ボールペンの本体だけが余る問題
映画『トランスポート』
どんな映画?
薬物中毒で昏睡状態に陥った恋人・コーディを救うため、タイムマシンで過去を改変する若者・アートの悪戦苦闘と悲痛な決断を描いた映画。
感想
科学考証バッチリのSF巨編を期待させるPrime Videoのサムネイルにものの見事に騙された。
だが、期待外れにも関わらず、鑑賞後の満足感は期待以上という、詐欺の偽看板よりむしろ得をする不思議な良作。
広報担当の的外れな宣伝方針がいい意味で観客の虚を衝き、作品の実態とのギャップが、元々優れた作品の新鮮味を強化する。
ごくごく稀に発生する、製作サイドの意図せぬ様々な外部条件との意外な巡りあわせが、作品自体の面白さを一層高い次元に押し上げた稀有な一例。
こういう人智を超えた作品との出逢いには、本当に幸福を感じる。
タイムリープものだが、SFではなくおとぎ話に属するファンタジー。
肝心のタイムマシンは、生地のすり切れた粗大ごみのリクライニングソファに、クリスマスツリーの電飾をざっくり巻き付けた代物で、機械的構造を持つ物体という意味でなら確かにマシンはマシンだが、作動原理は空飛ぶ絨毯と似たり寄ったりの摩訶不思議パワー。
この「タイムマシン」を物語に持ち込む、得体の知れない廃品あさりのホームレス・ハーベイの、頼りがいはあるが怪しげな風体は、さながらシンデレラに魔法の馬車を提供する魔法使いを彷彿とさせ、本作の、論理を超越したおとぎ話的な雰囲気をいよいよ本格的なものにする。
だが、本作はおとぎ話というには少々苦い。
ケチなヤクの売人で、自身もヤク中の若者・アートと、紆余曲折を経て実家を飛び出し、今は体を売ってその日暮らしを送るこれまたヤク中の恋人・コーディのカップルは、格差社会のヒエラルキーからもはじき出された、社会の周辺に疎外された明日をも知れぬ身の上だ。
互いの存在だけを唯一の拠り所とし、享楽で不安を紛らわせながら、かろうじて辛い日々に耐えている。
そんなかけがえのない比翼であるコーディが、薬物中毒により突如昏睡状態に陥ったのだから、アートの絶望は計り知れない。
タイムマシンを手に入れたアートは、コーディが薬物中毒にならないよう、彼女が身を持ち崩して薬物中毒に至ってしまった原因となる出来事を未然に防ごうと過去へ跳ぶ。
普段の会話の端々に上る、彼女の人生を捻じ曲げた辛い思い出をにおわせるかすかな手掛かりを頼りに、アートはコーディの過去を辿り、短慮で不器用ならではの滑稽な失敗を繰り返しながらも、ターニングポイントと思われる不幸の数々を予防すべく奔走する。
だがいくらあがいても、現在のコーディの状態は一向に改善せず、ついに彼女は命を落とす。
そしてアートは気づく。
コーディが薬物中毒になり、命を落とす決定的なきっかけは、彼女がこの町に流れ着いたとき、アートが彼女と出逢い、ヤクを売りつけたことだと。
女子高でのいじめや兄の自殺、幼少期の暴行などより、自身がコーディを死に追いやる決定的な元凶だと悟ったアートは、二人の出逢いのタイミングにタイムマシンで駆け付け、まさにヤクを売りつける直前に過去の自分を警察に通報して逮捕させ、彼女が薬物中毒になる可能性を潰し、命を救う。
だがそれは同時に、コーディと恋人関係になるきっかけの喪失でもある。
切ないのは、アートがこの結果を十分に理解していた点だ。
それでも躊躇なくノータイムで悲痛な決断を実行に移せたのは、コーディへの想いが、短慮で浅墓なヤク中ならではの、理屈抜きの純愛だったからだ。
愚かであるからこそ、余計な打算や迷いに囚われず、単純な愛に殉じる決断に身を委ねられる。
愛ゆえに愛を失う本末転倒な結末に猪突猛進するアートが哀しくも格好いい。
論理と競争原理が支配する冷徹な社会に馴染めず、放逐された二人だからこそたどり着けた、おとぎ話のような浮世離れした境地がそこにある。
終わりに
本作のタイムマシンは設定上、未来へも跳べる。
だが、アートは未来へ行こうなどと思いつきもしない。
差し迫った恋人の死を回避することに夢中になっていたからかもしれないが、もしかすると自分たちの未来に先がないことを薄々自覚し、恐れていたからかもしれない。
それゆえに、命を拾った代償に互いの出逢いが無かったことになった赤の他人の二人が、同じバスで街を出るエンディングは感慨深い。
タイムマシンという奇跡でも未来へ辿り着けなかった二人が、何の変哲もないみすぼらしいバスで、互いを知らぬままありえなかった未来へと突き進む。
潰えるはずだった愛の可能性が未来へと繋がる少々甘めのエンディングの余韻が、悲痛な苦みに満たされたそれまでの展開で疲れた心を洗ってくれる。
時空ほど強力なものはない
勝てるのは 愛情くらいか
過去改変がうまくいかず意気消沈するアートを慰めるハーベイの言葉が、鑑賞後にはさらに身に染みる。
映画『ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男』
どんな映画?
ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男の映画。
以上。
感想
題名がストーリーを過不足なく完璧に説明している。
極限まで無駄を削いだ簡潔な筋書きと演出のおかげで、骨太い骨格の見事な威容を雑味無くストレートに味わえる。
主人公である退役軍人のカルヴィンの複雑怪奇な人生の顛末と情感を、冗漫の罠に陥らずにスリムに描けたのは、脚本や演出もさることながら、サム・エリオットという役者の、目立たずに目を引き、喋らずに語る、静謐にして重厚な演技によるところが大きい。
ヒトラー暗殺とビッグフット討伐は、掛け値なしの救世の偉業だが、その偉業達成のために彼が犠牲にした個人的な幸福や平穏とはけして釣り合わない。
任務は成功するでしょう
でも我々は――呪われた
カルヴィンの回想の中で、ヒトラー暗殺の成否を、ロシア人の現地協力者が髭剃りの出来で占うが、死と失敗の啓示が下される。
ロシア人協力者はインチキしてその結果を覆すが、そのインチキの代償について告げた上記のセリフが、カルヴィンのその後の「呪われた」人生を暗示する。
ライフワークバランスが破綻した男の悲哀が全編に満ち満ち、観ていて痛々しくもなるが、ゆえにカルヴィンの追憶や夢に現れる、大義の犠牲となったかつての幸福の残影の煌めきが際立つ。
アクションシーンは、緊張感を削ぐような余計な間や演出を一切排したテンポの良い展開で、要点をしっかりと抑えており、軽快ではあっても軽薄ではない。
特にビッグフット討伐にかかる急激な場面転換は、不意打ちで横っ面をひっぱたかれるような突然の衝撃を観客にもたらす。
ここから先は一瞬も目を離せないぞ、というあからさまな転調に込められたメッセージで、カルヴィンVSビッグフットの死闘の小気味良い緊迫感に、観客の心情をスムーズに導入する手際は秀逸の一言。
終わりに
野暮ったい題名や荒唐無稽なストーリーからしてそうだが、ヒトラー暗殺に用いられる007の黄金銃をオマージュしたと思しき組み立て式の拳銃やら、チープな着ぐるみ感バリバリのビッグフットやら、B級映画を象徴する安易なアイデアの使いまわしや低予算を匂わす要素には事欠かない作品だ。
にも拘わらず、視聴後の満足感はA級作品に勝るとも劣らないのは、人物造形のディテールが非常に稠密で奥深く、かつその描写に配慮が行き届いているからだ。
B級映画的な粗雑な物語背景や小道具は、登場人物の繊細な心情描写の対比物となり、著明なコントラストのギャップを生み出す演出装置として大きく貢献し、物語の主題である、哀愁に彩られた人生模様の機微に視聴者を深く没入させる強力な後押しとなっている。
B級映画の皮をかぶった本格ヒューマンドラマの傑作として、期待以上の満足感を得られる、お値段以上の逸品。
ふと我が身を省みると、ライフかあるいはワークに人生を「呪われ」てはいまいか怖くなり、髭を剃る手にも力が入る。
映画『ボス・ベイビー』
どんな映画?
大人の知性を持つ不思議な赤ちゃんボス・ベイビーと、彼を弟として迎えた少年ティムの、愛を巡るドタバタ冒険活劇。
感想
キッズムービーでありながら、いい歳こいた大人でも身につまされる、世の中をくまなく支配する世知辛い真理を赤裸々に突き付けてくるどぎつい映画。
ボス・ベイビーをはじめとするキャラクター達の、とことん愛らしさを追求した造形や所作が、緩衝材兼鎮痛剤になっていなければ、突き付けられるグロテスクな現実の衝撃と破壊力を耐え忍び、エンドロールまで到達できたか疑わしい。
限られた資源(パイ)を奪い合う、いわゆる「ゼロサムゲーム」の厳しい世界観を下敷きにした逸話や物語は数あれど、本作では奪い合う対象が、地位や名誉や金銭といった、世俗的なものではない。
なんと本作では、赤ちゃんに注がれる家族や人々の「愛」をゼロサムゲームの対象として奪い合うのだから、その世知辛さは並大抵ではない。
愛の総量には限界があるという、身もふたもない価値観にのっとり、最初はボス・ベイビーとティムが両親の愛を巡って骨肉の争いを演じ、のちには利害が一致した兄弟が、赤ちゃんに注がれる愛を掠め取りかねない、画期的に可愛い子犬を売り出す巨大ペット企業に立ち向かう。
本来、赤ちゃん(ベイビー)は、愛に象徴されるあらゆる資源を獲得するための競争を免除されてしかるべき存在だ(「べき」であって、現実にはそうでないケースが存在するのも事実だが)。
その赤ちゃんが、黒づくめのスーツに身を包み、ニヒルで冷徹なやり手の企業戦士の様相で、アジェンダを立て、部下に𠮟責交じりの訓示を垂れ、金銭によるえげつない買収も辞さず、よりにもよってその「愛」を巡って闘争本能むき出しで東奔西走する冒険活劇は、ミスマッチの妙を飛び越え、現代社会の風刺の域をはみ出し、純粋な悲哀を率直に誘う。
ラストシーンでは、ゼロサムゲームの賞品ではない「愛」の素晴らしさを悟ったボス・ベイビーの思い切った決断が感動的に描かれるが、序盤からクライマックスにかけて繰り広げられる「愛」の争奪戦の、命を懸けた生々しい迫力を希釈するには、尺も分量も明らかに不足しており、物語全体としては、殺伐とした雰囲気に傾いてしまっている。
終わりに
この作品を見たキッズの未熟な精神に、世の中の最も恐ろしい一面である容赦のない競争原理を刷り込みはしないかと戦々恐々としてしまう。
こんな心配は的外れの杞憂に違いないが、冷酷な企業戦士のコスプレと役回りを与えられた赤ちゃんという強烈なキャラクターは、いい年こいたおっさんに杞憂を抱かせるには十分すぎるほどシンボリックだ。
甘い夢を見せるより、世の中の厳しさを突き付ける作品の方が、将来の成功には大きく寄与するかもしれないが、その成功には常に闘争の影と脱落の恐怖が付きまとうに違いない。
三つ子の魂百までという格言を信じるなら、その闘争の習性は根深く人生を支配するだろう。
本『真夜中の子供たち』
どんな本?
イギリスの植民地支配からインドが独立した1947年8月15日0時0分、その直後に誕生した多種多様な超常の能力を持つ千と一人の〈真夜中の子供たち〉、その筆頭たるサリーム・シナイ。
身体に現れだした「割れ目」や「ひび」から死期を悟ったサリームが、波乱万丈にして奇妙奇天烈な半生を振り返り問わず語る、自叙伝形式の小説。
感想
通り一遍の理解を拒む、インドの多義性を言語化した物語。
サリームの半生の回想が、上下巻合わせて1000ページを超える膨大なボリュームを要した理由は、彼が自分の身に起こった出来事の因果関係と意味合いを、ことごとく詳細に解説しようと試みたからだ。
サリームの自分語りの基本方針は以下に引用した彼の言葉に集約される。
私を理解するためには、一つの世界を飲み込まなければならない。
(「真夜中の子供たち(下)」 岩波文庫 335ページ)
自分の半生を解説するために、祖父母の馴れ初めから順を追って話し始めるという、聞き手(読者)の都合を一切無視した冗長極まりない導入が、「一つの世界を飲み込まなければならない」という、不遜な基本方針を殊更に象徴している。
だが、この試みはその始まりから既に失敗が確定している。
サリームが、自身の半生を構成する森羅万象の因果関係をことごとく詳述するならば、祖父母の馴れ初めから始めるというのは中途半端もいいところで、横着といってもいい。
「一つの世界」と大見得を切るなら、物語の導入は祖父母の馴れ初めどころか、宇宙の開闢に始まる森羅万象の動向を粛々と記述しなければ、因果関係を余さず解説し尽くしたとは到底言えない。
だが、そんなことは物理的に不可能だ。
ゆえに、1000ページを費やしたとて、彼の試みは「シーツに開けた小さな穴」から、世界のごく一部を覗き見るような不完全な観察に留まり、全体を網羅し、的確に総括するには程遠く、偏見と抜粋の域を出ない。
しかしある意味で、彼の不遜な試みは成功している。
全てを解説しようと多大な労力を費やし、知れ切った失敗に至ることで、自分の半生を形成した世界の因果関係の途方もない大きさと複雑さを対照的に描写し、消去法による世界すべての記述に、擬似的ながら成功している。
挫折を覚悟した不遜は、一周回って謙虚となる。
偉大な存在の偉大さを表現する方法として、反逆者の傲慢を圧倒的な力で粉砕する、神話によく見られるパターンを、サリームは自らを道化役に割り当て踏襲し、「一つの世界」の大きさを表現する。
だが同時にサリームの半生は、矮小な一個人の行動によって壮大な世界が大きく揺れ動く、力関係の逆転も物語る。
全体が部分を翻弄しつつ、部分も全体を翻弄している。
全体が部分の総和であり、部分が全体の総和でもありうるのだ。
順当と逆転が相反せず同時並行して成り立つ、論理では理解も認識も困難な多義的な世界観が、サリームとインド社会を遍く満たしている。
本作では、その多義性を強調する重要な仕掛けとして、インドの代表的な宗教であるヒンドゥー教の様々な神の名前が登場する。
破壊と創造という相反する性質を司るシヴァ神や、四つの顔を持つブラフマー、そして象頭と人身のキメラであるガネーシャなど、性質や身体的特徴を複数持つ神々が少なくない。
頻々に引き合いに出され、時にその名を冠する登場人物の一筋縄ではいかない性格や役回りを暗示する神々の存在は、インドとそこに生きる人々の、ありとあらゆる概念を飲み込み消化し自家薬籠とする、渾然を良しとする貪婪で懐の深い精神性を象徴する。
本作全体を隅々まで満たすインド的な多義性を踏まえると、サリームに半生の回想を促した、彼を死に導くという身体の「割れ目」「ひび」の意味するところにも、再考の余地が現れてくる。
事故や病気といったありふれた死ではなく、なぜ「割れ目」「ひび」なのか?
サリームは変革を志し、しかし夢破れて消え去るだけの敗残者として自身を規定しているが、彼もまた悠久のインドの歴史の広大な因果関係における、紛れもない織目の一つであり、その経糸は未来へと否応なくつながっている。
サリームの偏狭な視点、つまり「シーツの穴」から覗き見る「割れ目」「ひび」は、身体の崩壊がもたらす死の予兆かもしれないが、見方を変えれば、何かが生まれる前に卵に生じる「割れ目」「ひび」とも解釈できる。
新生インドの可能性の象徴的存在として超能力を持って生まれてきた〈真夜中の子供たち〉の一人なのだから、その超常の死に様にも、未来のインドを占う象徴的意味が含まれていても不思議ではない。
サリームが自身の半生を総括し、原稿用紙にしたためる作業は、生殖細胞が減数分裂して自身の半身をこしらえる行程を想起させ、ますます卵のメタファーに実感がこもり、サリームに含まれる未来への可能性が垣間見えた気がする。
そう捉えると、物語のラストも、彼が散々否定した「楽観病」的な雰囲気がいくらか混じり、悲観一辺倒ではない、インドらしい悲喜こもごもとした混沌の雰囲気を取り戻す。
終わりに
ボリュームを差し引いても、非常に示唆に富む小説だが、その示唆は、文章化された部分だけでなく、されなかった部分全体にもある。
所定の規律に従い羅列された文字から意味が生まれ、秩序だった因果関係の叙述により物語が成立するが、その精製の過程で、物語からは現実世界の基本性質である「混沌」が排斥されてしまう。
本作では、多義的なモチーフや言い回しを湯水のごとく並べ立て、過去と現在と未来を混交する、気の遠くなるような構成の妙と労力の果てに、物語から排斥されてしまう膨大な混沌の輪郭が行間紙背に朧げに形を成し、読者の脳裏に像を描いていく。
また、論理を優先し、混沌の排斥に躍起になる西洋文明に対し、混沌をそのまま受け入れ、活力としているインド文化という背景も、混沌をより鮮やかに発色させる下地になっている。
インドに行かずとも世界観が変容しかねない、個人の人生と世界が呼応する劇的な様相を緻密に描き出した、歯ごたえ・ボリュームともに満点以上の作品。
本『これからのビジネスマンに絶対必要な教養 テクノロジー見るだけノート』
どんな本?
各界の最先端の革新的テクノロジーを、ビジネスの視点からわかりやすく図解する解説書。
感想
AIやビッグデータ、3Dプリンターやドローン、ゲノミクスや脱炭素、IoTや拡張現実など、耳慣れてわかっているつもりだが、いざ説明しようとすると途方に暮れてしまう、様々な先端テクノロジーの概要を簡単におさらいできる、テクノロジー音痴と情報弱者の二重苦を抱えた自分にはありがたいコンセプトの本。
単なるテクノロジーの紹介ではなく、ビジネス視点で分類された種目が取り上げられており、知的好奇心の所産ではなく、既に採算が取れるレベルで実用化されているか、あるいはその目途がつきそうな将来性のあるテクノロジーばかりが厳選され、まさに『これからのビジネスマンに絶対必要な教養』の冠に相応しい内容となっている。
気配りが行き届いていることに、こういった最新情報に敏いビジネスマンが多忙なのを見越して、さっくり二時間で全般的な知識を概覧できるというコンセプトに基づき、簡潔な説明にさらにイラスト図解を添え、一項目を見開き2ページに収めて視認性を高めるなど、速やかな情報取得を助ける様々な工夫を凝らした盤石のデザインとなっている。
とかく先端テクノロジーを取り扱った書籍はSFチックな雰囲気で浮世離れした印象を受けることもままあるが、本書では各項目の末尾に、紹介したテクノロジーでビジネスをしているスタートアップ企業の具体名と業務についても触れられており、地に足が着いている。
内容について特に印象に残ったのは、3Dプリンターのオールマイティな活躍だ。
自分の中で3Dプリンターは、せいぜいがおもちゃじみた小物や、試作品やモックアップを作る程度のテクノロジーだったが、現在では製品レベルの高精度な工業製品はもちろんのこと、オフィスビル建築から臓器生成まで幅広い分野で縦横無尽に実用化され、2040年のアメリカで100兆円規模の産業になるという試算もあるというのだから、テクノロジーの成長の早さにはただただ驚かされる。
ただ、世間から取り残された閉じこもりがちな人間が驚くぐらいで済めばいいのだが、テクノロジーの長足の進歩につきものの従来社会との軋轢も、その進歩の速度に比例して拡大し、早急な対処を余儀なくされている。
効率的な製造機械は労働者を失業に追いやり、強力な新兵器は戦争被害を拡げ、遺伝子操作技術や情報技術は新たな差別を生み、格差を助長する。
新しいテクノロジーによって生じる問題は、当然ながらこれまた新しい問題であり、つまりは新しい解決の方策を必要とする。
それがまた新しいテクノロジーを生む発端になったりするのだが、自家中毒じみた終わりの見えない鼬ごっこ、というか自業自得の無間地獄には辟易を覚える。
終わりに
なんだか悲観的な感想に到達してしまったが、人類が直面している当面の問題を解決してくれそうなテクノロジーのオンパレードには素直に胸が高鳴る。
映画『私はあなたのニグロではない』
どんな映画?
黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの正鵠を射る率直な発言と著述、命懸けの活動の軌跡をたどり、アメリカにおける黒人差別問題の歴史と本質に肉薄するドキュメンタリー。
感想
このような作家を知らなかったとは、つくづく己の浅学無知に忸怩たる思いになる。
今でこそ、ネットやSNSで身元を隠しながら、アメリカの黒人差別問題について、誰もがああだこうだ好き勝手論じられる時代となった。
だが、ボールドウィンがテレビに身を晒し、差別主義者や差別を容認する社会、時にはふがいない同士に対し、面と向かって真正面から歯に衣着せぬ苛烈な批判を投げかけていた20世紀半ばのアメリカにおいて、それは間違いなく命懸けの行為だった。
事実、黒人公民権運動の旗手たるメドガー、マルコムX、キング牧師、そして夥しい黒人が、残忍な差別主義の犠牲になり、命を落とした。
自由の国で、自由の訴求が死を招く、驚くべき矛盾。
その矛盾にボールドウィンを立ち向かわせたのは、勇気だけではなく、どうしようもない悲憤だった。
黒人差別問題の真の恐ろしさは、その無自覚や曲解にあるとボールドウィンは喝破する。
誰も彼もが、差別問題の本質をきちんと把握していない。
とあるテレビ討論番組に出演したボールドウィンが、物分かりのいいふりをした(あるいは本人は本気で「物分かりがいい」と自負しているのか)白人の学者の無知蒙昧で無神経な発言を捕まえて痛罵するシーンには、恐ろしい緊迫感が満ちている。
今にも白人の学者を殴り殺さんばかりのボールドウィンの怒気の放射は、画面越しでも十二分にわかるほど強烈であり、数十年の時と太平洋を隔てたはるかな距離を挟んでいるにもかかわらず、見る者の背筋を冷たくする。
そして、その凄まじい怒気の熱量を余すところなく痛烈なスピーチへと変換し、あくまで討論の姿勢を堅持した鋼の自制心には、畏怖を越えて、人外じみた神性さえ感じる。
だが、その怒気と自制心の見事な拮抗が生み出した珠玉のコメントを至近距離からぶつけられた当の白人の学者は、ボールドウィンの万感を込めた言葉に対し、ただただきょとんと、空虚な表情を返すだけなのだ。
この「物分かりのいい」白人の学者には、ボールドウィンの言葉の意味も、いわんや彼の心情もまるで理解できないのだ。
そして、それはこの学者に限らず、その他の黒人差別主義者たち全員に当てはまる症状でもある。
題名の『私はあなたのニグロではない』というボールドウィンの言葉は、この病状の骨子を的確に捉え端的に表現している。
差別主義者たちが自覚せず、あるいは曲解したり認めない事実とは、差別主義者たちは「ニグロ」無しでは生きられない、脆弱で依存的な存在であるという点だ。
アメリカは世界で最も豊かな国家だが、その豊かさは正当な工夫や努力の成果ではなく、恥ずべきインチキによる不正蓄財を礎とするのかりそめの豊かさだ。
アメリカ建国初期の発展を支えたのは、あまたの黒人奴隷の無償労働である。
あまたの労働者に支払われなかった給与の莫大な総体こそが、アメリカの豊かさの正体なのだ。
黒人差別主義者たちに限らず、アメリカで豊かさを享受する階層は、多かれ少なかれ、かつての奴隷たちと、その貧困を継承した貧しい子孫たちに借りがある。
そしてその借りは、富裕層がさらなる富を求める過程で今なお拡大している。
また、黒人を人種的劣位に配置することで、白人たちは相対的な優位に立ち、本来なら経済や学識、職業の違いから生じる分断を回避し、人種的・政治的団結を保ち、この体制を強固にしている。
つまり、黒人差別主義者にとって、差別対象としての「ニグロ」の存在は、経済的にも社会制度の安定のためにも必要欠くべからざる生命線なのだ。
黒人差別主義の根底に巣くう、浅ましく自己本位な生存本能の防衛反応が、なりふり構わぬ黒人への抑圧と寄生的依存症の正体だと看破したボールドウィンは、その幼稚で未熟な性根に『私はあなたのニグロではない』という名文句できっぱりとNOを突き付ける。
黒人差別主義者たちの暴虐や欺瞞を淀みのない明瞭な表現でばっさばっさと切り捨てる、ボールドウィンの力強いスピーチやコメントの数々は痛快そのものだ。
だが、黒人差別主義者には理性の言葉は届かず、返ってくるのはこん棒と銃弾ばかりである。
黒人差別主義者にとって、黒人=ニグロは、溺れる者の掴む藁なのだ。
「ニグロ」無しでは生きていけない以上、理性の言葉にいちいちほだされている余裕などなく、生命線である「ニグロ」を保持するためならば、あらゆる残虐非道が正当化されるというのが、黒人差別主義者たちの至上の倫理なのだ。
終わりに
本作では、卓越した黒人指導者たちの理性的な活動の輝きが際立つ反面、黒人たちを取り囲む黒人差別主義の暗闇の底知れなさも否応なく突き付けられる。
黒人と白人の人口比率は1対9であり、黒人側に与する白人がいることを考慮しても数的不利は否めない。
ゆえに、暴力に訴え出れば死を含めた再起不能の敗北は必至であり、ゆえに黒人が頼る道具が理性と言葉、団結と忍耐になったのは自然の流れである。
だがこの自然の流れは、数的有利にある白人側には逆方向に働き、数的有利が最も生かされる暴力への傾倒に至ってしまった。
短期的なスパンでは、明らかに理性に対し暴力は有利である。
数十年前にボールドウィンが喝破した黒人差別主義の真相が、いまだに世間には浸透せず、改めて現代の知識人が日の本に引っ張り出して解説付きで周知しなおさなければならない現状を見るに、差別廃止に向けた戦況が被差別側にとって芳しくないことは明らかだ。
だが、状況が好転する兆しが無いではない。
ボールドウィンやメドガー、マルコムXやキング牧師の時代には無かったネットやSNSといったメディアが、散逸しがちな個人の力を結集し、政府と拮抗し、時に打倒さえする巨大なうねりを作り出す結着材として機能する世の中になった。
何十年かけてもいまだ解決していない問題ではあるが、裏を返せば何十年も反対活動が継続しており、これは、圧倒的暴力に対して、理性と忍耐が敗北していない証左でもある。
終始憂愁と悲憤を含んだボールドウィンの言動だが、本作終盤に、「楽観的」という言葉を用い、将来への力強い期待を表明しており、様々なテクノロジーの後押しや長年の実績がこの将来への期待と合流し、また新たな局面が開けるかもしれない。