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ドリームガールズ

 

ドリームガールズ (字幕版)

ドリームガールズ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 実在の黒人女性歌手グループのメンバーの自伝をモデルにしたミュージカル映画

 

映画の面白さを決定する重要な要素の一つにリアリティーがあるが、ミュージカル映画はその本質上、ある種のリアリティーを最初から潔く放棄したファンタジーである。

 

そもそも人は日常会話の途中から急に歌いださない。

 

この決定的なリアリティーの欠如、完全なるファンタジーの前提を所与の条件として認識し、受容できるか否かが、ミュージカル映画の好き嫌いが分かれる所以ではないだろうか。

 

だが本作では水と油であるはずのファンタジーとリアリティが、脚本と演出と、何より歌の力を媒介として見事なまでに融和している。

 

いかに素晴らしい楽曲でも場面にそぐわなければ、セリフの一部を歌に置換するという大前提を無理矢理優先するミュージカル映画のご都合主義が鼻について興ざめを免れない。

 

とはいえこれは克服しがたい難題だ。

 

会話の途中で急に歌いだすのがふさわしい状況自体が自然界にはまず存在せず、現実にそんな場面に居合わせたら、意表を衝くだけの悪い冗談としか感じられない。

 

イタい愛情表現の典型として、恋人に自作の愛の歌を贈る行為があるが、それを想像すると、歌というものが想いを伝える手段としてどれだけ日常生活に導入しづらいかがわかる。

 

ミュージカル映画は、歌と歌でない部分が互いをスポイルしてしまう危険性を高い濃度ではらんでいる。

 

だが、ミュージカル映画、ひいては本来の形式である素のミュージカルというものが古来より作られ上演され続けているという歴史がある以上は、ごく一部の物好きに響く特殊な癖ではなく、一般的な感性にも訴えかける普遍的な魅力や表現上の利点があるはずだ。

 

本作のすばらしさは、そのミュージカルが持つ普遍的な魅力にある。

 

言葉は想いを伝える非常に有効な手段だが、その表現の力の源はテキストだけではない。

 

口から発する声を介した言語には、純粋なテキストから生じる言語的な意味だけでなく、ボリュームの大小や音程の高低や抑揚の強弱やピッチの遅速から生じる非言語的な意味が多分に含まれ、むしろ優勢だといってもいい。

 

テキストを持たない動物たちが、息遣いや鳴き声や唸り声や咆哮だけでも十分に情報や感情をやり取りし、コミュニケーションに支障が無い事実からは、声に含まれる非言語的な要素の必要十分以上の表現力がうかがい知れる。

 

歌というのは、その非言語的な表現力をテキストに上乗せして強化し、効率よく発揮する、人類が長年をかけて練り上げた技巧なのだ。

 

恋人が愛を歌うのも、演歌が哀愁を歌うのも、ロックが反抗を歌うのも、歌が様々な思想や感情を強調し、ただ話すよりも歌い手の心を的確に表出すると同時に、聴衆の心に強く訴えかけるからだ。

 

効果的に想いを表現する会話や演説の技術も多々あるが、そこには一定の限界がある。

 

歌はその限界を超え、時に別次元の表現手法になりうる。

 

観客の感情への訴求を目的とした演劇や映画が歌を取り入れるのは必然の帰結といえる。

 

本作において歌が会話に混ざっても不自然ではなく、むしろ必然と感じ違和感なく感動に浸れるのは、登場人物が感極まり、単なる会話では万感の想いを表現するには力不足となる、絶妙のタイミングで会話が歌に移行するからだ。

 

メーターを振り切り、認識不可能な境地に踏み込んだ強烈な喜怒哀楽や愛憎を認識可能な形式に落とし込み、そのエネルギーを余すところなく観客の心に届ける不可欠のコンバーターとして、歌の効能が遺憾なく発揮されている。

 

感情の表現に特化したミュージカルの醍醐味を酸いも甘いもバリエーション豊かに味わえるように、本作が描くのは素朴な成功物語ではなく、もっと複雑に込み入った一筋縄ではいかない様々な人生の交錯であり、そこに現れる歓喜も憤怒も哀愁も享楽も情愛も憎悪も、それらが入り混じった曖昧模糊とした感情も、これでもかというほどふんだんに盛り込まれている。

 

正直、ソウルもR&Bもロックも判別がつかない、音楽に関してはど素人だが、音楽そのもの、歌唱そのものが持つ原初の力を本能で実感し、登場人物の心情とシンクロして感動を覚えた。

 

 日常会話が歌に転じるというファンタジーが、感情面のリアリティーをより鮮烈にする様が堪能できる。