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フォードvsフェラーリ

 

フォードvsフェラーリ (字幕版)

フォードvsフェラーリ (字幕版)

  • 発売日: 2020/04/01
  • メディア: Prime Video
 

 フォード視点で描かれているのでフォード側に自然と感情移入してしまうのだが、やってることは一本筋の通った企業理念と職人気質の熟練工の一局特化した技術で頑張っている地方の中小企業を、巨大資本がその圧倒的な経済力と無尽蔵のマンパワーを結集して力業で蹴散らすという、資本主義社会に蔓延する弱肉強食の構図そのもの。

 

深い因縁を予感させるようなシンプルながら思わせぶりなタイトルではあるが、ビジネス戦略で小兵であるフェラーリの策略に引っかかってまんまと出し抜かれ、安っぽいプライドを傷つけられた大企業の二代目ボンボン社長およびその取り巻きたちの幼稚な意趣返しというのが実態である。

 

実際に矢面に立つ現場スタッフにはフェラーリに対するレースの手ごわい競争相手以上の思い入れはなく、むしろあれこれと的外れな口出しをしてきて現場を混乱させ足を引っ張りまくる上層部に対する反感の方が勝っているくらい。

 

池井戸潤だったら確実にフェラーリ側を悪の大企業フォードに立ち向かう正義の立ち位置に据えた物語にしただろう(タイトルは下町フェラーリ)。

 

現実では大番狂わせなどなく、本気を出した大企業が中小企業に後発分野のレース事業においてわずか二年で追いつき勝利するという至極順当当然な結果に終わってしまい、ここだけ切り抜くと意外性もカタルシスもない。

 

その至極順当当然な顛末なのに面白いのは、レースの中核であるドライバー兼メカニックのケン・マイルズに焦点を当てた構成になっているからだろう。

 

本作でのケンは、レースの純粋性を象徴する人物として描かれる。

 

優秀なドライバーであり腕のいいメカニックでもあるケンは、車に関しては一切の妥協を許さない堅物であり、そのせいで対人関係においては軋轢が絶えないひねくれ者として周囲からは厄介者扱いされている。

 

歯に衣着せぬ辛辣な舌鋒と、顔面筋を総動員して極限までひん曲げた小憎らしい表情、そして世間に背を向けてほっかむりを決め込んだような猫背が、彼の気難しく協調性を欠いた人間性をこれ以上なく体現しており、ここにクリスチャン・ベールの徹底した表現力がいかんなく発揮されている。

 

だが周囲が理解に苦しみ手を焼くケン自身は、あきれるほど単純な動機に基づいて行動しているだけの、いっそ実直といっていい人間である。

 

彼はただテクノロジーが許す限りの良質な車を作り、その性能を完全に引き出して誰よりも速く走らせたいだけなのだ。

 

ケンからしてみれば、複雑で、厄介で、奇妙奇天烈で、支離滅裂なのはケンを取り巻く無数のしがらみに毒された環境の方であり、理不尽を強要する強大な同調圧力から、大切な信念と理想を守るための自衛手段として強硬な態度を貫かねばならない過度の緊張状態を常時強いられているケンは、一種の被害者といえる。

 

それが証拠に、車に乗っている時と、モータースポーツに対する純粋な愛情を共有する息子と語らう時だけは、彼の表情や物言いから屈託がなくなり、穏やかでまっすぐな心情が清流となって流れ出る。

 

また、ビジネス上の付き合いであるシェルビーとは頻繁に衝突を繰り返すが、本作のクライマックスで、ケンの信念を尊重し社の方針に反逆したシェルビーに対し、彼の立場を立ててレーサーとしては屈辱的な決断も辞さない、ケン本来の気質と思われる共感者への献身的で情に厚い一面ものぞかせる。

 

この世界が多数の部品からなる巨大な機械だとしたら、ケンは非常に正確な設計に基づき精密に製造され丁寧にメンテナンスされた歯車であり、一方で彼に隣接するのは歪んで磨り減り油の切れた粗悪な歯車ばかりで、ゆえにかみ合うはずもなく不具合をきたし耳障りな不協和音を響かせているのだが、粗悪な歯車が圧倒的多数派であるために、ケンのほうが不良品扱いされているというのが、この世界の皮肉な真相なのだ。

 

本作の真のテーマは、純粋vs不純なのかもしれない。

 

そう捉えてみると、ケンが迎える悲劇的な結末が、世界と調和できない究極の純粋さに待ち受ける必然の宿命のようで、額面以上の哀愁を催させる。

 

ただ、待ち受ける結末にもかかわらず、純粋さを追い求めた卓越の果てにたどり着く、この世のありとあらゆる夾雑物を置き去りにした澄み切った世界、本作でいうところの7000回転の先にある世界のすばらしさと比べれば、そんなものは憂慮するまでもない些事なのだと実感できる映画だった。