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シン・スパイダーマン……映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』


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概要

前作のラストで世間に正体を暴露されたスパイダーマンことピーター・パーカー(トム・ホランド)は、偽ヒーロー・ミステリオの悪行の濡れ衣も着せられ、世論の強烈なバッシングに曝される。

 

家族や恋人、仲間たちもバッシングに巻き込まれ、窮地に立たされたピーターは、ドクターストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)に事態の収拾を懇願する。

 

ドクターストレンジはスパイダーマンの正体を世界中の人々の記憶から消す魔術で騒動の収集を図るが、トラブルにより魔術が暴走した結果、並行世界であるマルチバースからスパイダーマンと因縁深いヴィランを呼び寄せ、世界の危機を招いてしまう。

 

 

シン

鑑賞後のこの爽快感、解放感には身に覚えがある。

 

『シン・エヴァンゲリオン』だ。

 

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『シン・エヴァンゲリオン』と本作の物語構造やシリーズにおける立ち位置は瓜二つだ。

 

息の長いコンテンツにたびたびの仕切り直しはつきものだ。

 

キャストの加齢や新規顧客の獲得、あるいは興行上の失敗の巻き返しなど、様々な理由で内容が刷新される。

 

その場合、旧作と新作のストーリー上の整合性をどうするかという問題が浮上する。

 

この問題の解決策として一番簡単でありがちなのは、旧作を無かったものとして扱い無視するスタンスだろう。

 

旧作ファンは、その解決策を致し方ないものとして納得した上で新作に乗り換えるか、あるいは受け入れがたいものとして脱落していく。

 

だが、新作へ乗り換えたファンでも、心のどこかにもやもやした消化不良の残滓が残る。

 

旧作のラストが、続編を匂わせていたり、あるいは後味の苦いバッドエンド風味だったら尚更だ。

 

その点で、「エヴァンゲリオン」も「スパイダーマン」も、ほとんど同じ経緯をなぞっている。

 

エヴァンゲリオン」は、TV版と旧劇場版で物議をかもし、満を持して発表された新劇場版でも、「Q」においてちゃぶ台返しともいえる尻切れトンボの結末を迎えた後、コロナによる続編公開の延期も含めて、足掛け9年もの間、ファンをやきもきさせた。

 

一方「スパイダーマン」は、無印スパイダーマンは好評だったものの、主役を務めたとビー・マグワイアの年齢が、年若いヒーローの青春劇という作風と合致しなくなったため、やむなく打ち切られた。

 

設定を刷新したアメイジングスパイダーマンでは、2作目でヒロインが死亡するという悲劇的なエンディングで幕を閉じたところに、興行成績の不振による打ち切りという後味の悪い結末を迎えている。

 

その後、スパイダーマンがマーベル・シネマティック・ユニヴァース(MCU)に組み込まれることになり、トム・ホランドが新たなスパイダーマンとして抜擢され、単独のシリーズとしても人気を博し今に至る。

 

エヴァンゲリオンスパイダーマンも二十年を優に越す歴史を重ねる中で、悲喜こもごもの紆余曲折を経ており、長年付き添ったファンであるほど、饐えて混濁した複雑な想いに囚われ悶々としていた。

 

エヴァの初期からのファンに至っては中年に差し掛かり、積もりに積もったフラストレーションがもはや諦観に置き換わろうかというタイミングで、満を持して公開された「シン・エヴァンゲリオン」は、ファンを苦しめた積年の鬱憤を余さず晴らし、25年越しのカタルシスをもたらした奇跡の完結編として、申し分のない掉尾を飾った。

 

ループとマルチバース

シン・エヴァンゲリオンが、新劇場版のみならず、TV版や旧劇場版、あるいはマンガやゲームを含む種々のメディアミックス作品すべてを総括し、一部の隙も無い整合性を保ちつつ、旧作すべてに正当な存在意義を与え、細大漏らさずハッピーエンドへ合流させるという離れ業を可能にしたのは、ループ世界という設定だった。

 

ループ世界という設定は、今となっては手垢のついた物語のガジェットとなっているが、ループの伏線の回収が、現実世界の25年に相当した作品というのは、社会現象にもなったエヴァンゲリオン級の大作では他に類がないのではないか。

 

半生以上を懸けて、TV版からリアルタイムで作品を追っていた私のような古株のファンにとっては、25年という年月の重みが相俟って、感動もひとしおだった。

 

これが旧作を無きものとして、新劇場版の4作品のみからなる大団円で幕を閉じていたとしたら、それはそれで一定の満足はしたろうが、ここまで晴れ晴れとしたカタルシスは得られなかったに違いない。

 

庵野秀明監督は、拡げに拡げた大風呂敷を見事に畳み、その下敷きになって窒息しかけていたファンを解放してくれた。

 

かたやスパイダーマンも、「ノー・ウェイ・ホーム」で、尻切れトンボで宙ぶらりんになっていた旧作のサルベージと補完を試み、本作ではその難行に成功したばかりか、スパイダーマンという存在の根源を問いつつ、新しい時代に適応したヒーロー像へマッシュアップするという、これまたシン・エヴァンゲリオンに負けず劣らずの離れ業をやってのけている。

 

エヴァがループという時間軸上の世界観の拡張でやったことを、スパイダーマンマルチバースという空間上の世界観の拡張でやりおおせた。

 

今作では、ヴィランとともに旧作のスパイダーマンマルチバースから召喚され、現世界のスパイダーマンと共闘する。

 

マルチバースから他のスパイダーマンが呼び出されるという展開は、『スパイダーマン:スパイダーバース』で既に映画化されている。

 

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一見同じ展開の焼き直しのように見えるが、「スパイダーバース」におけるマルチバースがお祭り的な賑やかさを作品に与えたのに対し、「ノー・ウェイ・ホーム」では久しぶりに開催した同窓会で、長年音信不通だった親友の消息を確認できたような安心感を作品にもたらしている。

 

トビー・マグワイアスパイダーマンも、アンドリュー・ガーフィールドスパイダーマンも、それぞれの世界でそれぞれの人生を懸命に生き抜き、ヒーローとして平和を守っていた形になったのだ。

 

両者の風体や身ごなしには加齢に伴う精彩の衰えを認めざるを得ないが、それがかえって両者が辛くも乗り越えた年月と、積み重ねた経験の重厚さを視聴者にリアルに想像させる。

 

偶然からヒーローになり、そのせいで大切な人を失った悲嘆を乗り越えた先人として、旧作のスパイダーマンが今作のスパイダーマンの心情に寄り添うシーンでは、三者の悲しみが共鳴し、ヒーローに課せられた「大いなる責任」の恐ろしい重さが胸を塞ぐが、その重さに挫けぬ決意の強さは、なお一層際立つ。

 

ただ、旧作とのコラボレーションで終わらないところが、本作の真骨頂である。

 

本作では、旧作の主人公たちやヴィランなど関係者一堂を集め、「スパイダーマン」という存在の再定義、もとい初心への回帰を志向する。

 

トム・ホランド版のスパイダーマンが誕生した経緯には、スパイダーマンMCUへの参加という商業的な背景がある。

 

作品設定的には、地球の平和を守るヒーローコミュニティ、アヴェンジャーズへの加入という形になる。

 

それはつまり、超人的な能力を誇るヒーローが協力しなければ太刀打ちできない、地球や宇宙規模の危機があるということの裏返しなのだが、アヴェンジャーズに加入した以上、スパイダーマンもそういったメガスケールの危機に対処せざるを得ない立場に追い込まれる。

 

その結果、「アヴェンジャーズ/エンドゲーム」で命を落としたトニー・スタークにリーダーとしての資質と将来性を見込まれ、その遺産と役割を継承する後継者に指名される。

 

だが、スパイダーマンのキャッチコピーは「親愛なる隣人」である。

 

成り行きで世界を救い、そのリーダーの後継者に祭り上げられても、もとをただせば自分が住む地方都市の治安を守る、地域限定のローカルヒーローなのだ。

 

更に厳密を期すならば、悪を裁く私刑執行人である「ヒーロー」ではなく、トラブルに遭って困った市民を救う「親愛なる隣人」である。

 

アヴェンジャーズに加入したせいで世界を救う羽目になったが、スパイダーマンの本来のあり方とは相当のギャップがあり、大きくなり過ぎた偶像としてのスパイダーマンと、その中身である、進学問題に汲々とするティーンエイジャーに過ぎないピーター・パーカーの未熟な精神との間に齟齬が生じ、その齟齬は本作でついに限界を来し、文字通りピーター・パーカーの世界に破綻の危機を招来する。

 

その齟齬を解消するために、大きくなり過ぎた責任範囲を、自分にとって都合のいい規模にまでスケールダウンしようという虫のいい無理を、「アヴェンジャーズ」で培ったコネクションを私的に濫用し、ドクター・ストレンジの魔術を利用してまで通そうとした結果が、本作の騒動の発端だ。

 

メタ的な話をすれば、ヒーローとは、その超人的な能力や特権を利他目的で行使する、世界平和の奉仕者であり、私利私欲に基づき能力や特権を濫用する者は、ヒーローの座から転落し、その報いを受けるという物語世界の理を表している。

 

ヒーローの座から転落したスパイダーマンは、再びその座に復帰するために、改めてヒーローの資格の再獲得を迫られる。

 

だがこの失墜は同時に、レールを外れて暴走し始めていたスパイダーマンという存在を一度緊急停止し、腰を落ち着けて軌道修正を図るまたとないチャンスにもなった。

 

本作の凄いところは、この軌道修正をMCU加入後のスパイダーマンだけに限定するのではなく、マルチバースという設定を活用して、スパイダーマンの歴史そのものにまで拡大した脚本にある。

 

世界を救うヒーローから真の隣人へ

振り返ってみれば、旧作のスパイダーマンも、規模は小さいながら、本来あるべき「親愛なる隣人」であるスパイダーマンのレールから、微妙に逸脱していた。

 

公正を期すならば、旧作のスパイダーマンは、公開当時のスパイダーマンとしては妥当な在り様だったが、現在の世情が求める「親愛なる隣人」像にはうまく当てはまらないのだ。

 

現在のアメリカでメインストリームの一部を成す思想には、多様性の受容がある。

 

世界が正義と悪の二元論で割り切れる単純な構造ではなく、多様な価値観が混交し、時に衝突する複雑系であるというのが、当世流行の世界観となっている。

 

その世界観に則せば、これまで排除されるだけだったヴィランにも、情状酌量の余地が生じてくる。

 

つまり、旧作では更生不能の悪党で、排除されるしかない異物として描かれたヴィランが、現在では、それぞれのやむにやまれぬ事情から悪の道に迷い込んでしまった、数奇な運命の犠牲者となり、討伐ではなく救済の対象となる。

 

話は戻って、スパイダーマンのキャッチコピーは、「ヒーロー」ではなく「親愛なる隣人」だ。

 

悪を裁く私刑執行人ではなく、困った人を助ける支援者こそが、その本質なのだ。

 

そしてその支援者としてのスパイダーマンこそ、世界を救ったヒーローチームの主要メンバーにして、そのリーダーであるアイアンマンの衣鉢を継ぐ後継者という、偉大な立場をかなぐり捨ててでも取り戻さなければならなかった、スパイダーマンの本来の在り様となる。

 

本作のスパイダーマンは、本来あり得ないやり直しの機会を与えられた。

 

犯した罪の報いとして死ぬ運命にあった旧作のヴィラン達に更生を促し、処刑による不可逆の断罪ではなく、社会に与えたダメージを回復する生産的な活動に携わる贖罪のチャンスを与えるべく、その支援に尽力する。

 

クライマックスで、トビー・マグワイアスパイダーマンがグリーンゴブリンに致命的な一撃を加えられた時も、激情に我を忘れることなく、安易な私刑執行を踏みとどまり、グリーンゴブリンの救済へつながる正しい行動を選択できた。

 

これは、プライベートの平穏を取り戻そうと、魔術を使ってまで世界の認識を改変しようとした、私情に流されまくりのピーターからの完全な脱却を象徴する。

 

そしてエンディングで、彼が躍起になって守ろうとしたプライベートの幸福を、世界のために捨てる決断は、彼が個人の枠を越えて、遂に真の「親愛なる隣人」であるスパイダーマンへと脱皮を果たした決定打となる。

 

世界を救うヒーローから真の隣人へ、スパイダーマンは遂に本来の姿への回帰を果たす。

 

「シン・エヴァンゲリオン」が、物語の中心を担った「エヴァンゲリオン」を不要なものとして切り捨てることで、逆説的に物語に決着をつけたように、「ノー・ウェイ・ホーム」も、ヒーローという立場を捨てることで、「親愛なる隣人」という、スパイダーマンの本性を取り戻した。

 

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという言葉の意味を、これほど実感させてくれる作品も珍しい。

 

積み重なる一方で決して減りはしない、長寿作品に付きまとうしがらみの呪縛という問題を、こうも鮮やかにきれいさっぱり解消し、無類の爽快感と解放感を与えてくれる作品に出遭えるだけでも幸運なのに、さして間を置かず、負けず劣らずのクオリティの二作目に出遭える幸運に恵まれる段に至っては、もはや幸福過ぎて恐ろしくすらある。

 

有終の美

本作で、トム・ホランド版のスパイダーマンもキリのいい区切りができた。

 

若いヒーローの青春劇という作品テーマからすれば、シリーズの続行に当たっては役者の若返りは必須であり、大作の製作期間が長くなりがちな点を考慮すると、トム・ホランドもそろそろ作品テーマにそぐわないキャスティングになる。

 

一抹の寂しさはあるが、もし今作でトム・ホランド版のスパイダーマンが終わりを迎えるなら、完璧な有終の美を飾ったと言える。

 

人気絶頂の作品と役者の組み合わせだけに、引き際を弁えるのは並大抵のことではない。

 

最近では、ダニエル・クレイグが007シリーズの引退を決めたが、老年を迎えようとするダニエルと、これから役者としてのキャリアの絶頂を迎えるトムでは事情が大きく異なり、引き際の判断は非常に難しいものになるだろう。

 

これからのスパイダーマン、ひいてはMCUの動向から尚更目が離せなくなる、一つの作品の枠に収まらない、出色の名作だった。

 

ノー・ウェイ・ホーム

副題の「ノー・ウェイ・ホーム」も、結末を見ると感慨深い。

 

保護者を喪い、かけがえのない絆を築いた人々の記憶から消えたピーターには、もはや帰る家は無い。

 

だがそれは、「親愛なる隣人」として活動する以上、避けては通れない「道」だ。

 

あらゆる人の隣人であるためには、特定の場所に居を構えることはできない。

 

どこにも居場所のない無宿人であるからこそ、あらゆるしがらみを無視して、どこへでも飛んでいき、誰の隣人にもなれる。

 

今こそ彼は、純粋な「スパイダーマン」になった。

 

だが、純粋は孤独に似て寂しくもある。

 

いつかトム・ホランドスパイダーマンも、別のバースのスパイダーマンに呼び出される機会に恵まれ、この寂しさを埋める機会がやってくることを願ってやまない。