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風をつかまえた少年

 

風をつかまえた少年(字幕版)

風をつかまえた少年(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

自作の風力発電機と灌漑設備で、干ばつに喘ぐ貧しい農村を救った少年の、実話を下敷きにしたノンフィクション映画。

 

アフリカの最貧国の一つ、マラウィが舞台。

 

以前読んだ「FACTFULNESS」で、世界の貧困や食料不足は解消されつつあるデータが提示されていたが、「されつつある」だけで、貧困や食料不足の地域はいまなお厳然と存在している。

 

主役であるウィリアムは、廃材で風力発電機と灌漑設備を作るのだが、廃材を調達するゴミ捨て場すら閑散として物が無く、真の貧困のすさまじさと恐怖をまざまざと実感する。

 

筋書きというかことの顛末自体は、小学校低学年の道徳の教科書に載せてもいいくらいシンプルでわかりやすい、科学の効用を称賛し、地に足の着いた実学を推奨する内容だ。

 

なんなら本記事冒頭の、「自作の風力発電機と灌漑設備で、干ばつに喘ぐ貧しい農村を救った少年」という一文だけでも、概要とメッセージを把握するには十分かもしれない。

 

しかし、シンプルなストーリーと構成に反して、映画自体は非常に濃い。

 

アフリカの熱く乾いた大地と、厳しい自然と貧困の渦中で呻吟する人々の生活を、生々しく描写する。

 

象徴的なのは、葬式の場面で現れる奇妙な扮装の一団だ。

 

葬式はキリスト教の形式なのだが、それとは別に、おそらく土着の信仰に基づく儀式として、奇妙な扮装の一団と、村の代表者の面会が執り行われる。

 

幼児や人外を模した仮面を着け、ギリースーツのようながさがさとした蓑で全身を覆い、高下駄を履いて踊りながら、どこからともなく列をなし行進してくる集団は、はっきり言って不気味だ。

 

奇妙な集団に関する明確な説明は無く、対面する村人たちの態度も曖昧で、この集団がどのような存在で、儀式の意味は何なのか、マラウィの習俗に詳しくない視聴者には最後まで杳として知れない。

 

日本における獅子舞とかなまはげみたいな、特定の祭祀の特別な扮装なのかと思いきや、何でもない日常の場面で道端にいきなり座り込んでいたりしていて、見ている方はぎょっとする。

 

葬送の象徴が日常生活に溶け込むほど、マラウィには死が当たり前になっているという表現なのかと安易に解釈したくなるが、映画の出来からすると幼稚な解釈で、どうもしっくりこない。

 

もしかしたらこの集団は、自然の摂理の象徴なのかもしれない。

 

自然の摂理は干ばつや飢饉で容赦なく人々に苦痛と死をもたらす一方で、発電機やポンプのような科学の形態で人々に快適や恵みをもたらす。

 

死も科学も、元を質せば自然の摂理であり、常に人々とともに存在する。

 

自然の摂理を神や精霊といった目に見える奇妙な超常存在としてかたどる文化があるが、マラウィもその一つかもしれない。

 

奇妙な扮装の集団が、自然の摂理の具体である神や精霊だとしたら、人々の態度が曖昧だったのも頷ける。

 

自然の摂理は人々に厳しくも優しくもなく、ただそこにあるだけの環境なのだから、嫌悪も歓待も、そのほかのどのような態度もふさわしくない。

 

科学の効用を称賛する映画として素直に受け止められないのは、この映画のメインテーマが、科学ではなく、より根底に横たわる自然の摂理だからなのだろうか。

 

科学がテーマなのに、観終わるとなぜか敬虔な気持ちになる不思議な映画。