ざっくり雑記

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解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

近代医学の基礎の確立に大きく貢献した解剖外科医の伝記、というよりもはや伝奇。

 

千年以上も前の古代人が打ち立てた無益どころか有害ですらある非科学的な医療理論を、たとえ患者の命が危険にさらされようとも墨守する医療こそが正統とされ、万人が疑問を抱かなかった18世紀のイギリス医学界に、真正面から渾身の右ストレートをぶち込むような、豊富な解剖の実践によって得た科学的知見に基づきセンセーショナルな医学や生物学の膨大な理論を打ち立てた、血と腐肉にまみれた知の巨人の濃厚すぎる一生を、多岐にわたるおびただしい逸話や功績の数々を綿密な調査に基づく膨大な資料からの引用を駆使して詳細に述べ綴り、医学史における再評価を迫る大著。

 

解剖学や外科学は、現代医学界の重要な一角を担う欠くべからざる分野だが、本書の主役であるジョン・ハンターが生きた十八世紀においては、内科学を頂点とする医学ヒエラルキーの底辺に属する下っ端仕事だった。

 

その背景には、当時のイギリス社会や医学界を陰に陽に支配していた歴史や文化、宗教の大きな存在があったのだが、一方で、衛生概念の欠如が招く感染症による死亡率の高さや、麻酔の無い中、患者が生きたまま肉体を切り裂かれる強烈な苦痛に耐えねばならない、そして時には耐えきれず死に至ることも稀ではなかった拷問・殺害同然の手術といった低劣な医療技術の水準を含む、実際的な面も小さくなかった。

 

その最悪の時代背景にあって、ジョン・ハンターは現代医学では当たり前となっているが当時としては異端であった、科学的手法の医学への導入を、周囲の圧力や無理解を跳ね除け押し返し、精力的に推し進めた。

 

こう書くと、ジョン・ハンターが高尚な理想を掲げ、迷妄と因習に雁字搦めにされて実効性に乏しかった医療分野の改革に貢献した高潔な知識人のような印象を受けるが、実のところ、それは彼が一生を捧げ探求した生命の真理へ至る研鑽の道の途上で必然的に発生した副産物、いわば余禄のようなものだった。

 

生命を支える基礎の原理の解明こそが、死体を墓場から盗掘し、あるいは絞首台から同業者を押しのけ強奪し、腐肉と腐臭にまみれながら腑分けし、生体実験で少なからぬ生き物を殺し、時代を百年単位で先駆ける画期的な概念や理論を次から次に提唱し、のちに一個の博物館を建てるに至る数多の解剖標本や奇形の標本の蒐集に邁進した、ジョン・ハンターの並外れた行状の行動原理をなす、生涯を懸け追求したテーマだった。

 

そして死体解剖は、その目標達成に欠かせぬ最も重要で有益な手段だった。

 

現代の整った環境においても死体解剖というのは、検体の入手の困難さや技術的な面といった実際的な問題もさることながら、死体特有の気味の悪い雰囲気や解体に伴うグロテスクなヴィジュアルとの接見、防腐剤等の薬品臭や腐臭など、精神的・生理的な抵抗感も生半可ではなく、総体として庶民が接するには高い壁が存在する縁遠い作業である。

 

死体を適切に保存する技術もなく、劣悪な衛生状態、というか衛生という概念すら無く、死体を解剖することが文化的に忌み嫌われていた時代にあってはなおさらハードルの高い仕事であったろうことは想像に難くない。

 

だがそんな黎明期の解剖医にとって暗黒時代真っただ中のイギリスにありながら、ジョン・ハンターは抑えきれぬ生命への探求心に衝き動かされ、何千という人畜を問わない死体を犯罪的な手段も辞さず掻き集め、切り刻み、標本を作り、人体や生命の構造や機能を当時としては驚異的な精度で解き明かしていったのだ。

 

黎明期と書いたが、その黎明をもたらしたのがジョン・ハンターだったといっても過言ではないだろう。

 

驚くべきは200年以上前に、すでに現代にも通用する電気による除細動や人工呼吸理論の元型、果ては人工授精の実践までしていたというから、その先見の明と言うにも控えめな、まるで未来を見てきたかのような慧眼と実体化能力の凄まじさがうかがい知れるが、何よりも惜しむらくは、こういった医療水準どころか科学全体の水準を数段飛ばしで向上する革新的理論や実用性の高い技術が、論敵や政敵、そして単なる敵の攻撃や、周囲の無理解や反感によって封殺され、近年まで日の目を見ることなく、あるいは無情にも破棄や管理不行き届きの紛失の憂き目に遭い、結果としてそのかなりの部分が医学の発展に寄与せずに終わったという、甚だ嘆かわしい境遇である。

 

その原因として、野卑で攻撃的で歯に衣着せぬ物言いを辞さなかった彼の人柄や性格、そして自他ともに認める言語表現力の低さが招いた説明の不備や誤解があるだろう。

 

だが、言語表現力の低さに関しては、先天的な資質の他にも要因があるかもしれない。

 

彼が膨大な解剖や実験から必然的に導き出した数々の科学的原理はあまりにも時代から先行しすぎており、当時のイギリス文明が所有していた語彙を総動員しても、それらの超先進的概念を適切に表現するものが無かったということも考えられる。

 

十八世紀の日常語や技術用語で、DNAやGPSiPhoneやドローンを、当時の人々に文化的・宗教的反感を抱かせず、十分に理解してもらえるよう説明できるかは甚だ疑問である。

 

とはいえ、彼自身の業績は十分に世間に浸透しなかったにしろ、ジョン・ハンターという人物自体が時代に与えた影響は決して小さくなかった。

 

彼の交友関係には、世界史の教科書のレギュラーメンバーに名を連ねる偉人も数多く、昨今猖獗を極めるウィルス災禍に直接対抗できる数少ない手段の一つであるワクチン理論の発明者・エドワード・ジェンナーが、ジョン・ハンターの薫陶を受け、科学精神を受け継いだ愛弟子だったことだけを取り上げても、その世界規模の影響力の大きさがうかがい知れる。

 

本書は、発展した現代科学の尺度を当てはめて初めて正当で適切な評価が可能となった知の巨人の業績を振り返る貴重な資料だが、もしかしたら、彼が到達した、彼自身ですら明確には表現しえなかった知の境地の真価は、現代の尺度を以てすら、まだ十分に測り知れないのではないかという懸念はぬぐい切れない。

 

禅に、鳥が卵を割って孵るとき、内の雛が殻をつつく音を察知して外の親鳥がつついて殻を割り雛を外に出す、息の合った絶好のタイミングを意味する啐啄同時という言葉があるが、ジョン・ハンターのケースはその逆を行く、雛であるジョン・ハンターが必死に殻をつついたにもかかわらず、時代という親鳥が応えず、雛が殻の中で飢え死にした啐啄異時の悲劇の一例かもしれず、今この瞬間にも、殻をつついて必死に存在をアピールしながらも、みすみす時代から無視され飢え死にし、数百年後に殻の中の干からびた死体が発見されるだけに終わるであろう鬼才の数々に思いを馳せると、なんだか無性に歯がゆい気分になる。