ざっくり雑記

ざっくりとした雑記です

僕はマリトッツォの中


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今日も今日とてマリトッツォ。

 

前から気になっていたヤマザキのマリトッツォを購入。

 

ホイップクリームオレンジピールの組み合わせは、濃厚なクリームの脂っこさが柑橘の爽やかさで解消され、後味が軽くて最後まで口が重くならず美味しく頂けた。

 

形が崩れないようにケーキとかやわらかいクリーム菓子に巻かれる保護用のビニールの帯があるが、本商品も同様の帯で保護されている。

 

本商品の場合はそれがビニールではなく、かなり強固なプラ板となっている。

 

背の高い不安定な形状なのに、肝心の胴体部分が丸ごとやわらかいクリームという、大量輸送の現場からすると悪夢のようなデザインを無理やり流通に乗っけた力技に感動した。

 

世間の流行はいざ知らず、個人的なマリトッツォブームは今少し継続しそう。

 

後はひたすら腹回りとの相談だ。

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映画『ベイビー・ドライバー』

 

 

 

どんな映画?

強盗組織の元締めドク(ケヴィン・スペイシー)に弱みを握られ、強盗の片棒を担がされる天才ドライバー、ベイビー(アンセル・エルゴート)。

 

恋人との平和な生活を夢見て足を洗おうとするも、凶暴な強盗メンバーの起こしたトラブルに巻き込まれ、事態は悪化の一途を辿っていく。

 

感想

音楽とアクションが混然一体となって相乗し、観客の興奮を煽る。

 

主役であるベイビーの傑出したリズム感覚が音楽とアクションの間を取り持つ完璧な触媒となっている。

 

音楽や歌に合わせたセリフと大げさなダンス調の身振りで感情の起伏やストーリーの盛り上がりを強調するのがミュージカルの手法だが、そこには一歩間違えば不自然さが入り込み興醒めを催す演出上の難しさがある。

 

スマホ内蔵の音楽アプリは言うに及ばず、TVの天気予報のBGMや、スーパーマーケットの宣伝放送や、街宣車の勇ましい戦時歌謡風の演歌などなどetc、例を挙げればキリがないほど音楽は日常に飽和し、むしろ静寂の方が希少な時世だが、現実世界では、ミュージカルのように状況と感情にマッチした音楽がタイミングよくBGMになる場面に遭遇する機会は意外と少なく、裏を返せばミュージカルがどれだけ現実離れした舞台設定かがよくわかる。

 

ポータブル音楽プレイヤーが普及したおかげで意図的にミュージカル的状況を自作し気分を昂揚させるハードルもかなり低くなったものの、楽しくなったらアップテンポな楽曲、哀しくなったらセンチメンタルな楽曲、などという風に、いちいち状況と感情に照応した音楽を流すために、スマホやプレイヤーを操作して選曲の手間をとるのも本末転倒の感がある。

 

だが本作では、主人公ベイビーの天涯孤独の生い立ちと強盗の援助を強制される過酷な状況の設定がその不自然さを緩和し、ミュージカル的演出を日常と融合させ、不自然さを見事に払拭し、ミュージカル的演出のメリットである扇情効果のみを最大限に活かす。

 

ベイビーは幼い頃に両親を事故で亡くし、自身も耳鳴りの後遺症を負う。

 

耳鳴りを抑えるために常にアイポッドやラジオで音楽を聴き続け、果ては日常で録音した音声素材をサンプリングして作曲しているほどだが、それは歌手だった亡き母親への満たされない思慕を癒す思い出のよすがでもあり、単なる耳鳴り症状の鎮静剤以上の重要な意味を持つ。

 

音楽が正常な生活に不可欠の日用品になったことで、ベイビーの普段の挙動も否応なく音楽の影響を受け、ちょっとしたコーヒーの買い出しで街中を通り過ぎるだけでも、ミュージカルの一場面を彷彿とさせるパルクールじみた大仰なパフォーマンスが交ざるアドベンチャーになる。

 

そして音楽の影響が最も顕著なのが、本作の見どころでもあるドライヴィングシーンだ。

 

まだ自身は待機状態にある強盗作戦のスタート時点から、ベイビーはシチュエーションにマッチした音楽を神経質に選曲し、秒単位で頭出しのタイミングを調整し、少しでも予定や調子が狂うといちいち頭出しをやり直したり、あるいは見るからに動揺したりするほどそのこだわりは強く、もはや依存症の様相を呈する。

 

だが、選曲がリズムと合致すれば、普段は内向的でどこか頼りなげなベイビーが、古今無双の超絶ドライヴァーへ変貌する。

 

雲霞の如く群がり追いすがるパトカー軍団を、BGMと一体化した華麗なドライヴィングテクニックと独創的な機転で切り抜け疾走するカーチェイスシーンは、極めて痛快で気分が高鳴る。

 

タイヤが路面を切りつける金切り音や、ベイビーにまんまと誘導されて衝突する警察車両の激突音までが、アップテンポのビートと一糸乱れず同調し、音楽とビジュアルと効果音が混然一体となり、次元を異にする芸術表現へと昇華される。

 

惜しむらくは、自分にアメリカ音楽の文化的素養(というかそもそも音楽自体に関する素養)と、歌詞を理解する英語力が欠けているせいで、曲の雰囲気以上の面白さを感じ取れなかった点である。

 

作中で、ベイビーが聞いている音楽や立ち寄った店で流れている曲の歌詞を、登場人物たちが会話の中で引用するシーンは分かりやすいのだが、それ以外のシーンでも明らかにシチュエーションにオーバーラップする選曲がなされているのだろうなあと、朧げに分かるシーンも多々(というか全編)あり、本作に丹精込めて満載した製作者の行き届いた心遣いを十全に堪能できなかった歯がゆさが残る。

 

そういった観客の無教養を差し引いても十分楽しめるのだから、映像と音楽と演技の調和の度合いは群を抜いている。

 

冒頭で華麗に警察の包囲網を潜り抜けるスマートなカーチェイスシーンと対照的に、ストーリーの進行とともに、ベイビーのドライヴィングはどんどん荒々しくなり、クライマックスではいよいよ血生臭いヴァイオレンスへ達する。

 

前半では、躱し・避け・去り行く、「逃走」のドライヴィングが、後半では打ち・壊し・殺し尽くす、「闘争」のドライヴィングへと180度の転換を遂げる。

 

前半で人目を避け素性を隠していたサングラスをクライマックスでは取り去り、代わりにそれまで見えなかった眼差しを殊更強調した大写しのカットインで、闘争心むき出しの凄絶な覚悟を露わにしているのも、変心のコントラストを際立たせる分かりやすい表現だ。

 

それまで流されるままに凶悪犯罪の片棒を担ぎ、困難な状況から実際的にも比喩的にも「逃走」していた気弱な青年が、かけがえのない恋人デボラ(リリー・ジェームズ)を守るため、人殺しすら厭わない「闘争」へと身を投じる心境の変化が、ドライヴィングの様相の変化と、そして当たり前のようにBGMとシンクロし、最終的には観客もその昂揚に心情を重ね、思わず腰が浮きそうになるほど物語に吞み込まれる。

 

苛烈なまでの変心を遂げたものの、芯のところでは心優しいベイビーが、情状酌量を得て罪の割に短い刑期を終え、かつて幻視した恋人とオープンカーが出迎える安寧に満ちた幸福な風景が実現するラストシーンは、炎と血と車の激突に満ちた地獄絵図からの落差もあって、心の底から二人の幸せを願わずにはいられなくなる。

 

終わりに

音楽好きでも何でもないのにこれだけ音楽の力に圧倒され楽しめる作品なのだから、音楽好きだったら一体どれほどの感動を得られたのだろうかと、残念でならない。

 

悪役も、含蓄のある一筋縄ではいかない曲者ぞろいで、音楽に負けず劣らずストーリーを盛り上げ、シンプルなケイパー映画に見応えのある厚みを加える。

 

中でも、悪辣で冷酷無比な強盗組織の元締めドクが、へまをやらかしたベイビーを無情にも突き放して見捨てようとしたところ、恋人と寄り添う彼を見て、何の琴線に触れたのか、情にほだされ心変わりし、命がけで二人の逃避行をサポートする超展開には一瞬面食らったが、なぜか違和感なく受け入れられてしまったのは、キツネにつままれた気分だ。

 

これも音楽の成せる業か。

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骨身でも音楽は楽しめる

スーパーマリトッツォブラザーズ


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以前、マリトッツォを購入したベーカリーで、新作を発見したので早速購入。

 

hyakusyou100job.hatenablog.jp

前回はイチゴジャムに生クリームというシンプルな中身だったが、今作はチーズクリームにココアパウダーをあしらったイタリアンスイーツ風。

 

値段はそこそこしたが、相応しいボリュームで見るからに期待を煽る。

 

チーズクリームは濃厚でおいしかった。

 

が、食後のデザートしてはやや重く、しばらく胃もたれに悩まされる。

 

他にも新作が陳列され、続々と兄弟は増えているようなので、今度は準備万端体調を整えてマリトッツォに挑む心構えを固める。

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映画『シン・ゴジラ』

 

 

どんな映画?

突如東京湾から現れた巨大生物・ゴジラが日本へ上陸し、放射能をまき散らしながら都市を蹂躙する。

 

危機に瀕する日本は、政府主導の下、ゴジラに立ち向かう。

 

感想

特撮の怪獣映画をまともに鑑賞するのは本作が初めて。

 

「特撮怪獣映画」という日本固有の映画ジャンルが確立されるほど歴史があるだけに、特有の「お約束」を熟知していればさらに楽しめたのだろうと薄々わかるほど、制作者の作品に対する愛というか執念をひしひしと感じる描写が目白押し。

 

その上で、題名にもなっている「ゴジラ」の影はなぜか薄い。

 

正確には、存在感はものすごいのだが、生物であるにも関わらず、そこにあるはずの意図や感情が希薄なのだ。

 

どんな単純な生物だろうと、むしろ単純な生物ほど、その意図や感情はシンプルで分かりやすく、挙動や行動からその内心は読み取りやすい。

 

だがゴジラの行動原理は終始不可解なまま物語は進行する。

 

もちろんゴジラには何かしらの意図や、あるいは単純な感情・激情があるには違いなく、周囲の状況に応じて行動や対処を変えるのだが、その反応はどこか受動的で主体性に欠け、プログラムに沿って動くロボットじみている。

 

なので、ゴジラは人類の敵として憎悪の対象となる悪役ではなく、淡々と対処すべき災害としての側面が強調される。

 

本作におけるゴジラは主役ではなく、ものすごく存在感の濃い背景美術、あるいは舞台設定に留まる。

 

では本作の主役は何かというと、それは登場人物全員、そして人々が属する組織や共同体、それらから成立する抽象度の高いシステムとなる。

 

都市を蹂躙し放射能をまき散らす災害と化したゴジラの侵攻を食い止め駆除すべく、大勢の人々が一致協力して対処に当たる。

 

そこには数えきれないほど大勢の人間が関与してくるが、続々と物語に参入してくる人々には、登場の際に、必ずと言っていいほど所属部署と肩書と名前のキャプションが付される。

 

物々しく、大抵は長ったらしい所属部署と肩書と名前のキャプションの総量はおびただしく、さらに次から次に矢継ぎ早に表示されるので、刻々と激変する物語を追いながら、怒涛の勢いで押し寄せる文字情報まで読み取り把握するのは難しい。

 

更にそこへきて、土地や場所の名称まで加わるから始末に負えない。

 

対策会議や参謀本部が置かれるテントや会議室の名前まで懇切丁寧にキャプションされるに至っては、もはやキャプションが表示されていないシーンを探す方が難しい。

 

そのわずらわしさは、詳細を極める役所の書類手続きに通ずるものがある。

 

それは恐らく偶然の一致ではない。

 

本作ではゴジラに対処する大きな難関の一つとして、複雑で煩雑で非効率な役所の手続きがフィーチャーされ、プロセスが一つ一つ丁寧に描かれる。

 

登場する政治家や官僚、公務員や関係各位は、(本来あり得ないことだが)誰をとっても有能な人材で、目から鼻に抜けるやり取りは見ている方が時に追いつけなくなるほどスピーディで爽快なのだが、何をするにしてもいちいち上司や関係部署に確認や許可を求め、組織の序列を介して指示を伝言ゲームで伝達する描写が幾重にも差し挟まれ(そしてそのたびにキャプションが付され)るので、最終的なアウトプットは非常にまどろっこしくもどかしいものになっている。

 

勇ましいBGMと歯切れのいい編集でリズミカルに描かれているので中だるみは一切しないが、実際のタイムスケールに直したら、緊迫した状況に反比例した、相当に間延びしたじれったいやり取りになっているはずだ。

 

二時間前後という短い枠に起承転結を納めなければならない映画にとって、どのシーンを採用してどのシーンを削除するかという編集は、作品の出来を左右する死活問題だ。

 

巨大な組織内の冗長な上意下達や膨大なホウレンソウの詳細など、真っ先に割愛されるリストラ対象の筆頭だが、本作ではそのリストラ対象が主役級の好待遇を得て、長尺を占有する。

 

総理大臣と米国との電話外交を介在する、ほんの数秒しか画面に映らない通訳の名前をキャプションに起こし、その存在をクローズアップした映画は、寡聞にして聞かない。

 

更に更に、細かい描写はいよいよ顕微鏡レベルに及ぶ。

 

ゴジラ対策に政府が本腰を入れ、対策本部が設置される場面では、対策本部が置かれる会議室に椅子や机、PCやコピー機や電話、ホワイトボードやマーカーといった文房具類が運び込まれ、折り目正しく配置される過程が差し挟まれる。

 

総理大臣が会見を開く直前の場面では、誰とも知らぬ職員がロッカーからクリーニングのビニール袋に包まれた総理大臣用の防災服を取り出すシーンが差し挟まれる。

 

「神は細部に宿る」というクリエイター界隈の格言があるが、それにしても本作は細部に対するこだわりが殊更強く、さらにそれを明確に前面に押し出し、臆面もなく強烈に主張している。

 

細部に宿る八百万の神々をいちいち舞台の中央に引っ張り出し、尺をとり手間をかけて大写しにして観客の眼前に突き付けるのだ。

 

 そこに浮かび上がるのは、ゴジラと拮抗するもう一体の怪獣、「人類」の生理だ。

 

本作の本質は、まさに怪獣VS怪獣であり、「シン・ゴジラ」は怪獣しか登場しない、純粋真正の「怪獣映画」なのだ。

 

個体生物である人間が、法律や慣習や文化という結着材によって構造化され、民族や国家、果ては「人類」という最大のくくりの巨大な群体生物=怪獣として、相乗した巨大な力を発揮し、怪獣ゴジラを封印する。

 

物語はゴジラの謎の生理機能を解明し、急所を探り当て対策を練る過程をつぶさに描き出すが、同時に、「人類」という群体生命の生理機能も並行してつまびらかになっていく。

 

多細胞生物は、高度に分化した細胞や特定の機能に特化した器官の活動の、一糸乱れぬ協調があって初めて成り立つ。

 

それは、国家という高度に組織化された集団においても同様だ。

 

構成員にはそれぞれ明確化された職分と職位と職責が割り振られ、(基本的には)横槍や頭越しの指示による混乱を排した秩序だった構造から国家は成り立つ。

 

法律やルールは個人の行動を厳格に制約するが、一方で不適切な個人の刹那的判断を排除し、ばらばらになりがちな各位の行動に統一性をもたらし、国家機能の安定性を補強する。

 

構成要素が増えれば増えるほど、要素ごとの役割は見えにくくなるが、見えにくくなるだけで不要になるわけではなく、むしろ全体の総量からすると些細な分量の欠損も、全体の崩壊を招く雪崩現象の起点となりかねない。

 

先に出した通訳の件では、通訳内容に誤りや不明瞭な部分があれば、国家間の連帯に支障をきたし、ひいてはゴジラへの有効な対策の実行計画を破綻させ、人類の破滅を招いていた可能性も十分ありうる。

 

そういった意味では、通訳もまた物語に欠くべからざる主役と言え、それはその他全ての登場人物、あるいは非登場人物、つまり全ての人間に当てはまる。

 

もとより細部へのこだわりが強いことで知られる監督ではあるが、本作ではそのこだわりの根底にある愛までが作品に反映され、表出され、メインを張るまでになっている。

 

現実の抽象でしかありえない創作物を、現実へ近づける弛まぬ勤勉な努力と、秀逸な表現手法が組み合わさったことで、「シン・ゴジラ」は他に類を見ない稀有の作品となっている。

 

一方で、特撮映画らしい現実離れした外連味あふれるシーンも盛りだくさんである。

 

瞠目したのは、無機物の描写だ。

 

本来主役であるはずのゴジラの感情表現が抑制され、背景や舞台設定に留まる反面、背景や舞台設定そのものである都市の建造物や交通機関といった無機物に、あるはずのない意図や感情が与えられ、更には荒ぶる神のごとく大暴れする。

 

怪獣映画では、高層ビルや観光名所、公共交通機関をはじめとする巨大建築物・構造物は、怪獣たちの巨躯と破壊力の引き立て役として、並び立てられ、なすすべもなく無残に破壊される、一方的な被害者だった。

 

長年にわたり数えきれないほど製作された特撮怪獣映画の本数を考慮すると、破壊された建築物の数はいよいよ膨大なものになる。

 

本作では、本来命も意思も持たず、怪獣たちに無抵抗に虐待されるだけのそれらの無機物群が、積年の鬱憤と怨恨を晴らすかの如く、ゴジラを執拗に追い詰める重要な役割を総出で担う。

 

丸の内の摩天楼は、仕掛けられた爆弾や米軍の艦載ミサイルの爆撃により自壊し、倒壊する自らの質量でゴジラにのしかかり動きを封じてキルポイントに固定する。

 

怪獣映画のセオリーなら、高層ビル群はゴジラの侵攻に鎧袖一触、粉砕の憂き目に遭う、ゴジラの縦横無尽の機動力を際立たせるだけの小道具なのだが、本作ではあべこべにゴジラの機動力を封じる拘束具として、見事なしっぺ返しを喰らわせる。

 

また、従来の作品では、足に引っかかった草のように蹴散らされる電車群も、本作では爆弾を満載した特攻部隊としてゴジラに襲い掛かり、足止めする快挙を成し遂げる。

 

特に在来線爆弾がゴジラに群がり炸裂するシーンでは、恐らく物理的にはあり得ない挙動で在来線がゴジラの巨躯を駆けのぼり躍りかかり、その欣喜雀躍としたダイナミックなうねりには、あるはずのない歓喜の感情が明瞭に読み取れる。

 

度重なる執拗な攻撃により、ついに消耗の限界に達したゴジラは東京駅に倒れ込むが、東京駅の建物に首を食い込ませた様子は、断頭台に据えられた死刑囚を思わせ、散々東京を蹂躙してきた「ゴジラ」という存在の介錯を、東京の代表として東京駅が務めるようにも映り、感慨深い。

 

かように本作は、これまで脇役や背景にとどまっていた存在をクローズアップし、スポットライトを当て、持ち味を存分に活かしてスクリーンとストーリーを彩る。

 

これだけ多数の要素に見せ場を用意しているのに、作品の焦点が一切ぼやけず、むしろさらに鮮明になっているのは、ただただ驚異である。

 

ゴジラの凍結が完了した瞬間に、関係者が快哉を叫ぶのではなく、静かに緊張を解き、安堵のため息をつくという演出も心憎い。

 

なぜなら、ゴジラの凍結は一連の大禍の終結ではなく、一段落に過ぎないからだ。

 

スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。

今度も立ち直れる。

(劇中より抜粋)

 

このセリフに象徴されるように、ここまでは「スクラップ」の段階であり、ここから、スクラップに費やされたものとは比べ物にならない時間と労力と資源と、何より根気を要する「ビルド」の段階が待っている。

 

何事も後始末が大変なのは世の常であり、ゴジラが登場した冒頭から事後を意識したセリフやシーンが事あるごとに差し挟まれるのは、単なる心配性の取り越し苦労ではなく、度重なる戦禍や災禍にも挫けずに生き延び、そこから活力を引き出してきた筋金入りの未来志向の風土が、人々のDNAにしっかりと染み付いているからだろう。

 

一方で、不穏な気配は完全に払拭されてはいない。

 

ゴジラは死んだわけではなく、ただ凍結しているだけで、いつ何時復活するともしれないのだ。

 

更にラストシーンで、ゴジラの尻尾の先端から、人型の何かが今にも飛び出しそうな勢いで生えてきている。

 

意味深な造形であり、深堀すればキリがなさそうだが、少なくとも吉兆ではなさそうだ。

 

そんな不穏極まりない、東京のど真ん中に鎮座した冷凍ゴジラの膝元で、人々は復興に取り組んでいく。

 

常に災厄の気配が身近にあるのは非常に凶悪なストレスだが、本来、災厄というものはいつ何時襲い掛かってくるか分からない予測不可能な現象であり、普段意識していないだけで、危険性は常在している。

 

忘れたころにやってくる天災は言うに及ばず、兼ねてよりゴジラが象徴する放射能大量破壊兵器、環境破壊などの科学の負の側面も、我々自身に仇なす諸刃の剣として生活に溶け込む油断ならない大敵として常にそばに控えている。

 

普段意識しないが確かに在る尊いもの、あるいは恐ろしいものを総ざらいした映画として、単なる特撮怪獣映画の枠に収まらない、啓蒙の怪作。

 

終わりに

企業ブランド好きとしては、いちいち企業ロゴが画面のセンターで大写しになるのは嬉しい限り。

 

日常にあふれかえっているせいであまり意識しないが、大企業のロゴは洗練されたデザインの秀作ばかりだ。

 

その意識下に沈没してしまったデザインの美しさをサルベージする庵野監督の手腕と、ディテールへ注ぐ比類なき愛には感謝してもしきれない。

 

企業ロゴに限らず、意識下に沈没してしまった日常風景の美しさというものが、本作には溢れんばかりに盛り込まれている。

 

庵野監督の目に写り込む、世界の詳細な美しさの片鱗だけでもおなか一杯になってしまう、本当に眼福な作品だった。

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口から毒を飲ませるという、よく考えるととんでもない作戦

 

147参る ご神木の健康寿命


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しばらく神社から足が遠のいていたので、サイクリングがてらお百度参りに出向く。

 

巨大な石木が好きなので、以前にも参った樹齢1400年超の御神木が祭られている神社を訪ねる。

 

毎度毎度御神木を目にするたびに畏敬の念に囚われて敬虔な気持ちになるが、よくよく見てみると、枝葉を打ち枯らし上部の幹を失った立ち姿は痛ましい。

 

樹勢回復の処置を施した旨の説明を記した看板があったが、健康な状態にはとても見えない。

 

永き時を閲して地域を見守ってきた貴重な御神木にいつまでも健在で居てもらいたい気持ちは理解できるものの、一方で、寿命を迎えつつある生命を周囲の都合で無理やり延命するのも酷な気がする。

 

医療福祉の領域では、単純な寿命から、健康な状態で過ごせる健康寿命の延伸を図る方針が重要視されてきているので、それが神仏の領域にまで拡大して適用される日もいつか来るのだろうか。

 

20年で建物を総とっかえする伊勢神宮式年遷宮みたいに、人工物だけでなく、特別な役割を負託した自然の石木についても、寿命が来たら引退して静かな余生を送ってもらえるよう、穏やかな代替わりのシステムがあればいいと思いつつ、147度目のお百度参りをつつがなく終える。

 

一時は鳴りを潜めた暑熱も勢いをぶり返し、真夏の暑さが再来する。

 

夏の深い青空と隆々とした白雲のコントラストの妙をもう一度拝めたのは行幸

パイン&ヨーグルトフレンチ


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パインジャムとヨーグルトクリームを突っ込んだフレンチトースト。

 

何処からこんな発想が飛び出してきたのか想像に苦しむが、美味しかったのでどうでもよくなった。

映画『TENET』

 

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  • ジョン・デイビッド・ワシントン
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どんな映画?

時間を逆行するテクノロジーを悪用し、世界の破滅を目論む武器商人・セイター(ケネス・ブラナー)の陰謀を阻止すべく、名も無きCIAエージェント(ジョン・デイビッド・ワシントン)は相棒のニール(ロバット・パティンソン)とともに、時間の流れが混沌と入り乱れる困難なミッションに挑む。

 

ついでにセイターに息子を人質に取られ、虐待されても夫から逃げられない彼の妻・キャット(エリザベス・デビッキ)も救っちゃう。

 

感想

伏線という手法の模範的なお手本といっていい映画。

 

正直、巡行する時間と逆行する時間が溶け合う筋書きは、スピーディな展開もあって頭の中で整理が追い付かず、過負荷で脳から煙が吹く場面も少なくなかった。

 

だが、一つ一つのシーンは、時間を逆行するという物語の設定上、後に出てくるシーンと必ず地続きの逆転した因果関係にあり、後になって先に出てきたシーンの意味が分かるという、伏線の構造は非常に明確になっている。

 

しっかり整理がつけば、これほどわかりやすい伏線の描写は他に無い。

 

次々と現れる一見して異様な光景も、物語が進むとその発端となる起点が必ず提示され、異様な光景に行き着く筋の通った顛末が判明するので、その瞬間「なるほど!」と膝を打つ謎解きの快感が次から次に波状に押し寄せる。

 

通常撮影の映像と逆回しの映像が一つの画面上で一体化したシーンの数々は、観る者の固定観念を未知の感覚で揺さぶり、慣れるまでは何とも言い難い酩酊感を催させる。

 

人間、ある程度の齢を重ねれば、大抵の出来事は積み重ねた経験則から敷衍してさほど戸惑わずに対処できる「不惑」の境地に至る。

 

それは日常生活において、いちいち驚異に囚われて気が動転する危険性が低減した状態として望ましい境地である反面、何もかもが似たような出来事の焼き直しに思えてしまう退屈な境地でもある。

 

本作の映像表現は、その退屈に陥った不惑の境地にあっても、なお驚異に度肝を抜かれる斬新な表現が目白押しとなっており、一種の幼児退行の快感を体感できる。

 

堅く硬く固く、ゴリゴリに凝り固まった脳みそを乱暴に解きほぐしたい手合いにはうってつけの映画だ。

 

個人的に好きな女優であるエリザベス・デビッキが出ていたのは思わぬ収穫だった。

 

抜群に背の高い細身の美女が大好物な手合いにもうってつけの映画だ。

 

デビッキより背の高い人間が彼女と並ぶシーンは無く、彼女の背の高さがより強調されており、背の高い女性好きの琴線の在処をよく心得た演出が随所で光る。

 

そして彼女を虐待する武器商人・セイタ―の極悪ぶりも、いい意味でとてもおぞましく、背筋が凍る。

 

世界の破滅という破綻した野望を抱く荒唐無稽で気宇壮大な設定の悪役の癖に、妻を虐待する場面は妙に地に足のついたリアリティがあり、現実のドメスティックバイオレンスを取材したドキュメンタリーのよくできた再現VTRを見せられているような、目をそむけたくなる嫌悪感を催す。

 

特に、妻を痛めつけるために、日常使いの何の変哲もない革のベルトの穴にカフスボタンを取り付けた、即席の割に非常に攻撃力の高そうなDV用具を準備する場面は、そのDV用具が引き起こす惨劇の様相が容易に想像できてしまい、続きを見るのが怖くなった。

 

「身の回りの日用品で、お手軽簡単に快適虐待ライフ!」というキャッチコピーがどこからともなく聞こえてきそうな、この世でも最悪の部類に入るライフハックである。

 

こんなセイタ―家の裏技は、ずっと裏のままにしていてほしかった。

 

ストーリーについては、登場人物たちの「覚悟」がメインテーマの一つになっている。

 

時間の逆行現象を利用することで、登場人物たちは疑似的な未来予知を可能とする。

 

だがそれは、確定した運命への直面も意味する。

 

もし辛く苦しい未来を知ってしまったら、人はどうするのか。

 

タイムスリップをテーマにした創作の中には、未来を変えられるものもあるが、本作の設定では未来は変えられない絶対のものとして扱われる。

 

ゆえに、確定した未来について、人々がどのように感じ、行動するかが見どころとなる。

 

その点で、主人公側と悪役側の選択は見事な対照を成す。

 

辛く苦しい未来に対抗する武器は「覚悟」だ。

 

特にクライマックスで、主人公の相棒ニールが見せる「覚悟」は、物静かだが凄烈で胸を打つ。

 

未来の情報は有益だが、意識しすぎると振り回されてかえって対処を誤る場合もある。

 

それを踏まえ、あえて未来の情報を避ける訓戒として、「無知こそ武器だ」というセリフをニールはたびたび口にするが、果たして彼が自分に訪れる恐ろしい運命に対しても「無知」だったのか、クライマックスのどこか達観した晴れ晴れとした笑顔を見ると疑わしくなる。

 

主人公もそれを知りながら、結局何も教えずに見送るシーンは、大義のために過酷な運命を厭わない壮絶な覚悟が二人の中で燃え滾る、静かながら濃密な情感を含む名シーンとなっている。

 

終わりに

複雑極まりないプロットと斬新な映像表現を駆使した二時間半の映画は、初見ではまずまともに理解しきれない。

 

だが製作者は、観客にそのような完全な理解を期待してはいないようだ。

 

頭で考えないで

感じて

(作中より抜粋)

 

 主人公に時間の逆行現象についてレクチャーする科学者が、戸惑う主人公に告げるアドバイスは、主人公の戸惑いにシンクロする観客に向けたアドバイスにもなっている。

 

本作は、複雑で難解なプロットや奇妙奇天烈な映像表現を使うことで、観客の狭苦しく固定された理解の枠組みを破壊し、その外に広がる純粋な感性の領域へ連れ出してくれる。

 

 理解しよう理解しようと足掻く、小賢しい理性の執着を手放して観れば、ただただ面白い娯楽映画として楽しめる傑作。

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空港での四次元柔道は見ごたえあり