ざっくり雑記

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自分を読む……本『聖書男』

概要

現代ニューヨークに住むフリーライターである著者が、聖書の教えを、書いてある通りに忠実に実践した一年間の生活についてつぶさに綴るドキュメンタリー。

 

余計に迷える子羊

世界一のベストセラーである聖書は、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖典であり、その信仰生活の基盤には聖書があり、規律と秩序が支配している。

 

……というのが門外漢の勝手なイメージだが、本書に描かれる聖書に従う人々の信仰生活は、そんなイメージから遠く離れている。

 

規律や秩序はおろか、著しく統一感を欠く、世にも奇妙な混沌そのものである。

 

なんといっても、聖書は千年以上も前に記された本であり、押しも押されぬ古典中の古典である。

 

その内容が現代とそぐわないのも無理はなく、現代の社会常識や倫理観では到底理解できなかったり、許されないような記述も多々ある。

 

2000年前の価値観や決まり事を現代社会に無修正で持ち込もうものなら、天国の門をくぐる前に、刑務所や精神病院の門をくぐる羽目になる。

 

そこで信者には、聖書の内容のどれを文字通りに実践し、どれを比喩として解釈してその真意に沿う活動を実践するかといった、聖書の記述を独自に消化する作業が必須となる。

 

だが、聖書の記述は難解なものが多く、その正しい翻訳に挑んだ先人の解釈も千差万別で多岐に渡り、「これが正解」という決定版は無い。

 

迷える子羊を導く道しるべとなるべき聖書が、現代社会では、迷える子羊たちを余計に迷わせるという、皮肉な一面を持つ。

 

著者を含め、聖書に従う信徒の誰もが、聖書の記述に従い、神の思し召しにかなった、宗教的に正しい生き方を実践し、神の国を目指す。

 

だが、教えに誠実に向き合い、厳密を求めれば求めるほど、個人間の解釈や実行能力の差が如実に前面に出て、いざ実践の段階となると、それぞれが別々の宗教を信奉しているように、似ても似つかぬ大きく異なった活動となって現れる。

 

信仰心が強いほど、差異に対する拒絶反応は強まり、似通った人々が結束を固める一方、違う人々との溝は深まり、分断が生じる。

 

信仰を標準化し、信者の団結を促す指標として生み出された聖書が、教会や派閥の際限のない分断の原因になっているのを見る神様の心中はいかなるものか。

 

そんな混沌とした現代聖書事情の渦中に頭から飛び込み、真に正しい聖書の教えを求め、神秘の求道者たちを訪ねて教えを請い、信仰と疑念の間を揺れ動きながら果敢に実践に励む著者の遍歴は、それ自体が一種の神話の様相を帯びる。

 

著者は一介のジャーナリストとして、終始一貫した批判精神を念頭に堅持し、宗教的熱狂に吞まれぬよう一定の距離を置き冷静な分析に努める一方で、信仰に心身の一切を委ねて生きる、選択のわずらわしさや迷いから解放された心地よさにも安らぎを見出す。

 

自分を読む

ともすれば、聖書の本質はマニュアルではなく、解答抜きの問題集なのかもしれない。

 

しかも、模範解答が存在しない、オープンエンドの問題ばかりが詰め込まれた、最も厄介な類の問題集だ。

 

この世に同じ人間は一人とおらず、幸福の形もそれぞれ全く違う。

 

幸福に至る唯一の解答を聖書に求めるのはお門違いなのだろう。

 

意外なことに、聖書の教えを実践することで見えて来るのは、聖書の効能ではなく、読者の個性だ。

 

聖書の記述のどこに注目し、どう解釈し、どのように実践するかで、その人の人格や人生観が露骨に表出してくる。

 

聖書との向き合い方で、読者は自分の在り様を知り、それぞれの在り様に応じた唯一無二の幸福の答えを形作っていく。

 

聖書を読むことは、自分を読むことなのだ。

 

読む人全員が、これは自分のためだけに書かれたと思える本ならば、2000年に渡る大ロングセラーになっても不思議はない。