹底的に行われる。

 

夾雑物を完全に排した真空にしか、神は降りないのだ。

 

私が神社に感じていた神秘性は、つまるところ、この真空の気配ということになる。

 

心が洗われるのも当然である。

 

私の心身に鬱積した世俗の垢は、気圧の法則に従い、神社に設けられた真空へと吸い込まれ、希釈されていたのだ。

 

パワースポットというよりは、エアースポットという方が的確なのかもしれない。

 

ご利益を得んがために、ごてごてと曰く有りげな装飾や調度を詰め込みがちな他宗教とは方向性が真逆だ。

 

神道の祭壇や神社も、壮麗な装飾を施し、時に華美に走る場合があるが、その中核に何もないという点は首尾一貫している。

 

神道の神は、唯一無二の絶対神を奉ずる一神教とも、一神に負わされた数多の性質を分割し分担した多神教の神とも一味違う。

 

多神教多神教なのだが、既定の神を奉じる多神教ではなく、神道の神は神話に基づく主要神はあれ、あとからあとから人間の都合と想像力で新たな神が好き勝手に追加される、拡張可能な多神教だ。

 

全国津々浦々に神社がある天神様はその典型例で、菅原道真という元人間の貴族が神に祀り上げられたものだ。

 

また、厳密には神道の神とは呼べないが、日本では色々な事物を簡単に神と呼ぶ。

 

卓越した職人やとびぬけた人気者に「神」を冠して呼ぶのに何の抵抗も無い。

 

トイレの神様もゲームの神様もSNSの神様もアイドルの神様もなんでもござれ、膏薬のごとく凡そ何にでも神を冠して不都合がない。

 

他の宗教で軽々しく神仏の肩書を濫用しようものならただでは済まない。

 

この違いは何なのか。

 

それは、コンテンツとプラットホームの違いだ。

 

グローバルスタンダードな種々の主要宗教がコンテンツならば、ジャパンスタンダードな宗教である神道はプラットホームだ。

 

コンテンツである宗教は、当然中身や内容が本質だから、厳密な教義を設け、明確な独自性を打ち出し差別化を図る。

 

他と同じであってはコンテンツである意味がない。

 

一方、プラットホームである神道には中身や内容は必要ない。

 

必要なのは、土台としての強度と、あらゆる神を受け入れる融通無碍の形式だけだ。

 

内容はプラットホームに載るコンテンツしだいであり、コンテンツの創造や規定は信徒に一任される。

 

その場合、プラットホーム自体からは、コンテンツに干渉する余計な情報を極力排することが望ましい。

 

独自の思想信条を持ち、自己主張するプラットホームなど、コンテンツからすれば煩わしいだけだ。

 

つまり、精進潔斎や禊といった儀式は、コンテンツの純粋性を保つプラットホームの自粛と自浄の機能なのだ。

 

逆説的に神道のプラットホーム的性質を証明するのが、神仏習合における神道の劣勢である。

 

仏教が日本に入ってきた当時、仏教は非常に高度な教義や儀礼の体系を構築しており、神道は太刀打ちできなかった。

 

仏教の台頭に存亡の危惧を抱いた神道は、仏教の教義体系を習い取り入れ、また合流を図り延命を試みた。

 

だが、聡明な学者たちの懸命の努力にも関わらず、神道の教義の体系化や理論化はうまくいかず、神仏習合の試みは、半ば吸収合併の形で神道の劣勢に終わる。

 

習合の過程にあっては、神道の神様が一信徒として仏教に帰依するという、にわかには信じがたい屈辱の妥協までなされている。

 

これは、そもそもプラットホームが、ありもしない内容や中身をどうにかこうにかあるように見せかけて、コンテンツになろうとする無理が祟った当然の結果だろう。

 

その反省や反動もあってか、祭政一致を図る明治の時代には、神仏判然令に端を発する廃仏毀釈運動により宗教レベルの極端な精進潔斎が実行され、神道はコンテンツである仏教から半ば力づくで剥離・純化され、再びプラットホームとしての自覚と立場を取り戻す。

 

現代では、世界を牛耳らんばかりの勢力を誇り、GAFAと並び称される四大国際企業(GoogleAppleFacebookAmazon)は、どれもプラットホーム事業を基幹としている。

 

プラットホーム事業が先端のビジネスとして隆盛を極める中、日本は明らかに後塵を拝しているが、歴史を遡れば、GAFAに先んじること優に1000年、神道という由緒正しいプラットホーム事業が日本では草の根レベルで既に確立し、もはや一心同体となっている。

 

情報発信・通信テクノロジーが長足の進歩を遂げ、グローバル化が進行する一方で、多種多彩な文化が混交し、思想信条や利害関係は細分化の一途を驀進して、多様化の猛進には歯止めが利かなくなっている。

 

いきおい、マクロレベルの文化や文明の衝突は個人のミクロレベルまで降下し、分断の裂け目はより広範に、更に微細に、そして一層深く人類に食い込み、重症化しつつある。

 

価値観の統一を至上とする既存宗教の在り様は、時代に逆行しており、分断を促しこそすれ、収拾には不向きだ。

 

多様化に干渉せず、促通を図るプラットホーム事業の隆盛を目の当たりにするにつけ、統合失調的混沌が極まった現代こそ、融通無碍の寛容な形式であらゆる概念を受容し祀り上げ神仏と成す、万能のプラットホームとしての神道が活躍する絶好の時代ではないかと思えてくる。

 

終わりに

かねてより言葉にできなかった神道へのあやふやな親近感や依存の理由を明確に言語化してくれた本書のお陰で、長年の胸のつかえがようやく取れた。

 

神道という宗教らしからぬ宗教の本質への理解が少し深まり、今度からはよりすっきりした気分でお参りできそうで、今から楽しみでしょうがない。

本『影響力の武器』

 

どんな本?

人心に強力に作用する言葉遣いや話運びの技法を、社会心理学の見地から詳細に解説する。

 

感想

どこかで聞いたような凡百の心理テクニックを集約したエンタメ本の類かと思いきや、良心や道徳といった、読者の善性を問う恐怖の一冊。

 

本書に挙げられた、相手の思考・信条に大きな影響を及ぼすテクニックの数々は、どれも仕組みは簡単で、営業職や講演者といった、話術を日常の商売道具とする口上手な人なら、大した訓練を積まずとも即日実戦投入できそうなお手軽なものばかり。

 

中には、本書で知るより以前から、いつの間にか自然と体得し実践していた、あるいは他人が実践していたのを体感していた、日常の一部と化したありふれたテクニックもある。

 

巷に出回る類書の大半は、紹介するテクニックを用いて甘い汁を吸うことを夢見る野心家をターゲットにし、テクニックがもたらす莫大な利益を看板に掲げ購買意欲を煽っているが、本書の立ち位置は真逆で、そういったテクニックを濫用する野心家たちの手口を周知し、餌食となる実直な人々が効果的に自衛できるよう、啓蒙する守護者の立場をとる。

 

だが、取り扱うテクニックの内容に違いはない。

 

むしろ著者の的確な分析や明快な解説のおかげで、野心家がテクニックを習得するにしても非常に有用な指南書となっている。

 

故に、著者の意図がどうあれ、本書は読む者の性根次第で善にも悪にも力強い味方となる。

 

著者は、取り上げた様々なテクニック全般に引っ掛かりやすい、いわゆる「カモ」を自認し、読者にも文中の端々で、再三に渡り注意を呼びかけ、具体的な対処法を伝授する。

 

だが、本書自体が「影響力の武器」で武装している点は見過ごせない。

 

テクニックは悪用されれば恐ろしいが、正しい意図で用いられれば、素早く効果的に知識や思想を知らしめる有用極まりない利器だ。

 

テクニックの危険性を指摘しつつ、そのテクニックを存分に振う自身の行いは完全に棚に上げているところを見るに、著者は自身の意図を「正しい」と思っているのだろう。

 

だが、比喩としての「武器」であろうと、実際の「武器」であろうと、武器を持つ人間の大半は、自身の判断を正しいと信じて武器を使う。

 

歴史を振り返れば、生物兵器だろうが毒ガスだろうが、果ては核兵器だろうが、少なくとも建前上は「正しい目的」のために使用された。

 

だが、その結果が正しかったの否か、数十年、数百年たっても、明確な裁可は下っていない。

 

そもそも事象の善悪に明確な白黒をつける完璧な基準などないのだ。

 

世界各地に無数に点在する法廷で日々繰り広げられる飽くなき侃侃諤諤の議論から、幼児たちが砂場でおもちゃを取り合ういたいけな口論まで、正しさの証明が難しい証拠を探すのに苦労はない。

 

完璧な正しさがいまだ普及どころか発見・発明すらされていないのなら、我々が行動を起こす際にできることは、精々正しくあろうと、冷静沈着に物事に向き合い、学び得た道徳や良識を参照し、恐る恐る慎重に事を運び、少しでも不正や悪に傾かぬよう気を付けるくらいだろう。

 

果たしてそんな理想的な態度を常に保てる人間がいるのだろうか?

 

ナイフや銃を持ち歩けば、何かの拍子に深い思慮もなく衝動に駆られ誰かを傷つけてしまう可能性が付きまとう。

 

「大きな力には大きな責任が伴う」のは、世界を救う蜘蛛男だけでなく、庶民全般に適用される普遍の真理なのだ。

 

そして、言葉というのは、この世で最も軽くどこにでも持ち運べる武器の代表格だ。

 

本書のテクニックは、その武器の破壊力を飛躍的に向上させる。

 

「バカ」や「アホ」といった幼稚な罵詈雑言ですら、殺し合いの発端として十分な破壊力を持つというのに、それがさらに強化されるのである。

 

一度脳に刻まれた知識を消すのは難しい。

 

そして、その知識を利用して甘い汁を吸ったのなら、その快感を忘れるのは尚更に困難を極める。

 

ゆえに、本書は読者の善性を問う恐怖の本となる。

 

自衛のために持ち始めた武器が、いつしか誰かを傷つける凶器になるのはままある悲しい皮肉だ。

 

善悪の彼岸を分かつ境界は、本書を読むことで格段に越境しやすくなる。

 

誘惑に弱い人間にとっては、悪へ向かう急勾配の下り坂にすらなりうる。

 

読み終わったとき、あるいは手にした「影響力の武器」が及ぼした取り返しのつかない破局に立ち会ったとき、軽々に手を出してはならない知識がこの世にはあると思い知るだろう。

 

終わりに

本書を読むきっかけは、メンタリストDaiGo氏の動画だった。

 

彼が薦める本の一冊だったわけだが、本書を読んだ後に思い返すと、まんまとDaiGo氏の「影響力の武器」にしてやられ、行動を操作された結果だったと気づき、ほぞを噛んだ。

 

人心分析と操作誘導のエキスパートであるメンタリストの手練手管には舌を巻くばかりだが、そのメンタリストですら、専門とする言葉について、一部の人々の心を傷つける失言によって舌禍に陥り、謝罪を余儀なくされる手痛い失敗を喫している。

 

情報の普及効率が格段に向上した昨今、メンタリストに限らず、日々出遭う人々、街角ですれ違う人々の誰もが、ナイフや銃もかくやの言葉の魔力で武装する世界に我々は生きている。

 

ナイフや銃を規制する法はあっても、メンタリストですら手を焼く言葉の魔力に対する抑止力は実質皆無の現状にあっては、本書がもたらす「影響力の武器」を行使する権限と結果についての責任は、全て持ち主の理性に帰属する。

 

恐るべき武器が、正しい判断を下せる優れた理性の持ち主の手中だけにあるのを願うのは、無い物ねだりの極みと知りつつ、恐ろしさを知るからこそ、そう願わずにはいられない。

 

映画『ワンダーウーマン1984』

 

どんな映画?

才、色に加え、武まで兼ね備えた万能の女性ヒーロー、ワンダーウーマンガル・ガドット)ことダイアナは、考古学者として人間社会に溶け込み、日夜人々の平和を守っていた。

 

虚栄に溺れた落ち目の実業家、マックスが手に入れた恐ろしい力が発端となる、文明崩壊の危機にワンダーウーマンが立ち向かう。

 

感想

ガル・ガドットによるガル・ガドットのためのガル・ガドットワンダーウーマン

 

名作が数年~数十年の時を経て別キャストでリメイクされることはままあるが、おそらく未来永劫、ガル・ガドットを越えるワンダーウーマンは出てこないと予感させるハマり具合。

 

ガル・ガドットを見てからワンダーウーマンの実写化が企画されたのではと、制作過程の前後逆転を疑うレベル。

 

陸海空を縦横無尽に駆け巡るアクションは剛勇無双の迫力でありながら、殺伐としたヒーローアクションに陥らず、巻き込まれた人や、果ては敵にすら情けをかける繊細な優しさがバトルスタイルに一貫し、他のヒーローものとは一線を画す。

 

投げ縄が主武装って、考えるとすごい。

 

待望の新兵器も空飛ぶ鎧だし、とことん武器を排除している。

 

真実の縄を用いたスイングアクションは、スパイダーマンのそれを彷彿とさせるが、スパイダーマンが慣性に任せた完全な振り子運動なのに対し、ワンダーウーマンは振り子運動に加え、空気を踏みしめて空を駆けるアクションが付け加わっている。

 

泥臭くあか抜けない所作だが、スパイダーマンのスムーズなスイングには無い張り詰めた力強さがあり、ワンダーウーマンを優美を売りにするステロタイプな女性ヒーロー像から差別化する個性を与えている。

 

また、スパイダーマンが摩天楼の隙間を縫いながら移動するのに対し、ワンダーウーマンは遮るもののない大空を駆けるという点で対照的だ。

 

雲海と雷光を背景に、全身のバネを躍動させ、長い手足を存分に振り回すガル・ガドットからほとばしる野生には、ただただ見とれため息を漏らすばかり。

 

単なるブランコ運動をここまで迫力あるアクションに洗練した、DCコミックスマーベルコミックスの相互インスパイアの長年にわたる切磋琢磨の歴史を想うと胸が熱い。

 

歌って踊れるドラゴンボールと化したヴィランとの、一筋縄ではいかない決着は、少々綺麗ごとすぎるきらいもあるが、ヴィランの心理を丁寧に追う描写のおかげで、すとんと胸落ちし嫌味がない。

 

一歩間違えればC-3POのコスプレになってしまいかねないあのゴールドアーマーを着こなすガル・ガドットに敵うヴィランなどなかなか想像できない。

 

1984という意味深な数字からして、統制社会がテーマかと思いきや、全然ビッグブラザーが出てこなかったのでちょっとびっくり。

 

終わりに

蘇ったダイアナのかつての恋人、スティーブ(クリス・パイン)が宇宙へ行く伏線ががんじがらめに張り巡らされまくっていたに、そのすべてを引きちぎってダイアナと決別し、物陰で消滅を匂わせるシーンが、いろんな意味で切ない。

 

宇宙博物館とか人工衛星とか、思わせぶりが過ぎる。

 

無茶苦茶期待してしまった分、尚更別れのシーンの切なさが際立った。

 

それとも、既に制作が決定している次回作で今作の伏線が消化されるのか、今から期待が膨らむ。