映画『TENET』
どんな映画?
時間を逆行するテクノロジーを悪用し、世界の破滅を目論む武器商人・セイター(ケネス・ブラナー)の陰謀を阻止すべく、名も無きCIAエージェント(ジョン・デイビッド・ワシントン)は相棒のニール(ロバット・パティンソン)とともに、時間の流れが混沌と入り乱れる困難なミッションに挑む。
ついでにセイターに息子を人質に取られ、虐待されても夫から逃げられない彼の妻・キャット(エリザベス・デビッキ)も救っちゃう。
感想
伏線という手法の模範的なお手本といっていい映画。
正直、巡行する時間と逆行する時間が溶け合う筋書きは、スピーディな展開もあって頭の中で整理が追い付かず、過負荷で脳から煙が吹く場面も少なくなかった。
だが、一つ一つのシーンは、時間を逆行するという物語の設定上、後に出てくるシーンと必ず地続きの逆転した因果関係にあり、後になって先に出てきたシーンの意味が分かるという、伏線の構造は非常に明確になっている。
しっかり整理がつけば、これほどわかりやすい伏線の描写は他に無い。
次々と現れる一見して異様な光景も、物語が進むとその発端となる起点が必ず提示され、異様な光景に行き着く筋の通った顛末が判明するので、その瞬間「なるほど!」と膝を打つ謎解きの快感が次から次に波状に押し寄せる。
通常撮影の映像と逆回しの映像が一つの画面上で一体化したシーンの数々は、観る者の固定観念を未知の感覚で揺さぶり、慣れるまでは何とも言い難い酩酊感を催させる。
人間、ある程度の齢を重ねれば、大抵の出来事は積み重ねた経験則から敷衍してさほど戸惑わずに対処できる「不惑」の境地に至る。
それは日常生活において、いちいち驚異に囚われて気が動転する危険性が低減した状態として望ましい境地である反面、何もかもが似たような出来事の焼き直しに思えてしまう退屈な境地でもある。
本作の映像表現は、その退屈に陥った不惑の境地にあっても、なお驚異に度肝を抜かれる斬新な表現が目白押しとなっており、一種の幼児退行の快感を体感できる。
堅く硬く固く、ゴリゴリに凝り固まった脳みそを乱暴に解きほぐしたい手合いにはうってつけの映画だ。
個人的に好きな女優であるエリザベス・デビッキが出ていたのは思わぬ収穫だった。
抜群に背の高い細身の美女が大好物な手合いにもうってつけの映画だ。
デビッキより背の高い人間が彼女と並ぶシーンは無く、彼女の背の高さがより強調されており、背の高い女性好きの琴線の在処をよく心得た演出が随所で光る。
そして彼女を虐待する武器商人・セイタ―の極悪ぶりも、いい意味でとてもおぞましく、背筋が凍る。
世界の破滅という破綻した野望を抱く荒唐無稽で気宇壮大な設定の悪役の癖に、妻を虐待する場面は妙に地に足のついたリアリティがあり、現実のドメスティックバイオレンスを取材したドキュメンタリーのよくできた再現VTRを見せられているような、目をそむけたくなる嫌悪感を催す。
特に、妻を痛めつけるために、日常使いの何の変哲もない革のベルトの穴にカフスボタンを取り付けた、即席の割に非常に攻撃力の高そうなDV用具を準備する場面は、そのDV用具が引き起こす惨劇の様相が容易に想像できてしまい、続きを見るのが怖くなった。
「身の回りの日用品で、お手軽簡単に快適虐待ライフ!」というキャッチコピーがどこからともなく聞こえてきそうな、この世でも最悪の部類に入るライフハックである。
こんなセイタ―家の裏技は、ずっと裏のままにしていてほしかった。
ストーリーについては、登場人物たちの「覚悟」がメインテーマの一つになっている。
時間の逆行現象を利用することで、登場人物たちは疑似的な未来予知を可能とする。
だがそれは、確定した運命への直面も意味する。
もし辛く苦しい未来を知ってしまったら、人はどうするのか。
タイムスリップをテーマにした創作の中には、未来を変えられるものもあるが、本作の設定では未来は変えられない絶対のものとして扱われる。
ゆえに、確定した未来について、人々がどのように感じ、行動するかが見どころとなる。
その点で、主人公側と悪役側の選択は見事な対照を成す。
辛く苦しい未来に対抗する武器は「覚悟」だ。
特にクライマックスで、主人公の相棒ニールが見せる「覚悟」は、物静かだが凄烈で胸を打つ。
未来の情報は有益だが、意識しすぎると振り回されてかえって対処を誤る場合もある。
それを踏まえ、あえて未来の情報を避ける訓戒として、「無知こそ武器だ」というセリフをニールはたびたび口にするが、果たして彼が自分に訪れる恐ろしい運命に対しても「無知」だったのか、クライマックスのどこか達観した晴れ晴れとした笑顔を見ると疑わしくなる。
主人公もそれを知りながら、結局何も教えずに見送るシーンは、大義のために過酷な運命を厭わない壮絶な覚悟が二人の中で燃え滾る、静かながら濃密な情感を含む名シーンとなっている。
終わりに
複雑極まりないプロットと斬新な映像表現を駆使した二時間半の映画は、初見ではまずまともに理解しきれない。
だが製作者は、観客にそのような完全な理解を期待してはいないようだ。
頭で考えないで
感じて
(作中より抜粋)
主人公に時間の逆行現象についてレクチャーする科学者が、戸惑う主人公に告げるアドバイスは、主人公の戸惑いにシンクロする観客に向けたアドバイスにもなっている。
本作は、複雑で難解なプロットや奇妙奇天烈な映像表現を使うことで、観客の狭苦しく固定された理解の枠組みを破壊し、その外に広がる純粋な感性の領域へ連れ出してくれる。
理解しよう理解しようと足掻く、小賢しい理性の執着を手放して観れば、ただただ面白い娯楽映画として楽しめる傑作。